私立第三新東京中学校
第百三話・冷たい心
ガラガラッ!!
アスカは、遠慮もせずに大きな音を立てて教室のドアを開けた。
授業中は割と静かだったらしく、その音でみんなが一斉にこっちに注目する。
そして、そろそろお昼休みの時間という事で、授業にも飽きてきていたのか、
張り詰めた空気が一気にほどけて、教室内は一転してガヤガヤ騒がしくなる。
このクラスでは既に問題児の僕とアスカ、そして同居しているミサトさんまで
が、揃って学校に来ていなかったのだ。そして、トウジやケンスケの、今朝は
迎えに行ったけれど誰もいなかったというような話を聞かされて、様々な憶測
が生まれてもいたのだろう。とにかく、教室中にいろいろな話が飛び交い始め
た。黙って、端末か何かで話をすればいいのに、やはりそうも行かないらしい。
きっとひそひそばなしの方が、雰囲気もいいのだろう。
それはともかく、こうしてドアのところで立ち尽くしている訳にも行かなかっ
たので、アスカは僕の手を放すと、周囲の目も気にせず、すたすたと自分の席
の方に歩いて行った。それを見た僕も、ドアからすぐの自分の席に向かった。
が、しかし、つい綾波と手をつないでいるのを忘れてしまっていたのだ。僕は
自分の席についてそれに気が付き、自分の愚かさに重いっきり後悔した。そし
て、しょぼくれながら綾波にこう言う。
「もう・・・手、離してもいいよね。」
すると綾波は、少々顔を赤らめながら僕に向かってこう言う。
「・・・だめ。」
「っだ、駄目ってどうして!?」
「私がこうしていたいから。碇君は嫌?」
「い、嫌とかそういう訳じゃないんだけど・・・・」
「ならいいでしょ?私は碇君に迷惑を掛けるつもりはないから。」
僕は無邪気にそう言う綾波を見ながら、困り果てていた。綾波は人の目を気に
しないからそう言えるのだろうが、僕はそうではないのだ。僕はそんな訳で、
言い訳じみた事を綾波に言った。
「で、でも・・・・ほら、授業が受けにくいだろ!?やっぱり片手がふさがっ
てると・・・・・」
「じゃあ、私が碇君の左手になってあげる。碇君の左手がしたい事は、みんな
私がしてあげるから。それならいいでしょ?」
綾波は自分のするであろうこれからの事に胸を躍らせて、目を輝かせながら僕
に言った。僕はこんな綾波を見ると、むげに突き放してしまう事も出来かねて、
仕方なく、了解した。どうせあと十分もしないで、お昼休みになるのだ。そう、
それまでの辛抱なんだ・・・・
「わ、わかったよ、綾波。じゃあ、お昼時間までね。」
「うん。ありがとう、碇君。」
うれしそうに返事をする綾波を見ながら、僕は情けない自分にうんざりとして
いた。本当に僕って駄目な奴だなあ・・・・・
僕は綾波に左手を取られながら、授業を受け始めた。どうせ誰かに見られてい
るだろうが、無視無視!!人間にはあきらめと開き直りが大切なのだ。
僕は悟ったようにそう考えていたが、やはりなかなか平然ともしていられなか
った。僕は何とか普通でいようと努力して、先生の方に視線を向ける。すると
綾波が僕の手をくいくいと引いてきた。
「なに、綾波?」
「左手で何かしたい事、ない?」
「へ!?」
「碇君の左手の代わりに、私が何かしてあげたいから。」
「そ、そう言われてもねえ・・・・」
「何でもするから。」
「何でもって、ほんとに何も無いんだよ。」
僕はちょっとうんざりして、綾波にそういった。綾波は僕の言葉の中に、僕の
気持ちを感じ取ったのか、残念そうに謝ってきた。
「そう・・・・ごめんなさい、わがまま言って。」
「いいんだよ、別に。」
僕は綾波の沈んだ表情を見て、ちょっとかわいそうになってやさしく慰めた。
しかし、綾波はなかなか元気を取り戻しはしなかった。
「でも・・・・私、碇君を困らせているばかりで・・・・」
「そ、そんな事無いって。うん。綾波も気にしないでよ。」
「・・・・・」
「そ、そうだ、教科書のページをめくってよ。僕の左手の代わりに。」
僕は何とか綾波を元気付けようと思って、慌てて思い付くがままに綾波にそう
言った。
「・・・碇・・・・くん?」
「だから、綾波が僕の教科書のページをめくってよ。ね!!」
「私がしても・・・・いいの?」
「いいんだってば。頼むよ。」
「うん!!」
綾波はようやく元気を取り戻すと、僕の方に身体を伸ばして、空いた左手で机
の上の教科書のページをめくろうとする。僕は綾波が教科書に届き易いように、
ちょっとからだをひねる。それはちょうど綾波の方を向く格好となった。
綾波は教科書に手を伸ばす。しかし、ちょっと不安定だったのか、いきなり僕
の胸の中に、ぽてっと倒れ込んできた。
「あ、綾波?」
僕は綾波の肩に手をやると、倒れ込んだ綾波を抱え起こす。
「大丈夫?もう、教科書なんていいから。綾波に余計な事頼んで悪かったね。」
「ごめんなさい、碇君・・・・」
「さ、席について。もう手も離そう。これで分かっただろ?」
「ごめんなさい・・・・」
「気にしないで。綾波の事を責めてなんかいないんだからさ。」
「でも・・・・」
「いいって。ね、元気だしてよ。」
「・・・・・」
「綾波・・・?」
「碇君っ!!」
綾波はやさしく慰めている僕に、いきなり抱き付いてきた。ただでさえ抱き合
っているように見える形だというのに、綾波は完全に僕の胸の中になだれかか
ると、左手を僕の背中に回して抱きしめる。
「あ、綾波、ちょっと!?」
僕は思わずびっくりして、授業中だというのに、大きな声を出してしまった。
そして、今まで僕たちの事を見ていないで、授業に集中していた人達も、みん
なが僕と綾波の方に注目した。僕は綾波に抱きしめられながらも、慌てて弁解
する。
「こ、これは違うんだ!!誤解なんだよ!!」
しかし、この状態を見れば、言い訳など通じるはずも無い。それよりも僕が慌
てて言い訳に走ったのを見て、更に周囲の誤解を招く結果となった。
辺りがまた、ざわざわし始める。すると、いきなり洞木さんが立ち上がって、
みんなに向かって注意した。
「静かにしてください!!まだ授業中よ!!」
確かに終わりのチャイムは鳴っていない。しかし、もうほとんど終わりにして
しまってもいいようなくらいしか、時間は残っていなかった。そんな事もあっ
てか、なかなか洞木さんの注意も効果が無く、ざわつきはおさまる気配も無か
った。僕はまるで他人事のように洞木さんに同情していると、いきなり洞木さ
んは、今度はこっちを向いて顔を真っ赤にしながら、僕と綾波に言ってきた。
「い、碇君に綾波さん!!今は授業中よ!!そ、そう言う恥ずかしい事は、休
み時間にしてください!!」
洞木さんの言葉に、クラス中がどおっと喚声を上げる。あの真面目一辺倒の洞
木さんから出た言葉だ。それだけになんだか凄いものを感じたのだろう。僕は
うろたえながら周囲に目をやると、いつのまにか先生がいなくなっていた。も
う終わりの時間だし、そういう事にしたんだろう。リツコさんやマヤさんだと、
もっとひどいことになったであろうが、あの初老の先生も、あれはあれで困っ
たものだった。
そして、誰かが先生はもう帰った事に気がついたのか、席を立ち始め、こっち
に群がってきた。しかし、綾波はというと、そんなものは耳にも届いていない
のか、完全に僕の胸に顔を埋めて、幸せそうな表情を見せている。はっきり言
って、人の気も知らずに呑気なもんだと思ったが、その一方で、綾波のそんな
幸せそうな表情が、僕にはなぜか綺麗に感じた。
綾波は、ずっと不幸な少女だった。いや、厳密に言えば、本当の幸せを知らな
かっただけなのかもしれない。現に、僕と出会う前の綾波は、父さんとずっと
一緒にいたのだろう。でも、僕と出会って、綾波はそれが偽りのものだとはじ
めて気付いた。果たして綾波に、以前の綾波の記憶が何がしか残っているのか、
僕にはわからなかったが、それでも綾波は父さんよりも僕を選んだ。僕は、父
さんが僕に対してどういう人間だったかをよく知っているので、それは至極当
然な事だと思っていた。それに僕は綾波に恋をしてはいないにしても、僕は心
の底から綾波の事を思い、悩んでいた。言わば、僕だけが綾波のことを、「実
験体」だとか、「代用品」だとか、そういう目では見なかったのだ。僕にとっ
ては綾波は綾波でしかなかったのだが、どうもみんなにはそれが理解できなか
ったらしい。綾波の秘密を知らぬ人でさえ、綾波を避けた。僕はそんな綾波が
心底かわいそうになって、僕だけは綾波の事を見ていてあげようと思った。
人は全ての人を幸せにする事は出来ない。そんな事くらい、僕にだってわかる。
でも、僕は出来る限りの事がしたかった。僕は自分が不幸だった分、その痛み
は人一倍分かるのだ。そして、人を幸せにする事によって、僕も幸せになれれ
ばいいと思った。
僕はどうやら、人を幸せにする事は出来そうな気がしていた。この今の綾波の
姿を見ていればそれがわかったし、アスカも最近では、ついこの間まで入院し
ていたのが嘘のように明るくなり、アスカがいい方向に向かっているのが実感
できた。
でも、なんだか違う。そんな気がしていた。僕はみんなを幸せにすれば、僕も
幸せになれると思っていたけど、どうやらそれも間違いらしい。
何がおかしいんだろう?
そして僕は何を間違っていたのだろう?
僕は一人、考えていた。今のこの喧騒が嘘のようだ。
僕の心はなぜか穏やかで、涼しげだった。しかし、それは決して心地いいもの
ではない。却って僕の心を冷やし、凍り付かせるようなものであった。僕は胸
の中に綾波がいても、全くあたたかく感じなかった。心が身体を冷やすのだろ
う。僕は為すすべの無い魂の震えをこらえながら、誰かが僕を救ってくれるの
を待っていた。僕の心を暖めてくれる誰かを・・・・・
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