私立第三新東京中学校

第百十一話・僕の心


「シンジ君。」

渚さんが僕に声をかけた。僕はアスカと綾波の二人と話をしていて、渚さんの
存在をすっかり忘れていたのだ。僕はその事に気がつくと、慌てて渚さんの方
を向いて謝った。

「な、渚さん、ごめん!!放っておいたみたいで・・・・」

すると、渚さんは微笑みながら僕に言った。

「いいんだよ、シンジ君。君たち三人の麗しい愛情を見せてもらったんだから、
僕はそんな事は気にしないよ。」
「で、でも・・・・・」
「とにかく、今日は僕はお邪魔みたいだね。シンジ君の家に行くのはまた今度
にするよ。じゃあ。」

渚さんはそう言うと、僕の言葉も待たずに僕に背を向けて、そのまま走ってい
った。そして、少し行ってから、渚さんは僕の方を振り向いて大きな声で僕に
言った。

「また明日、君に逢える時を楽しみにしているよ、シンジ君!!」

渚さんはそう言うと、また僕に背を向けて走り去った。僕はそんな渚さんの後
ろ姿を、呆然として眺めていた。すると、アスカが僕の後ろから声をかける。

「・・・・帰りましょ、シンジ。こんなところにずっと立っていても、しょう
がないでしょ。」
「うん・・・・そうだね。」

僕は振り返ってそう言うと、また再び家に向かって歩き始めた。
しかし、僕の心の中にはある一つの疑問に満たされていた。それは、渚さんは
何を考えているのだろうという事だ。渚さんが仮に使徒ではないと仮定すると、
その言動というのはかつての綾波以上におかしなところがある。昔の綾波とい
うのは、誰とも付き合わなかっただけなので、従って人に干渉してくる事もな
かった。しかし、渚さんは割と積極的に僕に干渉してくる。僕だけでなく、綾
波やアスかにも頻繁に話し掛けてくる。でも、その言葉というのは何だかおか
しなもので、全く感情を感じさせない。全て理性の名の下に自分の言葉を展開
しているかのようだ。
僕の知った中で、そんな人は一人もいなかった。あのリツコさんでさえ、あの
時僕とミサトさんに自分の感情をさらけ出した。父さんも、綾波に対しては理
性の箍を外したという話も聞いているし、少なくとも感情を持たない人間はい
ないと思う。あの綾波にしてさえ、今では心の中に激しい感情を持っているの
を僕は知っている。ただ、それを表現するすべと、それをほとばしらせる対象
がなかっただけであった。
しかし、何だか渚さんのそれというのはどうもそういった物とは一線を画して
いるような気がする。全てを理解していて、それでその全てを我が支配下に置
いているというような・・・・それに、僕に好意があると言ったのに、それに
してはかなり淡白である。アスカだったら、ここでいきなり引き下がるような
事はないだろうに。では、渚さんが僕を好きだと言ったのは、本心からではな
く、軽い冗談なのだろうか。いや、僕にはそうとも思えない。渚さんはそんな
風に軽口をたたくような人には僕には見えない。多分、渚さんが言った事は本
当の事だろう。では、どうして・・・・僕は別に渚さんに付きまとわれたいと
か、そういう事は全くない。はっきり言ってむしろその反対だ。しかし、自分
の理解の外にある事は、無性に気になるというのも事実だ。
僕は渚さんを気にしている。それは男が女に持つものとは異なっていると言え
ども、それでも僕が彼女を僕の中で一種特別な存在にしている事は事実だ。僕
が付き合いをしている人間というのは、ごく限られた数であるので、僕にとっ
て、渚さんというのは大きな位置を占める存在だ。そして、それは日増しに大
きくなっている。僕は渚さんと話をしても、より理解を深めていくどころか、
わからなくなる事の方が多い。渚さんは・・・・・

「碇君。」

僕がずっと考え事をしていると、綾波が僕に声をかけてきた。僕が綾波の方を
向くと、綾波は僕の顔を心配そうな顔で覗き込んでいる。僕はそんな綾波の顔
を見ると、安心させようとしてやさしく言った。

「何でもないよ、綾波。僕の事は気にしなくていいから。ちょっと考え事をし
てただけだから。」

しかし、僕がそう言っても、綾波の曇った表情は晴れない。そして、アスカが
綾波に続く様に僕に言った。

「・・・・シンジ、もう、家に着いたんだけど・・・・・」

僕はアスカに言われてはっとすると、慌ててまわりを見渡した。そして、自分
が今どこにいるかに気が付き、アスカと綾波に謝った。

「ご、ごめん、アスカ、綾波。僕、何だか考え事に夢中になってたみたいで。」

僕がそう言うと、アスカは僕の目を見つめて、優しい表情をした。それはとて
も、物柔らかな顔で、アスカは僕に対してもめったに見せるものではなかった。
そして、アスカはそのまま僕に静かに、心を込めて言った。

「・・・・心配事があるんだったら、アタシに話してよ。シンジのためなら、
アタシ、どんなことでもするから。それに、シンジにはアタシだけでなく、レ
イもいるじゃない。」
「・・・・ありがとう、アスカ。でも、ほんとになんでもないんだよ。」

僕がアスカにそう応えると、アスカは悲しげな顔をして言った。

「・・・今日のシンジ、どこかおかしいよ。何だか疲れたような、寂しいよう
なそんな顔をしてるし・・・・・」
「・・・そう・・・・かな・・・?」
「・・・そうよ。そんなに何かが辛いの?アタシ達では、シンジを癒せないの?
アタシもレイも、こんなにシンジの事を想っているのに・・・・・」
「・・・・アスカ・・・・・」
「アタシ達にとってのシンジのように、シンジにとってアタシ達はそんな存在
にはなれないの?シンジの心に安らぎと安心を与える、そんな存在に・・・・」

アスカがそう言うのを聞いて、僕は明るい顔を見せてアスカに言った。

「・・・・僕にとって、二人はそういう存在だよ。だから・・・」
「じゃあ、どうしてそんな顔をしてるの!?シンジの言う事が本当だったら、
シンジはそんな辛そうな顔はしてないはずよ!!」
「・・・・・・何も・・・・辛くなんてないよ。アスカの気のせいだよ。きっ
と・・・・」

アスカは僕のその言葉を聞くと、何だか辛そうな顔をして黙っていた。そして、
少しして、僕にひとこと言った。

「・・・中に入りましょ。」
「・・・うん。」

そして、アスカは僕に背を向けると、先へ進んでいった。僕はそんなアスカの
背中を呆然として眺めていたが、そんな僕に綾波が声をかけた。

「・・・碇君、さあ・・・・」
「・・・・」

こうして、僕はアスカに続いて歩いていった。綾波が、僕の横についていてく
れた。だが、僕の心は少しも安らぎを感じなかった。ただ、アスカの言葉が僕
の心に重くのしかかっていたのだった。

家の中に入ると、アスカが僕に言った。

「少し寝てた方がいいわね。疲れてるのには、寝るのが一番だから。」
「・・・・そうだね。悪いけど、そうさせてもらうよ。」
「夕食は、アタシとレイで作っておくから。だからシンジは安心して休んでて。
出来たら起こしてあげるから。」
「うん。何だか悪いね、アスカ、綾波。」
「いいのよ。本当だったら、シンジはこんなアタシ達のために料理なんかする
必要もなかったんだから。」

アスカがそう言うと、綾波も僕に向かって言った。

「碇君は何もしなくていいから。私が碇君のために、毎日食事を作って上げる
から・・・・」
「ま、レイはこう言ってるけど、シンジも自分の仕事って言うか、趣味を取ら
れるのもかわいそうだから、毎日って言う訳にはいかないけど、今後から交代
で料理をしましょ。」
「う、うん・・・・」
「・・・私は、碇君が望むなら、毎日でもいいわ。出来るだけ多く、碇君に私
の手料理を食べてもらいたいから・・・・」
「アンタは黙ってて。アタシだってそうよ。でも、シンジの事も考えてあげな
いと。」
「・・・・アスカ・・・何だか済まないね。」
「いいのよ、シンジ。アンタのいないところで、この娘をしっかりとしつけて
おいてあげるから。全く・・・・考えてみても分別の無い娘よね。」
「・・・そんなことないわ。でも、私には何よりも碇君が優先するから、あな
たにはそう見えるだけ。」
「バカ。それが分別の無い証なのよ。いい、シンジを特別扱いするのはいいん
だけど、これは二人っきりの時とかにこっそりやるか、さりげなく誰にもわか
らないようにやるのもんなのよ。」
「・・・・どうして?私はいつどこででも、私が碇君を一番に想っている事を
碇君に示してあげたい。」
「それもいいけど、シンジはそういうのを嫌がるし、第一さりげなくやる方が、
よっぽど効果的なのよ。」
「・・・・そういうものなの?」
「そうよ。いいから、今度試してみるといいわ。」
「・・・わかったわ。そうしてみる事にする。」

アスカと綾波は、何だか僕が側にいて聞いているのも忘れて、熱心に僕を攻め
落とす方法を話し合っている。僕はそんな二人に呆れていたものの、何だか二
人が仲良く話し合っている姿は、見ていて心地よいものがあった。僕はそう思
うと、二人に向かってこう言った。

「じゃあ、僕は先にうがいをしてくるから。僕がいない方が、話しやすいだろ?」

僕はそう言うと、洗面所の方に歩いていった。アスカはびっくりして、僕に向
かって言う。

「ご、ごめん、シンジ!!アタシ達、つい話し込んじゃってて!!」
「いいんだよ、別に!!僕は気になんかしてないんだから!!それよりもアス
カと綾波が仲良くしてくれてた事が、僕はうれしかったよ!!」

アスカはそんな僕の言葉を聞くと、元気な声で僕に言った。

「おいしいご飯を作ったげるから、ゆっくり休んでて!!シンジはここでは、
何にも辛い目にはあわないんだからね!!」

僕はそんなアスカの言葉に、軽く微笑んでてを振ってやる。そして僕はまた、
洗面所の方に向かって行った。
僕はコップを手にしてうがいをし、手を軽く水で濡らした程度に洗う。そして、
僕は正面にある鏡に映る自分の顔を眺めた。僕はそんなにアスカが言うほど、
辛い顔をしていたんだろうか?僕にはどうもそんな感じには見えなかった。僕
は至っていつも通りの顔だし、別に少しも変わったところは見られない。
僕は鏡に向かって笑って見せる。僕は辛くなんてないはずだ。僕は今まで以上
に幸せを感じているし、問題は全て解決の方向に向かっている。では、なぜア
スカはあんな事を言うのだろう?僕の目には見えない何かが、アスカの目には
映っていたのだろうか?僕は笑うのをやめ、真剣な顔をして、自分の顔を見つ
めた。
すると、鏡にもうひとつの顔が映った。それは綾波だった。僕は振り返ると、
綾波の事を見た。すると綾波は、僕に向かってひとこと尋ねた。

「次・・・いい?」

僕はちょっと驚いて、綾波に答える。

「う、うん。いいけど・・・・」

僕はそう言って、綾波に場所を譲った。綾波は僕のいた場所に来ると、コップ
を取って軽くうがいをした。そして僕は、そんな綾波の後ろ姿を見つめていた。
すると綾波は、僕に背を向けたままの姿勢で、僕にこう言った。

「・・・・碇君は碇君よ。碇君が私を私としてみてくれたように、私にとって
は碇君は碇君でしかないの。辛かろうと、苦しかろうと、人がどんな目で見よ
うと、碇君は碇君。私にやさしくしてくれた、碇君のままなの。」
「綾波・・・・」

綾波は、手を洗い終えて僕の方を向いて言った。

「ゆっくり休んで。碇君には、私がついているから・・・・」

綾波はそう言うと、そのまま僕を残してリビングの方に消えた。僕の視界から
綾波が見えなくなると、僕は自分の部屋に戻った。そして、制服を脱いで楽な
格好になると、そのままベッドに入った。僕は顔を枕に押し付けて、自分の顔
を隠した。誰が見ている訳でもないのに、僕はそうしたのだ。

僕は何なんだろう・・・・?

僕の心は千々に乱れていた。僕は自分が分からなくなっていた。そして、僕は
いつのまにか、眠りに就いていた・・・・・


続きを読む

戻る