私立第三新東京中学校

第百五話・笑顔の生む安息


「碇君、碇君!!」

誰かが僕を呼ぶ。僕はなぜだかわからないが、いつのまにかぼんやりとしてい
た頭をはっきりさせようと、意識を集中させた。すると、ようやくだんだん現
実を取り戻していった。

「ん・・・・洞木さんか・・・・」
「どうしたのよ、急にぼーっとしちゃって?大丈夫、顔色もあんまりよくない
けど?」
「な、何でもないよ。僕は平気だから。」
「そう?ならいいんだけど・・・・」
「ほ、ほんと、大丈夫だから。」

僕は何とか、心配そうな顔をしている洞木さんを安心させることに成功した。
しかし、僕は確か渚さんに話し掛けられていたような・・・・気のせいだった
のだろうか?真綿で締め付けられたようにぼんやりとした頭の中で、なぜか渚
さんの声のようなものが、不自然に反響していたのだ。その内容というのもよ
く思い出せないのだが、重要なことというのだけは僕にわかっていた。
僕は、僕の見た夢のようなものの正体を、渚さんに求めるのは筋違いだとは知
りながらも、なぜかその方に視線を走らせずにはいられなかった。

僕が周囲をぐるりと見まわすと、渚さんは僕より少し離れた、みんなの輪の少
し外に立っていた。僕はすぐに渚さんの居場所に気付いたのだが、僕が渚さん
に視線を合わせるとすぐに、渚さんもそれに気付いたのか、今までのように、
とはいってもまだ知り合ってから一日足らずなのであるが、とにかく僕と視線
を交わす時にはいつも見せる、あのけむるような微笑みをすぐさま浮かべてき
た。僕はそれに驚いてしかるべきなのであったが、今の僕には、なぜかそれが
当然のように思えて、何の違和感も無く僕の心の中に受け入れられた。

僕のおなじみの懐疑的な精神は、すっかり影を潜めてしまっていた。僕はそれ
まで、渚さんは使徒かもしれない、危険な存在であるからくれぐれも注意する
ようにと言われていたはずなのに、そんな事は全く頭から抜け落ちてしまって
いた。僕はおもむろに洞木さんの後ろに立っていた渚さんに話し掛けた。

「渚さん、ちょっと・・・・」

渚さんは僕に話し掛けられると、するりと僕の前に出てきて、僕に向かって尋
ねてきた。

「何だいシンジ君?僕に何か用かい?」

僕はそう言われて、思わずはっとした。特に話をすることなどなかったのだ。
僕は今はじめてその事に気がつくと、おもむろにおたおたしてしまった。洞木
さんやトウジなどは、そんな僕のことを不思議そうな目で見ている。そして話
し掛けられた当人の渚さんはというと、何を考えているのかわからない、一種
独特の微笑みを浮かべていた。僕はそれを見ると、今のこの状態を忘れて、渚
さんの持つ微笑みの多彩さを感じていた。すると、渚さんは僕の心の中を覗い
たかのように、軽く苦笑すると、僕に向かって言った。

「用も無いのにこの僕に話し掛けてくれたんだね。うれしいよ、シンジ君。」

僕はその言葉に我に返って、慌てて否定した。

「え!?い、いや、そういうつもりじゃ・・・・」
「じゃあ、どうしてこの僕に話し掛けてくれたんだい?」
「そ、それは・・・・・」
「恥ずかしがらなくてもいいって。やっぱり君も、この僕の魅力に気がついた
んだろう?」
「そ、そんなんじゃないよ。僕は別に・・・・」

渚さんの言葉に、僕は一層うろたえの度合いを増して、訴えかけるように渚さ
んに言った。すると渚さんは僕に向かって微笑みながらこう言った。

「・・・君の口から本心を引き出すのは、かなり大変なことになりそうだね。
あの二人もきっと苦労しただろう。でも、僕はそんなところに、君の繊細さを
改めて感じるよ。やっぱり君は、僕の好意に値する人間だったね・・・・」
「え・・・・!?」

僕は改めて聞かされた「好意」という言葉に、思わず顔を赤く染めてしまった。
それを横で見ていた洞木さんは、急に僕に話し掛けてきた。

「ほ、ほら、碇君!!そろそろアスカが綾波さんを連れて戻ってくるわ。だか
ら先にあたし達でお昼の用意をしてましょ!?」

僕は洞木さんの声を聞くと、ようやく渚さんから解放されたかのようにほっと
一息ついて、洞木さんに話をした。

「う、うん。でも、僕たち今朝は寝坊したから、弁当作ってきてないんだ。だ
からパンを買いに行かないと・・・・・」
「そう・・・・なら、碇君はここに残って、相田君と渚さんに買ってきてもら
った方がいいわね・・・・・」
「え!?でも・・・・・」
「碇君は、あの二人が戻ってきた時には、ここにいた方がいいでしょ?」
「そ、それはそうだけど・・・・」

僕は洞木さんのその意見に、まだ躊躇した様子を見せていると、ケンスケが僕
に言ってきた。

「気にしなくていいよ、シンジ。俺がシンジ達の分の買ってきてやるからさ。」
「いいの、ケンスケ?」
「いいっていいって。大した事じゃないし、友達だろ?」
「あ、ありがとう、ケンスケ・・・・」
「ああ。じゃあ、渚さん、行こうか・・・・」

ケンスケはそう行って、渚さんに同道を促す。ケンスケにそう言われた渚さん
は、ケンスケに言葉を返す。

「わかったよ、相田君・・・・」

しかし、渚さんは去り際に、何と言っていいかわからないような一瞥を、僕に
くれていった。僕はその意味をはかろうと頭をひねったが、その時、それまで
黙っていたトウジが、僕に尋ねてきた。

「ところでシンジ?今朝は一体どうしたんや?わいらが迎えに行っても出てこ
んし、昼近くになってやっと来る始末や。それに、綾波まで一緒やったし・・・・」

僕はトウジの問いをきくと、まだ僕たちが遅刻した理由について一言もしゃべ
っていなかったことに気付いて、ここにいるトウジと洞木さんの二人にだけ聞
こえるように、小さめの声で答えた。

「ちょっと、みんなでお酒を飲んじゃったんだ・・・・それで、酔いつぶれて、
気がついたらもう十時過ぎ、そういう訳だよ。」
「なんや、せやったんか。」

トウジは僕の答えを聞いても、全く驚くことなくすんなり受け止めたのだった
が、洞木さんは結構意外に感じたのか、驚いた表情で言った。

「そ、そんなになるまでお酒を飲んだの!?碇君がついていながら!?」

確かに洞木さんのいう通りだ。僕はそういう時は、みんなを止めている存在で
あったはずだ。僕は洞木さんの言葉にちょっぴり反省すると、洞木さんに向か
って謝った。

「ご、ごめん、洞木さん・・・・」
「別に碇君があたしに謝る必要はないわよ。でも、どうして綾波さんもなの?
綾波さんは、碇君以上にそういうのは受け付けなさそうなのに・・・・」
「き、昨日は綾波の引っ越し祝いだったからさ。アスカが無理矢理飲ませたん
だよ。」

すると、トウジがいきなり大きな声を上げて言う。

「引っ越し祝い!?どういうこっちゃ、シンジ!?」
「あ、綾波も、僕たちのうちに引っ越してくることになったんだ。そ、そうい
う訳。」

僕はトウジに答えながら、ちょっと失敗したと思った。まあ、事実なのである
し、僕にはどうしようもないことなのであるが。

「どうして今更綾波がシンジのうちに引っ越す必要があるっちゅうんや?」
「そ、それは・・・・」

トウジの持つ疑問というのは、ごく当然のものであった。しかし、僕もトウジ
達に向かって、渚さんから僕を綾波に守ってもらうため、とはとてもじゃない
けど言えるものではなかった。
僕がくちごもっていると、洞木さんまでもが僕に答えを求めてくる。

「ほんと、どうしてなの、碇君?」
「あ、綾波もあんなところに一人じゃ寂しいし、それに・・・・」

僕は取り敢えずそんな事を言ってみたのだったが、洞木さんは僕の様子を見て、
何かあると感じてくれたようで、それ以上追求しないでいてくれた。

「わかったわ、碇君。とにかく、今度から綾波さんの家には迎えに行かなくて
いいのね?」
「う、うん。ありがとう、洞木さん。そういうことだから。」

僕は洞木さんにお礼を述べる。すると、後ろから一言、声が掛かった。

「碇君・・・・」

僕はすぐさま振り向く。そこにいたのは綾波だった。そのすぐ後ろに、アスカ
も立っている。綾波は僕が振り向いたのを見ると、軽くアスカの方を振り返っ
てから、また僕の方に向かって、そして謝ってきた。

「ごめんなさい、碇君。私、碇君の気持ちを全く考えていなかったみたいで・・・・」
「綾波・・・・」
「私、あの人に聞かされたの。碇君が本当はどういう風に思っているかを・・・・」
「・・・・」
「私、碇君が迷惑してるなんて全く気付かずに、自分勝手に振る舞っていたみ
たい・・・・」
「・・・・」
「でも、碇君は私を傷つけないようにって、いつもやさしくしてくれて・・・・」
「・・・・」
「ごめんなさい、碇君。私はもっと、碇君の気持ちを理解するように努力する
から。碇君が側に置いておきたいって思う、そんな存在になりたいから・・・・」
「・・・・・」

そして、綾波の言葉に続いてアスカが僕に言う。

「レイもようやくわかってくれたみたいだし、よかったわね、シンジ。」
「う、うん。ありがとう、アスカ。」
「こういう時は、アンタよりもアタシが言った方がよかったのよ。これでよく
分かったでしょ!?」
「うん。」
「じゃ、仲直りの握手。っていっても、仲なんて悪くなってた訳じゃないんだ
けどね。」

アスカがそう言うと、綾波は事前にアスカにこの事を言われていたのか、そっ
と僕より先に手を差し伸べてきた。僕はそれを見ると、やさしく綾波の手をと
る。そして、お互いに軽く握り合った。その後、綾波が僕に向かって言う。

「私、頑張るから。あの人より、碇君を理解するように・・・・」

僕はそんな綾波の言葉を聞くと、黙ってもう片方の空いた手を綾波の肩に乗せ
て、ぽんぽんと軽くたたいた。すると、綾波の顔がだんだん真っ赤になってき
た。それは僕の目にもはっきりとわかるほどであったので、ちょっと驚いて綾
波に声を掛けようと少し近づいたその時、綾波がついと身体を伸ばしてきた。
そして、綾波の唇が僕の唇に触れる。それは一瞬のことであったが、明らかに
綾波が意図したキスであることは間違いなかった。
僕がびっくりして唇を手で押さえると、綾波が僕に向かって言う。

「キスの回数も、あの人に負けないから・・・・・」

そして、僕と同じように、片手でそっと自分の唇を押さえる。
僕は、僕と綾波が同じ仕種をしているということに気がついて、ちょっと顔を
赤くした。しかし、それを見たアスカが憤慨して綾波に言う。

「ちょ、ちょっと、そんな事しろってアタシは教えたつもりはないわよ!!握
手だけのはずだったじゃないの!!」

すると綾波は、学校でははじめて見せるような笑った顔で、アスカに言った。

「あなたの言葉を参考にするだけじゃ、あなた以上にはなれないでしょ!!」
「そ、そんな事ならアンタに言ってあげるんじゃなかったわ!!」
「もう遅いわ!!私はもう、碇君の気持ちを理解しはじめっちゃったんだから!!」

それを聞いたアスカは、真っ赤な顔をして綾波に迫る。すると綾波はするりと
僕の背中に回って僕に耳打ちする。

「碇君、あの人から私を守って。」

耳打ちとは言っても、僕だけに聞こえるようなものではなく、アスカの耳にも
届くようなものだった。そんな訳で、アスカは一層おっかない顔をすると、僕
に向かって言う。

「どきなさい、シンジ!!そんな女を守ってやる必要なんてないわ!!」
「ア、アスカ・・・」
「碇君は絶対私を守ってくれるわ。だって碇君はやさしいもの。」
「シンジは誰にでもやさしいのよ!!」
「でも、私には特別。私にはわかるもの。この唇を通じて・・・・」

綾波はそう言ってまた片手で唇に触れる。アスカはそんな綾波を見ると、大声
を張り上げて言う。

「シンジの唇はアタシだけのものよ!!アンタのものじゃないんだから!!」

すると、それを聞いた綾波が僕の方を向いて言う。

「碇君は確かみんなの前で大声でそういう事を言われるのが嫌いなのよね・・・・」
「うるさいわね、アタシは特別なのよ!!」

アスカはそう言って綾波を追いかける。綾波は僕の身体を盾にして、アスカか
ら逃げ回った。ふたりで僕のまわりをぐるぐる回って、楽しく追い掛け合った。
僕はそれを見ながら、ゆったりとした気分に満たされていた。綾波とアスカが
楽しくやりあえるようになって、僕はとてもうれしかった。特に綾波がこんな
笑顔をみんなの前で振りまけるなんて・・・・
今の綾波を見れば、誰も綾波のことを人形なんて言ったりしないだろう。僕は
そう思うと、思わず微笑みがこぼれてきた。そして、ほんのひとときの間だけ、
胸の内の苦しみを忘れることが出来たのであった・・・・・


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