私立第三新東京中学校
第五十九話・空虚で悲しいキス
「ねえ、シンジ。」
アスカが僕に話し掛けてくる。僕はさっきは自分の部屋に戻ろうとしていたの
だが、アスカの様子がちょっと心配になったので、戻らずにリビングのソファ
ーに腰掛けていた。アスカはそんな僕の目の前で、そのままカーペットの上に
腰を下ろしている。アスカの様子は、膝を抱えて小さくなってはいるものの、
目は生き生きとしており、微笑みを浮かべながら、いや、にやにやといった方
がいいのかも知れないが、とにかくそんな表情で、僕の方をじっと見つめてい
る。僕はアスカの楽しそうな様子を見て、ほっとして気持ちをゆるめた。アス
カの気持ちも、ようやく落ち着きを取り戻したと感じたからだ。
「何、アスカ?」
僕もアスカの元気が移ったのか、なぜか微笑みを浮かべている。
「二人っきりね。」
「そうだね。」
「何かしよっか?」
「何かって?」
「何か、面白い事。」
「面白い事ねえ・・・」
「そうだ、トランプでもしよっか?」
「トランプ!?」
「そう、トランプ。」
「二人で?」
「二人で。」
「二人でやっても、面白くないんじゃない?」
「・・・それもそうね。二人でやっても面白くないわね。」
「うん。」
「じゃあ、ゲームでもしよっか?対戦できる奴。」
「ゲーム?」
「うん。シンジはゲーム好きだよね。馬鹿二人とよくゲームセンターに行って
たみたいだから。」
「アスカもゲーム好きなの?」
「うん。ヒカリの家でよくやってたから。」
「そうなんだ。知らなかったよ。」
「だからゲームしよ、二人で。」
「ごめん、対戦できる奴、今うちに無いんだ。友達に貸してて・・・」
「・・・そう。それじゃ仕方ないわよね。」
「ごめん。そのかわり、今度一緒にゲームセンターに行こう。」
「うん。今度一緒に連れてってくれる?」
「もちろんだよ。アスカさえよければ、いつでも一緒においでよ。」
「そう?でも、ヒカリはああいうところに入るの、あんまり好きそうじゃない
から・・・」
「そっか、洞木さん、真面目だもんね。」
「うん。だからいつもっていうわけにはいかないけど、時々連れてってもらう
わね。」
「うん。」
「・・・・」
「・・・・」
僕とアスカの話は、途切れてしまい、辺りは沈黙に包まれた。なんだかいつも
とは違い、アスカに話し掛けにくい。アスカはいつも僕より先に話を引っ張っ
ていってくれるし、うるさいくらい高飛車で自己中心的なところがあった。だ
から僕は、たいていアスカの話に返事をしていればよかったのだが、今日のア
スカはちょっと違う。物静かにも感じるし、大きな声を出す事もない。元来僕
は、あまり話をするのが得意でなく、人前でも黙っている方なので、こうアス
カに静かにされてしまうと、なんだか調子が狂ってしまう。
そんな調子で僕は困ったように黙っていたのだが、アスカもなかなか僕に話し
掛けようとはしなかった。そして、僕は気まずさで苦しくなってきた時、よう
やくアスカがその重い口を開いた。
「する事ないね。」
「う、うん。」
「せっかく二人きりなのにね。」
「うん。」
「時間、もったいないね。」
「そんな事ないよ。」
「そう?こうしてるうちにも、時間はどんどん過ぎて、そのうちミサトも帰っ
てきちゃうのに、ただ黙っているだけなんて。」
「そうかもしれないけど、たまにはこうして、静かにしてるのも、いいんじゃ
ない?」
「シンジはそう思うの?アタシにはそうは思えないけど。」
「僕は静かにしてるの、嫌いじゃないよ。そりゃあ、一人で寂しくしてるのは、
僕も嫌だけど、今はアスカがそばにいるじゃないか。だから、僕は別に静かに
していても、辛く感じないよ。」
「・・・それもそうね。アタシも黙ってても、シンジと一緒にいるから、全然
寂しくない。」
「だろ?話をする事だけが、大事な事じゃないと、僕は思うな。話をしなくて
も、何もしなくても、それだけで十分な時って言うのも、人にはあると思うよ。」
「じゃあ、シンジにとって、今はそういう時?」
「うん。僕はそう思う。」
「アタシとは、話をしなくても、一緒にいるだけでいいの?」
「うん。今はね。別に話をしたり、何かしなくてもいいと思う。」
「・・・そうなんだ・・・・」
アスカはそう言うと、何だか複雑な表情をした。うれしさや、寂しさや、悲し
さや、楽しさや、とにかくそういういろんな感情が混ざり合っているような、
不思議な顔をした。僕はそのアスカの表情に惹かれて、アスカの顔を覗き込ん
だ。するとアスカは僕の瞳を見つめて言った。
「ほんとに何もしなくていいの?」
「え!?」
僕はアスカが急に話し掛けてきたので、びっくりしてしまった。そして、そん
な僕に訴えかけるアスカの表情は、実に真剣なもので、僕はその眼差しに圧倒
されてしまっていた。
「シンジはほんとに、アタシといて、何もしなくていいの?」
「う、うん・・・」
「シンジはそう感じるのかもしれないけど、アタシにはそう感じる事が出来な
い。」
「そ、そうなんだ・・・」
「そうなの。アタシはこうして黙ってるだけじゃ、満足できないの。」
「じゃ、じゃあ、やっぱり何かする?アスカがそう思ってるなら、二人で何か
しよっか?」
「シンジはアタシに付き合ってくれるの?シンジは黙っているだけで、満足で
きるのに?」
「もちろんだよ。アスカが満足出来ないなら、満足できるように、何なりと付
き合うよ。」
「本当に?」
「本当だよ。」
「本当になんでも付き合ってくれるの?」
「何でも付き合うよ。アスカが望むのなら。で、何なの、アスカがしたい事っ
て?」
「いいの、言っても?」
「いいよ。そのために、僕がいるんだろ?」
「じゃあ、言うわよ?」
「う、うん・・・」
僕はなかなか口に出さないアスカに、何か重大なものを感じて、息を潜めた。
緊張は高まる。そして、アスカが口を開く・・・
「キス、して・・・・」
「え!?」
「シンジがアタシに、キスして。何でも付き合ってくれるんでしょう?」
「た、確かにそうは言ったけど・・・」
「シンジはアタシのお願いを聞いてくれないの?」
「聞いてはやりたいんだけど、でも・・・・」
「シンジはアタシにキスするのが、恐いの?あの娘を裏切る事になるから・・・」
「そういう訳じゃないよ!!僕たちにはそういうのは早すぎるだろ!?」
「シンジは本当にそう思ってるの?早すぎるだなんて、アタシから逃げる言い
訳にしかすぎないんじゃないの?」
「そ、それは・・・・」
確かにアスカの言う通りだった。早すぎるなんて、それは僕の言い訳にしかす
ぎない。現に僕とアスカは既に何度かキスをしているのだし、早すぎるという
事が、原因にはならない。では、どうして僕がアスカから逃げているのか?そ
れは僕が、自分はアスカにキスをするに値するほど、アスカに恋していないと
いう事を、理解しているからだ。ここでアスカにキスをすれば、アスカをだま
す事になる。アスカが喜ぶだろうというのはわかっているけれども、僕には、
アスカも、そして自分も偽る事が出来なかった。
僕がくちごもっていると、アスカは僕の考えを理解したかのように、僕に向か
って言った。
「シンジがアタシの事を、そんな風に見てくれてないのは、アタシも知ってる。
でも、それでもアタシは、シンジがアタシにキスしてくれる事を望むの。」
「アスカ・・・」
「虚しい望みだとはわかってるの。アタシだって馬鹿じゃないんだから。でも、
シンジがアタシにキスしてくれれば、シンジが本当にアタシの事を好きでない
としても、アタシはそういう幻想を抱いていけるの。アタシには、今のアタシ
には、そういうものが必要なの。アタシを支えてくれる、そんな何かが・・・」
僕はアスカの言葉を聞いていて、胸が張り裂けんばかりだった。アスカにここ
まで言わせるほど、僕はアスカを追いつめてしまっていたのだろうか?僕には
自覚がなかったが、それでもそれが僕のせいだという事は、はっきりとわかっ
ていた。僕は自分が恨めしかった。
「お願い、シンジ。今だけでいいの。今だけ、アタシに夢をちょうだい?アタ
シが夜、ベッドの中で、悪夢にうなされないように・・・・」
僕はどうしたら良いものか、真剣に悩んでいた。果たしてここでアスカにキス
をしていいものか、するべきなんだろうか、はっきりとした答えは出てこなか
った。しかし、僕はアスカの顔を見て、はっと息を飲んだ。それはまるで、も
う他には何もないといったような、そんな顔をしていた。僕は胸がいっぱいに
なり、思わず涙を流していた。僕はいきなりアスカを抱きしめると、強くくち
づけをした。アスカは急な事に驚いたが、僕に逆らおうとはしなかった。そし
て、自分の頬に零れ落ちた滴を感じて、アスカは僕が泣いている事を知った。
するとアスカは、静かに目を閉じて、僕の背中に両腕を回した。まるで、今の
この時を、決して忘れぬようにするかのように・・・・
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