私立第三新東京中学校
第六十八話・強さ
嵐は過ぎ去った。
リツコさん達は本当はもっと長居するつもりだったのだろうが、食事が終わる
なり早々に帰る事にしたのだ。綾波もリツコさんに連れられて帰っていった。
綾波はまだここに残っていたいような顔をしていたが、リツコさんが強く綾波
に帰るように言い、また、僕もそれに同意したので、おとなしく従ってくれた
のだ。僕は別にリツコさんの意見に賛成する必要もなかったのだが、このまま
綾波とリツコさんを対立させておくと、ただでさえ気まずい雰囲気なのに、更
に問題になるという事を恐れて、僕も綾波に帰るように言った。僕たちがみん
なを玄関まで見送った際、綾波は最後まで僕の事をじっと見つめていた。しか
し、僕はなぜか綾波に目を合わせられなかった。たとえ理由はどうあれ、僕が
綾波を悲しませてしまったのは事実なのだから。
しかし、綾波が僕のことを見つめていたのも、ほんのわずかの間の事で、すぐ
に僕と綾波の間は、重々しい玄関のドアに隔てられた。そして、家の中には、
僕とアスカ、ミサトさんの三人だけとなった。誰が言うともなく、三人はリビ
ングに集まった。三人だけとなってから、誰も口を開かないし、互いに顔を見
合わせる事もない。それは椅子に腰を下ろしてからも同じであった。三者三様
の思いがあり、それはなかなか口には出せない。しかし、やはりそこは直接関
係している訳ではないミサトさんが、最初に重い口を開いた。
「シンジ君・・・・」
「・・・何ですか、ミサトさん?」
「・・・アタシが言うのもなんだけど、とにかく大変だったわね。」
「・・・そうですね・・・・」
僕の返事はそっけない。一見無礼に見えるこの対応にも、ミサトさんは声を荒
げる事も無く、静かに僕に話し掛けて来た。
「レイについても、アスカについても、何とかしてやれって言ったのは、アタ
シだったし、シンジ君はそれに十分すぎるくらいに応えてくれたわ。でも、ア
タシはそんなシンジ君については、何にも考えてなかったみたいね。ごめんな
さい、シンジ君。あなたも傷ついていたって事に気付かなくって。」
「僕は別に傷ついてなんかいません。幸せだと思ってますから。」
「確かにシンジ君は昔に比べると、格段にしあわせになったわ。でも、それは
前に比べてって言う事であって、普通の子と比べると、やっぱりシンジ君は不
幸よ。」
「どこがですか、ミサトさん?」
「アスカの言った、人を愛せないという事。それよ。」
「・・・・」
「シンジ君には、人を救う事を期待し続けていたけど、誰もシンジ君を救って
やろうという人間はいなかった。それは戦いの終わった今でも同じ。やっぱり
アタシ達はシンジ君におんぶに抱っこで、シンジ君の痛みを気付いてやれなか
った。」
「・・・・」
「シンジ君、あなたは人に想いをかけられる事が、重荷になってるんじゃない
の?」
「え!?」
「今日、あなたとアスカ、そしてレイの三人の会話を聞いて、あなたが二人に
とても想われているっていう事に、改めて気付かされたわ。でも、シンジ君に
とっては、それは単に二人に頼られているって言う事であって、負担になって
るだけじゃないの?」
僕は、ミサトさんのその指摘に、うつむいて静かに答える。
「そんなことはありません・・・・」
「本当!?」
「・・・・そんな事はない・・・と思います・・・・」
「じゃあ、シンジ君には、確固たる確信はないのね?」
「・・・わかりません・・・・」
「それが、確信がないという事なのよ、シンジ君。」
「・・・・」
「あなたはまだ、人に頼られるほど、強くはないのね。でも、強くないからと
言って、すがってくるそれを振り払うには、シンジ君は優しすぎる。だから、
苦しくても、みんなの為を思って、それに耐えている。そうじゃないの?」
「・・・僕は、ミサトさんが言うほど立派な人間じゃありません。自分の事し
か考えられない、卑怯な人間です。」
「どうしてそう思うの?」
「僕は、人に嫌われるのが恐いから、みんなに優しくしてるんです。問題が起
きるのが嫌だから、誰にも嫌われないように、善人ぶっているんです。僕は偽
善者です。」
「それは誰もが持っている感情よ、シンジ君。だから、別にあなたが自分を卑
しめる必要はないわ。」
「でも、僕はそんな自分が嫌で嫌でたまらないんです。」
「シンジ君はそう思えるだけ立派だわ。それに、あなたが自分で思ってるほど、
嫌な人間だったら、どうして二人もの人間があなたに想いをかけるというの?」
「そんな事、僕にはわかりません。わかれば、苦労はしません。」
「という事は、アスカもレイも、シンジ君が気付いていない、シンジ君にしか
ない、いいところに気付いているのよ。」
「僕にしかない・・・いいところ・・・?」
「そう、シンジ君にしかない、いいところ。」
「何ですか、それ?教えてください、ミサトさん。」
僕はミサトさんに向かって、まるで砂漠でさまようものが、水を渇望するかの
ような、そんな切迫した声で答えを求めた。しかし、ミサトさんは、静かに僕
に向かって言った。
「アタシにははっきりとはわからないわ。でも、ここにはそれを答える事の出
来る、二人の内の一人がいるじゃない。」
ミサトさんはそう言うと、それまで黙って僕とミサトさんの話を聞いていた、
アスカの方に視線を向けた。僕は、ミサトさんの言わんとする事に気付いて声
を上げる。
「アスカ・・・?」
「そう、アスカよ。アスカなら、あなたのその問いに、答える事が出来るわ。」
「アタシ?アタシが?」
「僕に教えてよ、アスカ!!僕の、僕だけの持ついいところを!!アスカが僕
を想ってくれる、その理由を!!」
「シンジ・・・・」
アスカは戸惑いの表情を浮かべた。そんなたわいもない事を、僕が血相を変え
て渇望しているという事を見てしまったからなのだろうか。しかし、僕はそん
なアスカの戸惑いなどに構う事はなく、力強い表情でアスカに迫る。
「僕にはそれが必要なんだ。僕の中で、信じられるものが。」
アスカは僕のその様子に、しばらく気おされていたが、少しして、顔を上げる
と、静かに声を発した。
「シンジのいいところなんて、アタシにはいっぱいあり過ぎて、一言なんかで
はとても言い切れない。だから、ちょっと長くなるかもしれないけど、いい?」
「そんなの構わないよ。早く言って欲しい。」
「うん、わかった。」
そう言うと、アスカは神妙な顔をして、語りはじめた。
「シンジは弱いアタシを守ってくれる。アタシが手を差し伸べた時は、優しく
手を握ってくれる。そして、アタシが寂しい時は、ずっと側にいてくれる。」
「・・・・」
「シンジはアタシと違って、誰にでも優しく出来る。そして、アタシのわがま
まにも、怒らないで付き合ってくれる。みんなアタシにはうんざりしてるはず
なのに、シンジだけは、アタシの事を真剣に考えてくれてた。」
「・・・・」
「そしてアタシは、シンジの笑顔が好き。アタシにはとっても真似出来ない、
しみいるような優しい笑顔。今までこんな風に笑える人は、アタシは見た事な
い。アタシはシンジがうらやましかった。人に対して、こんな風に笑って見せ
る事の出来る、そんなシンジが。」
「・・・・」
「そしてシンジは強い。アタシのは、ただ強がっているだけ。シンジを見て、
アタシは初めて、強いっていう事がどういう事なのかを、知ったような気がし
た。シンジはアタシとファーストの間に挟まれても、常にいつもの優しいシン
ジでいてくれた。そして、決して弱音を吐かなかった。今ミサトが言ってくれ
たように・・・・」
「・・・・」
「だからアタシはシンジが好きになったの。確かにシンジは誰よりも優しいし、
アタシの一番身近にいて、そして一番アタシの事を想ってくれる人。でも、そ
こまではファーストがシンジに思ってる事と同じ。アタシはあの娘とは違う。」
「・・・・」
「アタシはシンジの強さを知ったから、シンジが好きになったの。アタシには
持てない、本当の強さ。アタシは、それがシンジの一番のいいところだと思う。
ちょっと見ただけでは、決して理解できないけど、アタシはシンジと深く付き
合うようになって、ようやくそれが理解できた。」
「・・・・」
「もしかしたら、男の人ならこういうのは誰もが持っているものなのかもしれ
ない。でも、アタシはシンジの中にだけ、これを見出す事が出来た。だから、
アタシはシンジを思い続けるの。アタシには、それが他の誰でもなく、シンジ
の中にしか、見出す事が出来なかったのだから・・・・」
アスカは一気に言い終わると、ゆっくりと目を閉じ、自分にきりを付けてから、
目を開いて普通に僕に言って来た。
「これが、アタシがシンジについて思ってる事。全て言い表せたとは思ってな
いけど、それでも大体は言えたんじゃないかと思う。」
僕はアスカに対して、しばらく黙っていたが、自分の中で、今の言葉に整理を
付けると、静かにアスカに尋ねた。
「・・・・僕が・・・強い・・・・・?」
「うん。」
「・・・本当に・・・・アスカはそう思うの?」
「うん。シンジは自分の事をそう思えないかもしれないけど、少なくともアタ
シにだけは、そう感じたの。」
「・・・・ありがとう、アスカ。今まで誰も、僕が強いなんていってくれなか
った。お世辞でもうれしいよ。」
「お世辞なんかじゃない!!アタシは心の底からそう思ってる!!」
「でも、僕は強くなんかない・・・・」
「アタシにとっては強いの!!だから、アタシにとってはそれでいいの!!」
「・・・・本当?」
「当たり前じゃない!!アタシはそんなシンジが好きなんだから!!」
「・・・アスカは、こんな僕を好きだって言ってくれるの?」
「さっきから言ってるじゃないの!!アタシはシンジが好きだって!!」
「・・・こんな僕でも、心から好きだって言ってくれる人がいたんだね。僕は
今まで生きて来て、良かった気がするよ。」
「アタシも、シンジが今ここに、こうしてアタシの前にいてくれるっていう事
を、神様に感謝してる。シンジがここにこうしているから、アタシも今こうし
てここにいられるの。アタシはそれを絶対に忘れない・・・・」
僕はアスカの言葉を聞き、それまでの出来事を考え合わせて、今までの沈んだ
表情から、毅然とした表情に変えて、アスカに向かって言った。
「ありがとう、アスカ。僕はアスカがそう言ってくれた事を、絶対に忘れない
よ。今の僕にはアスカには何も応えてあげられないけど、いつか僕が人を好き
になる事が出来たら、その時は、アスカの事が好きになっていたらいいなと願
ってる・・・」
すると、アスカは目に涙を浮かべて、僕の言葉に答えた。
「アタシも、シンジがそう言ってくれた事は忘れない。アタシはもう、焦らな
い事にするから。シンジがいつか人を好きになる事が出来る日を、ずっと待っ
てる。アタシは今のシンジの言葉を、いつまでも信じているから・・・・」
僕とアスカは、互いに見つめ合っていた。その様子を黙って見守っているミサ
トさんも、少しも口出しする事はなかった。
その時、アスカの目に浮かぶ涙は、とてもきれいだった。そのまま宝石箱に仕
舞い込んでおきたくなるくらいに、きれいに見えた。なぜなら、それは喜びの
涙だったからだ。アスカの願いは完全にはかなえられなかったとしても、僕の
その言葉は、アスカの待ち望んでいたものだった。この時ばかりは、アスカの
心に影を落とすものは何もなかった。アスカの顔は、喜びに満ち溢れていたの
だ。そして僕も、そのアスカの表情に、一時の間、苦しみを忘れる事が出来た
のだった・・・・
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