私立第三新東京中学校
第百十五話・苦い杯
僕がリビングに行くと、加持さんは食卓の椅子に腰掛けていた。僕の方を向い
ていたわけではないのだが、足音で僕だと気づいたのか、振り返ると僕に声を
かけた。
「少しは元気を取り戻したみたいだな。」
「はい。ありがとうございました。加持さんのおかげで何だか心にわだかまっ
ていたものが、いくらか解消されたと思います。」
「そうか、それはよかった。」
加持さんはただ一言、僕に向かってそう答えた。僕は黙って加持さんの相向か
いの席に腰を掛ける。加持さんは僕に何も聞いてこなかったが、それは加持さ
んが僕のことを待っていてくれているということを示していた。僕はそんな加
持さんに応えられるかどうかわからないが、これから真剣に考えて行こうとい
う決意を新たにしたのであった。
僕と加持さんがただ黙っていると、いつのまにかアスカが僕の側に来て、菜箸
を手に持ちながら僕に言ってきた。
「シンジ、寝てなきゃ駄目じゃないの!!せっかくアタシがシンジを休ませて
あげようと思ってるのに!!」
僕は別に悪びれるところはなかったのだが、いきなりのことに慌てて、思わず
反射的にアスカに謝った。
「ご、ごめん、アスカ。」
するとアスカは重ねて僕に言った。
「布団に入ってなさいよ。疲れてるときは、風邪をひきやすいもんなのよ。」
「で、でも・・・・」
「いいから!!アタシの好意を無にするつもり!?」
「そ、そういう訳じゃないけど、僕はもう何ともないし、それに・・・・」
「それに?何なのよ?」
僕がちょっとくちごもると、アスカはあまり機嫌のよさそうな顔をせずに、僕
に続きを求めた。すると、僕はちょっと恥ずかしがりながら、アスカに答えた。
「それに・・・・お腹空いちゃって・・・・」
「何ですって!?アンタ、さっき食べたばっかりじゃないの。」
「でも、あんまりいい匂いがするから・・・・・」
僕がそう言うと、アスカは僕に顔を近づけてまじまじと見た後、元の体勢に戻
ってこう言った。
「・・・・いいわよ。シンジの分も用意してあげる。その代わり、残すんじゃ
ないわよ。」
「わかってるって。今はいくらでも食べられそうな気がするんだ。」
「・・・なんだかシンジにしては珍しいこと言うわね。どうかしたの?」
「別になんでもないよ。それより僕も手伝おうか?三人でした方が早いし・・・」
僕が完全に言い終わらないうちに、アスカは大きな声で拒んだ。
「いいわよ!!今日はシンジ無しで作るって決めたんだから、シンジはおとな
しく座ってて!!」
「わ、わかったよ・・・・」
「じゃあ、おとなしく待ってなさいよ、いいわね!!」
アスカはそれだけ言うと、菜箸を振りかざしてまた台所の方に戻っていった。
僕はただ呆然とアスカの背中を眺めるだけだった。すると、ちょうどミサトさ
んがリビングにやってきたようで、大きな声で宣言した。
「よ〜し、今日も飲むわよ!!」
そして、真っ先に冷蔵庫の前に行って、中から缶ビールを持てるだけ持ってき
て、加持さんのとなりにどっかと腰を下ろした。僕はミサトさんのその様子に
あきれていたが、とにかく声を掛けてみた。
「ミサトさん、いいんですか?今日もリツコさんにお説教されたんでしょう?」
すると、ミサトさんはうれしそうな顔をして、僕に答えた。
「なんとリツコは今日は出張だったのよね。だから、お説教もされなかったし、
明日になるまで帰ってこないらしいから、遠慮なくビールが飲めるってもんな
のよ。まさにラッキーよね!!」
「でも・・・リツコさんが知ったらきっと怒りますよ。」
「いいのいいの。今日は加持に無理矢理飲まされたことにしておくから。」
加持さんはミサトさんのその言葉を聞くと、ちょっと困った顔を見せてミサト
さんに言った。
「おいおい・・・・俺が悪事の片棒を担がされるって言うのか?」
「悪事じゃないわよ。ただ、リツコの目をごまかすだけのこと。そもそもお酒
を飲むのは健康にもいい事なんだから。」
「しかし、リッちゃんがそんな見え透いた嘘に乗せられると思うか?」
加持さんはもっともな事を言う。僕も加持さんの考えは当たっていると思うし、
そんな嘘にだまされる人間は誰もいないように思われた。しかし、ミサトさん
は平気な顔をして加持さんに言った。
「ばれたらその時はその時よ。とにかくアタシは飲みたいの。もう禁酒なんて
やってられないわ!!」
ミサトさんは完全に吹っ切れてしまったようだ。昨晩、というか今朝浴びるほ
どお酒を飲んだことで、改めて、抑え付けられていた酒への執着心が再び目覚
めたのだろうか?僕がそう思っていると、案の定ミサトさんはいきなり二本の
ビールの口を開け、片手で自分が飲みながら、もう片方の手で加持さんの方に
もう一本のビールを突きつけていた。加持さんはしぶしぶミサトさんの手から
ビールを受け取ると、ゆっくり口をつけた。僕は加持さんがミサトさんの犠牲
になるのはかわいそうに思っていたが、余計な口出しをすると僕も巻き込まれ
る恐れがあるため、固く口を閉ざして何も見なかった事にしたのだった。
まもなく料理が出来上がった。椅子が足りなかったのでもう一つ持ってきて、
これで全員がそろったというわけだ。今日はいくら加持さんがお客として来て
いても、さすがに昨日の豪華な料理は無理というもので、割と普通のありふれ
たおかずであった。野菜炒めや大根の煮物、味噌汁といったものがいろいろ並
んでいる。アスカも今日はワインを飲まない事にしたようで、傍らのコップに
は牛乳が注がれていた。
「いただきまーす!!」
僕と綾波も挨拶をしたのだが、アスカの声に消されてしまった。アスカは結構
お腹が空いていたらしく、早速箸を取り、食べはじめた。まあ、今日のお昼は
弁当でなく、パンだったからお腹が空いてしまっているのも当然の事であろう。
ミサトさんはまだ昨日ほどは酔っていないようだが、まったく遠慮などしてい
ない様子なので、僕には時間の問題に思われた。
そして綾波はというと、僕の隣で静かに箸を進めている。綾波はお昼は確かパ
ンにも手をつけなかったような気がしたが、それでも綾波は至って普通であっ
た。僕が綾波の事を見ていたのはほんの少しの間の事であったのだが、綾波は
僕の視線に気づいて僕の方を向くと、僕に声を掛けた。
「碇君?」
「あ、何でもないよ、綾波。ごめんごめん、邪魔しちゃったみたいで・・・・」
僕は綾波にすぐさま謝ったのだが、綾波は僕の言葉を聞くと、僕をじっと見つ
めたまま、小さな声でこう言った。
「・・・・碇君に見られるの、うれしいから・・・・だから、気にしないで。」
「そ、そう?」
「うん・・・・」
綾波はひとことそう答えると、再び食事を再開させた。しかし、その頬はさっ
きまでとは違って、赤味を帯びていたのだった。僕はそんな綾波の様子を見る
と、黙って箸を取り、自分も食べはじめた。
料理は綾波の味付けであるらしく、割と薄味で繊細なものであった。別に嫌い
ではないのであるが、さっきおじやを食べた事もあるので、僕はご飯には手を
つけずに、ただおかずをつまむだけであった。すると、それを見ていたアスカ
が僕にたずねてくる。
「白いご飯には手をつけないの?」
「ん、うん。さっきおじやを食べたからね。おかずだけでいいと思って・・・・」
「・・・・味が薄いと思ってるんでしょ?」
アスカは僕の目を見つめて、小さな声でそう言う。僕はそれをアスカが怒って
いるのだと思って、慌ててその言葉を否定した。
「そ、そんなことないよ!!とってもおいしいよ!!」
アスカはそんな僕の様子を見ると、すっと僕の耳元に口を近づけてささやいた。
「・・・そんな慌てなくてもいいわよ。実はアタシもそうなの。アタシは濃い
味付けの方が好きだから・・・・・」
「本当なの?」
「アタシが嘘ついてどうすんのよ?」
「それはそうだけど・・・・」
「レイが料理がうまいって言うのはほんとだけど・・・・」
「なに?」
「アタシはシンジの作るやつの方が好きだな。」
「そ、そう?」
「そうよ。って言うより、アタシがシンジの味に慣れちゃったんだけどね。あ
の娘はシンジの味を目指してるみたいだけど、やっぱりちょっと違うのよ。お
弁当に入れてくる卵焼きなんかはシンジとほとんど変わらないんだけど、他の
ものは何だかちょっと違うのよね・・・・」
「・・・そうかもしれないね。で、そのことを綾波に教えてあげるの?」
「・・・・そのうち、ね。アタシがもっと料理が上手になってから、教えてあ
げるわ。でないとアタシとあの娘との差が、ずっと広がっちゃうもの。」
「・・・・・」
僕はアスカの言葉に何を言うでもなくただ黙っていたら、アスカはちょっと心
配したのか、僕に尋ねて来た。
「・・・シンジはアタシがそう思ってる事、イヤ?」
「そんなことないよ。いつかは教えてあげるんだろう?」
「そうだけど・・・・アタシ、ずっと料理なんて上手にならないかもよ?」
「そんなことないよ。アスカもすぐうまくなるさ。」
「・・・・シンジはそう思う?」
「うん。」
「どうして?理由はあるの?」
「あるよ。」
「なに?言ってみて。」
「アスカは頑張り屋さんだから。」
「・・・・そうね。」
僕がそう言うと、アスカは元気なく僕に返事をした。僕はそんなアスカを見て、
心配に思って尋ねてみる。
「どうしたの、アスカ?」
「・・・・なんでもない。」
「ほんと?何だか急に元気なくなったけど・・・・」
「・・・・アタシが頑張れるのは、シンジのためだからね。」
「え!?」
「アタシはずっと人の目を気にして頑張って来たけど、今は違うから。今はシ
ンジのために、頑張ってるんだから・・・・」
「・・・・・」
僕がアスカの言葉に何も言えずにいると、アスカは僕に向かって言った。
「気にしないで。ただ、シンジに覚えていて欲しかっただけだから。」
「う、うん・・・・」
「さ、たべましょ。」
こうして、僕とアスカがテーブルの方に意識を戻すと、向かい側にはにんまり
と笑みを浮かべたミサトさんがこっちを向いていた。
「何二人の世界に入ってんのよぉ。」
「そ、そんなんじゃないです。」
僕がミサトさんの茶化しに慌てて否定すると、ミサトさんは僕とアスカに向か
って言った。
「ごまかしたって無駄よ。そんな二人でぴったりくっついてひそひそ話をして
るんだから。レイがかわいそうじゃないの?」
「おいおい、葛城・・・・」
酔いはじめたミサトさんを加持さんは止めようとしたが、それよりも僕の目は
綾波に向けられた。綾波は、唇を軽くかみ締めていたが、僕が綾波の方に振り
向くと、綾波は僕の事をじっと見つめたまま、黙って僕の袖口をくいくいと引
っ張った。
僕はそんな綾波に向かって掛ける言葉が見当たらなかった。別にアスカと話を
した事については悪い事と思っていないのだが、綾波にとってはそうではなか
った。アスカが綾波に寛容的になっていただけに、僕はついついあまりそうい
うことを気にしなくなっていたのだ。
綾波は僕の袖口を引っ張って僕の注意を引いただけで、今のところはおとなし
くしてくれたようだった。しかし、これから先はこう収まるとは限らない。加
持さんが言うように、このままの関係で僕たち三人がここで一緒に暮らしてい
くには、無理があるのだろうか?僕がこのままうじうじしていれば、いつかは
アスカも綾波も爆発してしまうかもしれない。現に今のアスカは耐えに耐えて
いる。そんなアスカを見るのはかわいそうだった。
僕が決断を下せなかったとしても、そのうち僕はここを出てゆかなければなら
なくなるであろう。
僕はそう思うと、これからの事に緊張し、手元にあった牛乳の入ったコップを
手に取ると、一気にぐっと飲み干した。そう、僕はいかに苦い決断であろうと、
進んでその杯を飲み干してゆかなければならないのだ・・・・
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