私立第三新東京中学校
第七十二話・十一時の誤解
しばらく気まずい雰囲気が流れたのであるが、特に何事も無く、僕たちは駅前
に着いた。僕たちは割とのんびり歩いていたので、もうすぐ時計の針は十一時
を指そうかというところだ。まだ日曜の午前中という事もあり、人通りはそれ
ほど多くない。それは僕たちの目的地であるデパートも同じ事で、閑散と、と
いうところまではいかないが、まだ混雑するピークには程遠い。
「早く中に入りましょうよ。」
アスカがみんなを促す。僕らはそれぞれに返事をしながら、アスカに従った。
残念な事に、綾波はアスカに言葉を返すという事はなかったが。
デパートの中は、まだ出来てそれほど経っていないという事もあり、かなりき
れいである。無論、デパートというのはきれいなものなのであるが、僕はいつ
も買い物はスーパーで済ませている事もあり、それと比べるとやっぱり違う。
トウジやケンスケ、それに洞木さんはどうか知らないが、僕はめったに駅前ま
で出てくる事はない。アスカも、もしかしたら病院から退院してから、一度も
こういうところに足を延ばした事はないのではなかろうか?僕はそう思い、ア
スカの方を見る。アスカは洞木さんと何やら話をしていたが、何だか楽しそう
に見えた。やっぱりアスカも女の子だ。こういうところに買い物に来るのは楽
しいものなのかもしれない。男の僕にとってはめんど臭いだけなのだが、きっ
とアスカ達にはそうではないのだろう。僕はそんな平凡な日常生活を微笑まし
く思い、自然と顔がほころんだ。
「碇君。」
僕はアスカ達の方に気を取られていたので、綾波が急に僕に声をかけると、び
っくりしてしまった。
「あ、綾波!?な、なに?」
「どうしたの、碇君?」
「え!?別にどうもしないけど。」
「でも、碇君は笑っているわ。あの人を見て・・・・」
「あ、ああ。何だかこういうのもいいもんだなあ、と思ってさ。」
「どういうこと?」
「うん。こうして買い物に来られるのも、平和な証拠だと思うんだ。そう考え
ると、何だかうれしくなってね。」
「そうなの・・・・よかった。」
「え!?何が?」
「碇君の微笑みが、あの人の為に注がれたのではないとわかって。今日だけは、
私にだけ、それを向けて欲しいから。」
「あ、ああ。そう言えば、今日は綾波の為に来たんだもんね。綾波が主役なん
だから、みんなにも綾波の為に協力してもらわないと。」
そう言って、僕がみんなを集めに呼びに行こうとすると、綾波が僕の袖をつか
んで、僕を止めると、顔を赤く染めながら僕に向かって言った。
「いかないで、碇君。」
「え、どうしてさ!?」
「・・・・私は、碇君だけいてくれれば、他の人はいらないから・・・・」
「で、でも・・・」
「碇君は、今日はずっと私の側にいて。そして私から少しも離れないで。」
「う、うん。別にそれくらいはいいけど、それが綾波が僕にして欲しいってい
う事?」
「違うわ。碇君がそう言うのなら、私はまだ我慢するから・・・・」
綾波はそう言うと、明らかに悲しそうな顔をして見せた。僕はちょっとまずい
事をいったかな、と思い、綾波に元気付けるように言った。
「べ、別に我慢なんてしなくていいよ。そのくらい、お願いの内に入れなくて
もしてあげるから。」
「本当!?」
「もちろんだよ、綾波。」
「ありがとう、碇君。やっぱり碇君は、優しい・・・・」
「そ、そんな事無いよ。」
「ううん、碇君は私がわがまま言っても、ちゃんとそれに答えてくれる。だか
ら私は、碇君の前でなら、本当の自分を出せる。私はその事がうれしいの。そ
して、私をそうしてくれる碇君に、私は感謝してる。」
「綾波・・・・」
と、僕が言葉を詰まらせたところで、前方から洞木さんの声がかかった。
「碇くーん、綾波さーん、何してるのー!!先行くわよー!!」
「あ、ごめーん!!洞木さん、今すぐ行くからー!!」
僕はそう洞木さんに向かって叫ぶと、慌てて何も考えずに綾波の手をつかむと、
みんなのいる方に走って行った。
「ごめんごめん、洞木さん。」
僕はわずかに息を切らせながら、洞木さんに向かって謝った。
「もう、遅いじゃない、碇君。って、あら?」
洞木さんは何に気付いたのか、急に言葉を止める。僕は何事かと洞木さんに向
かって尋ねる。
「どうしたの、洞木さん?急に黙って?」
「碇君、その手・・・・」
洞木さんは、そう言いながら僕の手を指差す。僕はそれを見ると、はっとして
自分が綾波の手を握っている事に気がついた。僕は顔を赤くすると、慌てて洞
木さんに弁解しながら手を離そうとする。
「ち、違うんだよ、洞木さん。これはつまり・・・・」
僕はそう言いながら、綾波が僕の手をしっかりと握って放さない事に気がつい
た。
「ちょ、ちょっと綾波・・・手を放して・・・・」
僕は綾波に向かってそう言うが、綾波は僕の言葉など耳に入っていないかのよ
うに、一人つぶやく。
「碇君が私の手を握ってくれた・・・・」
「あ、綾波!!」
「碇君が私の手を・・・うれしい・・・・」
「ちょ、ちょっと!!」
僕が困ったような顔をして、綾波に何とか僕の話を聞いてもらおうとしていた
その時、僕の横から声がかかった。
「バカシンジ!!」
そして僕が振り向くやいなや、ビンタの一閃。僕には余りに急な事だったので、
一体何が起こったのか分からなかった。そして、痛みとともに、現実が僕にも
飲み込めてきた。僕はアスカのビンタを食らったのだ。そして、それに気付く
と、アスカはもう既にデパートの中に駆け込んでいた。
「アスカ!!」
洞木さんがそう叫び、アスカの後を追いかけようとする。しかし、少し行こう
としたところで、さっと振り返り、僕に向かって叫んだ。
「何してるのよ、碇君!!アスカを追いかけて!!」
「う、うん!!」
僕は洞木さんにそう答えて、アスカを追いかけようとすると、僕は先へ進む事
が出来なかった。綾波が、まだ僕の手をしっかりと握り締めていたからだ。
「あ、綾波、放して!!お願いだから!!」
僕はそう、懇願するように綾波に叫ぶが、綾波はまるで僕の声が聞こえていな
いかのように、一人つぶやき続ける。
「碇君が私に差し伸べてくれたこの手・・・・私は二度と放さない・・・・」
僕は綾波が完全に自分の世界に入ってしまっている事を悟ると、綾波の肩を余
った片手できつめにつかむと、もう一度綾波に呼びかけた。
「綾波!!」
すると綾波ははっと我に返って言った。
「碇・・・くん?」
「綾波、しっかりして!!」
僕が重ねて綾波に言うと、綾波は僕のことを見つめて言った。
「碇君・・・・」
そして、僕の腫れ上がった頬に気付いて、余ったもう片方の手を僕の赤くなっ
た頬に当てて言った。
「どうしたの、碇君?頬が赤くなっているわ。」
「そんな事はどうでもいいんだ!!」
「よくないわ。またあの人にたたかれたの?可哀相に・・・・」
「可哀相なのはアスカの方だよ!!」
「どうして?」
「アスカは怒って行ってしまったんだ!!」
「そう・・・いいじゃない、別に。あんな野蛮な人がいなくても、碇君には私
がいるから。」
僕は綾波のこの言い草に思わずかっと来て、怒鳴ろうとした。しかし、その時、
横でこの話を聞いていたトウジが綾波に言った。
「綾波!!なんちゅう言い草や!!シンジに謝れ!!」
「ト、トウジ!?」
僕は気勢をそがれた格好で、トウジの事を見る。その当のトウジは、綾波に更
に大きな声で言い続ける。
「シンジが惣流の事、心配しとるのはわかるやろ!!お前はそれを邪魔するっ
ちゅうんか!?」
「・・・・」
「シンジの困る事はせん、そう言ったんは嘘だったんか!?」
トウジの言葉を聞いた綾波は、僕に向かって謝って来た。
「ごめんなさい、碇君・・・・私・・・・・」
「いいんだ、綾波。」
「ごめんなさい・・・・」
綾波は謝りながら手を離す。すると、僕は解き放たれるや否や、駆け出して行
った。そして、ちょっと行って振り返ると、トウジに向かって言う。
「トウジ、ありがとう!!後でゆっくり付いて来てよ!!」
僕はそれだけ言うと、洞木さんに続いてアスカを探しにいった。後に残された
綾波は、まだ自分が僕に迷惑をかけてしまったという事に沈んでいた。そして
また、僕が自分でなくアスカの元へ行ったという事実も、綾波の胸に大きくの
しかかっていたのだ。そんな綾波と一緒にいたのは、トウジとケンスケで、こ
の二人は、綾波の事を腫れ物に触るかのような態度でもって見つめていた。特
にトウジは自分が綾波に言ってしまったという事もあって、何だかすまなげに
綾波を見ている。そして、とうとう黙っていられなくなって、綾波に謝った。
「すまんかったな、綾波。余計なこと言うてしもて。」
「・・・・」
「しかし、今はこうするしかなかったんや。」
「・・・・」
「でも、心配する事あらへんで。シンジは綾波の事を嫌ったりはせえへん。」
「ほんと・・・?」
綾波はトウジのその言葉を聞くと、はじめて顔を上げた。トウジはそれを見る
と、わずかに安心した様子を見せて、綾波に言った。
「シンジはええ奴やで。きっと綾波の事もわかってくれるはずや。それに、今
こうして惣流のとこに行ったんも、あいつが優しいからや。別に惣流に決めた
からっちゅう訳やない。」
「今の言葉、信じていいの?」
すると、今度はトウジの代わりに、ケンスケが綾波に向かって言う。
「当たり前じゃないか。綾波だって、シンジがどういう奴だか、知ってるだろ?」
「うん。私は碇君を信じてる・・・・」
「なら信じきる事だよ。シンジはそれにふさわしい奴だと、俺は思うな。」
ケンスケがそう言うと、トウジが元気よく言った。
「さあ、シンジ達を追いかけるで!!早くせんと、昼飯の時間になってしまう
わ!!」
こうして、トウジとケンスケ、そして綾波の三人は、僕たちを追って、デパー
トの中へと走って行った。そして時計の針は、今丁度、十一時を指したところ
だった・・・・
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