私立第三新東京中学校

第五十八話・不安な気持ち


じゃばじゃばと水の流れる音のみが、辺りに響いている。
僕はそれほど多くない洗い物を洗い終えても、まだ水道の蛇口をひねらなかっ
た。ただ水道から流れ出る水が、シンクを伝っている。しばらく僕はそれに気
付かなかったが、そのうち水を無駄にしているのに気付き、水を止めた。

キュッという音がして、水道の蛇口がしまる。その音とともに、僕は椅子に座
っているアスカの方を向いた。アスカは僕の方を見ずに、ただ、目の前のテー
ブルの表面を眺めている。そのテーブルに何が映っているのか、僕にはわから
ないが、敢えてそんな事をアスカに訪ねようとはしなかった。
そう言えば、アスカが退院してから間もないとは言うものの、いろいろな事が
あって、アスカとこの家に二人きりでいるという事は、ほとんど初めてのよう
な気がした。もしかすると、そうではないのかもしれないが、ミサトさんが最
後に変な事を言っただけに、そう感じてしまうのかもしれない。

僕は何だか居心地の悪さを覚えて、自分の部屋に戻ろうとした。そしてリビン
グを後にしようと、アスカに背を向けたその時、アスカが僕に声を掛けた。

「シンジ。」

それはアスカがいつも僕を呼ぶ声とは違い、静かで頼りないものだった。僕は
アスカに呼ばれると、振り返ってアスカに尋ねた。

「何、アスカ?」

しかし、アスカは僕が返事をしても、僕の方を向くことなく、さっきまでと同
じ体勢を保っている。僕はアスカと向き合おうと、アスカの前面に回ろうとし
た。しかし、僕が近寄ろうとすると、アスカが即座に僕を止めた。

「そこにいて!!」
「どうしてさ?顔を見なきゃ話も出来ないだろ?」
「いいからアタシのいう通りにして!!」

僕はなぜアスカがそんな事を言うのか理解できなかったが、とにかく大した事
でもないので、アスカの言う通りにする事にした。

「・・・わかったよ、アスカ。僕はここにいる事にする。」
「ありがとう、シンジ。アタシのわがままに付き合ってくれて。」
「いいんだよ、そんな事は。」
「今、シンジの顔を見たら、冷静になってシンジに話が出来ないから、こうし
てるんだから。別にシンジの顔を見たくないとか、そう言うんじゃないから。」
「わかってるよ、そんな事くらい。」
「うん。じゃあ、話をするけど、シンジにひとつだけ聞きたい事があるの。」
「何、聞きたい事って?」

僕がそう言うと、アスカは言いにくそうに、ゆっくりと静かに僕に聞いてきた。

「あの娘のこと、シンジはどう思ってるの?」
「あの娘って?」
「ファーストに決まってるでしょ!?」
「ああ、綾波の事か。どう思うって、どういう事?」

僕がアスカに聞き返すと、アスカはさっきよりもっと言いにくそうに、まるで
言葉を絞り出すかのようにして、僕に言った。

「・・・・好き・・・なの・・・・?」
「え!?」
「・・・・あの娘のこと・・・シンジは好きなの・・・?」
「どうしてそういう事聞くの?」
「いいから答えて!!」

アスカは大きな声で叫び、僕に答えを求める。僕は急激なアスカの感情の起伏
に驚いたが、アスカのその声の様子から、ごまかしは許されないという事を悟
った。

「・・・・別に好きとか・・・そういうもんじゃないよ・・・・」
「本当なの!?」
「・・・うん。綾波の事は、見守ってやらなきゃいけないような気はするけど、
好きとかそういうんじゃないと思う・・・・」
「・・・・じゃあ、シンジはあの娘が好きだから・・・服を選んであげようと
思った訳じゃないのね・・・?」
「・・・うん。僕は綾波に、もっと人間らしい生活をしてもらいたいんだ。そ
して僕は、綾波を人間らしくする事が、僕の役目だと思っている。」
「・・・・じゃあ、シンジは・・・・あの娘の事が好きっていう訳じゃないの
ね・・・・?」
「・・・・僕は別に綾波の事を嫌ってる訳じゃないよ。そういう意味なら、む
しろ好きだ。」
「え!?」
「でも、アスカが僕に言ったとおり、まだ僕には好きとかそういう事は、よく
分からないんだ。だから、別に僕は綾波の事を特別視してる訳じゃない。」
「・・・今言った事は・・本当なの・・・?」
「うん。」
「本当に本当なの!?」
「本当だよ、アスカ。」
「アタシはじゃあ、シンジを信じてもいいのね!?」
「うん。アスカも僕を、信じて欲しい。」
「信じるわよ、シンジを・・・」
「うん。」
「じゃあ、お願い・・・少しの間、アタシのわがままを聞いて・・・」

そう言うと、アスカは僕の胸元に飛び込んできた。僕は驚いて、アスカに声を
掛ける。

「アスカ・・・」

すると、アスカは僕の胸に顔を埋めたまま、小さな声で僕に言った。

「少しの間でいいから、ここでこうしていさせて・・・」
「アスカ・・・どうしたの・・・?」

僕がアスカにそう尋ねると、アスカは今にも涙が出てきそうな、鼻にかかった
声で、僕に言った。

「・・心配だったの、心配だったの・・・・」
「え!?」
「シンジがあの娘にばっかり優しくするもんだから、もしかしたらシンジはあ
の娘の事が好きなんじゃないかと思って・・・・」
「アスカ・・・・」
「アタシはずっとずっと不安だったの。あの娘がシンジを見る目を見て、いつ
かシンジもあの娘の事を、好きになっちゃうんじゃないかと思って・・・」
「アスカ・・・そんな事考えてたんだ・・・・」
「アタシはシンジの事を、こんなに想ってるのに、シンジはアタシの事は見て
くれないで、あの娘の方ばかり見てるんだもん・・・・」
「・・・・」
「シンジはいつもアタシのそばにいてくれるけど、アタシの気持ちには気付い
たようなそぶりは見せないし、シンジの目はいつもあの娘の方を見てるような
気がしてたの・・・」
「・・・・」
「アタシも自分があの娘に嫉妬してる事くらい分かってる。アタシの思い過ご
しだって事もわかってた。でも、それでも不安にならずにはいられなかったの。
シンジがあの娘のうちに泊まってきた、あの日の夜から・・・・」

僕はアスカがそんな不安な気持ちでいるとは、全く知らなかった。アスカはい
つも元気いっぱいだったし、時々はそういうところも見せたけど、僕は一時的
なものだと思ってた。でも、アスカはずっと悩み、苦しんでいたんだ。僕はす
まなさで心がいっぱいになって、僕の胸に顔を埋めて、小さくなっているアス
カに向かって、優しく謝った。

「・・・・ごめんよ、アスカ・・・・僕はアスカがそんな気持ちでいたなんて、
全然知らなかった・・・・」
「・・・なら、今はこうさせていて・・・・シンジの胸でこうしていると、な
んだか落着くような気がするの・・・・」
「うん・・・僕の胸でよかったら、いつでもアスカに貸すよ・・・・」

僕はそう言うと、アスカの身体を、両腕で優しく包み込んでやった。抱きしめ
るというより、軽くアスカのからだにあてがう程度。僕はまるで壊れ物を扱う
かのように、アスカに接した。

「シンジ・・・ありがとう・・・・」

僕はそのアスカの言葉に、言葉を返さずに、ただ黙っていた。今の僕たちには、
何か、言葉でなく分かり合える何かがあるような、そんな感じがしていた。詳
しく口で説明する事は出来ないが、そう僕には思えてならなかった。しかし、
一方で僕は今の自分に憤りを感じていた。アスカがこんなに不安で、そしてこ
んなに僕を想ってくれるのに、それに応えてやる事が出来ずに、ただこうして
いるしか出来ないなんて。
やっぱり僕はどこかおかしいのかもしれない。アスカみたいなかわいい娘に好
かれて、自分も好きにならないなんて。何が僕をそうしてしまったのだろう?
何が僕を、人を好きになれないようにしてしまったんだろう?一体どんな出来
事が、僕をこんなにしてしまったんだろう・・・・


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