私立第三新東京中学校
第五十五話 誰もいない教室
僕は校長室のドアを開ける。一刻も早くここから離れる為に。
すると、廊下で僕を待っていたのは、冬月先生でも、加持さんでもなく、綾波
だった。
「あ、綾波、どうしてここに!?」
僕は驚いて声を上げる。しかし綾波は自分がここにいるのは、さも当然である
かのように、落着いた様子で僕に答えた。
「碇君の事が心配だったから。だから私はここで碇君の事を待ってたの。」
「そ、そうだったんだ。ありがとう、綾波。でも、他のみんなはどうしたの?」
「先に帰ってもらったの。それよりも碇君、あの人との話はどうだったの?」
綾波が僕にそう尋ねると、僕は誰が見てもわかるくらいに表情を厳しいものに
変えて、吐き捨てるように言った。
「あの男の事は口に出さないでくれ!!」
綾波は僕のその言葉を聞くと、寂しげな表情をしたが、僕をたしなめる訳でも
なく、答えた。
「・・・わかったわ。碇君がそういうのなら、もう碇君の前で、あの人の事は
口にしない。」
僕はそんな綾波の表情を見ると、自分が綾波に強く言ってしまった事を後悔し
た。少なくとも、綾波は父さんの事を信じていた。綾波にとって、父さんは、
僕以外に、ただ一人心を許した人間だったのだ。僕にとってはひどい父親であ
ったとしても、綾波にとってはそうではないのかもしれない。だから、僕は自
分の価値観を、綾波に押し付けるべきではなかった。そんな事をすれば、僕が
綾波の行為に付け込んで、綾波を狭い世界に閉じ込めてしまうという事になる
のだ。僕は自分の冷静さを取り戻すと、綾波に向かって謝った。
「・・・ごめん、綾波。これは僕と父さんの問題であって、綾波と父さんの関
係には関係の無い事だったね。僕が今言った事は、すべて忘れて欲しい。」
「ううん、これはもう、三人の問題なの。それに、碇君も、昨日私が私の家で
碇君に言った事を思い出して。私はそれまでは考えた事もなかったけど、あの
人の私に向けてくれている心に、疑問を持ってきはじめたの。もしかしたら、
私はあの人の無聊を慰める、おもちゃにしかすぎなかったのではないかって。」
「綾波・・・」
「だから、今の私にとって、信じられるのは碇君ただ一人。もう、私には碇君
しかいないの。」
「じゃあ、綾波にとって、もう父さんの事はどうでもいいって言うの?」
「そういう訳じゃないの。やはり、未だに私はあの人に呪縛されている。しか
し、それは私が求めているものではないの。あの人は私が何を求めているのか、
知っているかどうかは、私にはわからないけれど、私にそれをくれた事は一度
も無かった。」
「・・・・」
「でも、碇君は私にそれをくれた。私が求めた訳でもなければ、私の事を知ら
ない訳でもないのに。」
「・・・・」
「私はうれしかった。これで初めて、私が人間になれたんじゃないかと、そう
思う事が出来たの。私は言わば、つくられしもの。人に操られるままの、道具
にしかすぎなかった。でも、心のどこかで、私は人間でいられるんじゃないか
って、そんな風に感じていたような気がするの。」
「・・・・」
「でも、それは許されざる事。道具が創造主と対等になる事は、許されるべき
事ではない。道具がそうなろうとした時には、別の私に取って代わられる。だ
から、私はいつのまにか、心を閉ざすようになっていた。そして、そういう私
でいる事が、当たり前になっていた。」
「・・・・」
「だから、赤木博士が他の私を消してくれた事を知って、私はうれしかった。
これで私は、ただ一人の綾波レイになれたんだから。でも、私が一人になった
としても、やっぱり私は私。道具のままでしかなかったの。みんなは私の事を
知っていたし、知らない人でも、それまで人間としてではなく、道具として生
きてきた私は、とても普通の人間としては見られなかった。」
「・・・・」
「でも、碇君だけは違った。私の事を知っているにもかかわらず、私を一人の
人間として、一人の綾波レイとして見てくれた。これで私は人間になれたの。
だから私は、碇君に対してだけは、道具としてではなく、人間として接する事
が出来た。そして次第に、他の人に対しても、自然と人間として接する事が出
来はじめたような、そんな気がするの。」
「・・・・」
「それに今でも、私に一番やさしく接してくれるのは、碇君。だから、私にと
って碇君は特別な人なの。こういう気持ちをどう言葉で説明したらいいのか、
私には分からない。でも、洞木さんは、こういう気持ちを、恋だといってくれ
た。それは本に出てくる言葉。でも、私にはよくわから無い。こういう気持ち
を、恋って言うの?でも、私の今の気持ちが、洞木さんが言うように、恋だと
したら、私はうれしい。私も、碇君を恋したいから・・・」
僕は綾波の心の中を全て吐き出すような言葉を、ただ黙って聞いていた。これ
までは、僕にも綾波が一体何を考えているのかは、よく分からないところがあ
った。しかしこれで、かなり綾波の事がわかったような気がした。
綾波の言っている事に、嘘はないだろう。綾波は嘘の付けない娘だ。しかし、
これが綾波の思い込みだという可能性はある。綾波が父さんの事をいい人間だ
と思い込んでいたように。しかし、僕も綾波のような娘に想われているという
のは悪い気はしなかった。それがすり込みのようなものであろうと。
そんな風に僕が黙っていると、綾波は今までの顔を一変させて、話題をがらり
と変えて言った。
「碇君、ちょっと私と一緒に教室まで来て。」
「え!?」
僕は考え込んでいたせいで、綾波が急に話題を変えた事について行けなかった。
綾波はそんな僕の様子を悟ったのか、詳しく説明する。
「お昼のお弁当、手を付けないでとっておいてあるの。だから・・・」
僕は綾波の言葉で、ようやく綾波が何を言おうとしていたのかを理解した。僕
は、綾波にも僕の手で弁当を食べさせてやるという事だったのに、そうしてや
らなかったのだ。僕はその時、アスカにかまけていて、綾波の事はすっかり目
に入っていなかった。これは、綾波にとってはかわいそうな事だっただろう。
僕は、その埋め合わせをする為に、綾波の要求を受け入れる事にした。
「わかったよ、綾波。お昼はごめんね。綾波にも食べさせてあげられないで。」
「いいの、別に。こうして今、碇君がしてくれるんだから。」
「じゃあ、教室にいこっか?」
「うん・・・」
こうして僕と綾波は、教室に向かって、並んで廊下を歩いた。まだ、太陽も高
く、真っ赤な夕日が差すというわけにはいかないけれど、もう、校内に生徒達
の影は全く見当たらなかった。廊下は静寂を保っており、ただ、僕と綾波の、
ぱたぱたという足音のみが、辺りに響き渡っている。僕たちは何を話すという
訳でもなく、ただ黙って廊下を歩いた。なんだか、今の僕と綾波には、言葉は
要らないような気がした。綾波もそう感じているのか、僕に向かって話しかけ
る事も無く、うつむき加減で歩き続けている。僕もそんな綾波を見ると、同じ
ように黙ってうつむき加減で歩いた。
そうしているうちに、僕たちは教室に辿り着いた。
僕は自分の椅子を持って、綾波の机の反対側に置くと、そこに腰を下ろした。
綾波も、僕が腰を下ろすと、自分の椅子に腰掛ける。そして、鞄から、手を付
けずにとっておかれた弁当を取り出した。綾波はそれを僕に手渡す。僕は、大
事そうに手渡す綾波からそれを受け取ると、早速蓋を取って、箸を手にした。
「な、なんだかこういうのって恥ずかしいね。みんなが見てなきゃいいと思っ
てたけど、どうやらそれだけじゃなさそうだ。」
「私にはまだ、恥ずかしいっていうのがよく分からないけれど、どういうもの
なのかしら?」
「綾波だって時々恥ずかしく感じてるだろ?」
「どうして?」
「顔を赤くしてる時があるじゃないか。」
「ああいう時の感じが、恥ずかしいって言うの?」
「うん、大体はそうなんじゃない?」
「碇君が言う通りなら、恥ずかしいって言うのは、気持ちのいい事なのね。」
「え!?」
「だって、ああいう風になるのは、だいたい決まって碇君に優しくされた時だ
もの。」
「そ、そうなんだ。じゃあ、恥ずかしいっていうのはちょっと違うかもね。」
「じゃあ、恥ずかしいって言うのは、どういうものなの?」
「うーん、ちょっと言葉で説明するのは難しいなあ。たいていは、人に見られ
たくない事を見られた時とかに、恥ずかしいって感じるものなんだけど。」
「・・・私には、人に見られたくない事なんて無い。」
「それは綾波が純粋だからだよ。後ろめたい気持ちが無いから、そうなんじゃ
ないかな?」
「それっていい事なの?」
「うん。僕はいい事だと思うし、それが綾波のいいところだと思う。」
「・・・人は恥ずかしいって言う気持ちを持っているのが普通なのかもしれな
いけど、碇君がそう言ってくれるのなら、私はそれを知らなくてもいい。」
僕は綾波のその言葉を聞いて、少し躊躇したが、今の言葉は聞かなかったこと
にして、綾波に弁当を食べさせはじめようとした。
「それはともかく、早く食べようよ。綾波もお昼食べてないから、お腹空いた
でしょ?」
「うん。」
僕はそう言うと、早速手に持った箸で、卵焼きをつかむ。
「はい、綾波、口を開けて。」
「う、うん。」
綾波はそう言って、おずおずと僕に向かって口を開く。僕は綾波の小さな口の
中に、卵焼きを入れた。
「どう?」
「おいしい・・・」
「綾波の作った卵焼きはおいしいからね。それに、お腹も空いてただろうし。」
「碇君が食べさせてくれるから、おいしく感じたの・・・」
「ま、まあ、人に食べさせてもらうっていうのも、なかなか風情があっていい
もんだからねえ。」
「ところで、碇君はお昼に私の作ったお弁当を食べてくれたの?あの人に食べ
させるばかりで、私にはそうは見えなかったけど。」
「あ、そう言えばそうだね。後で自分の買ったパンは食べたんだけど、綾波が
作ってくれたお弁当の方は、アスカに全部食べさせちゃったなあ。」
「なら、ここで今、味見をしてくれる?」
「あ、ああ、もちろんいいよ。」
僕がそう言うと、綾波は僕の方に手を差し出して言った。
「じゃあ、箸を貸して?」
「え!?」
「碇君が私に食べさせてくれた代わりに、今度は私が碇君に食べさせてあげる。」
「い、いいよ、悪いから。」
「遠慮なんてしないで。私は別に気にしないから。」
「そ、そういう問題じゃなくて、その箸・・・」
「この箸!?箸がどうかしたの?」
「い、いや、それは綾波が使った奴じゃないか。つまりその・・・」
「碇君が何を気にしているのか、私にはわからないわ。」
「か、間接キスが、その・・・」
「間接キス?それはキスの一種なの?碇君がここで私とキスしたいのなら・・・」
「ち、ちがうよ、そういう事じゃないんだ。も、もういいよ。とにかく箸の事
は気にしないから、食べさせてもらうよ。」
「そう?碇君がそういうのなら、私はそれでいいけど。」
「う、うん。とにかく早く食べよう。」
僕は何だか綾波とここで二人っきりでいると、いつかとんでもない事になって
しまうような気がしたので、さっさと食べて、さっさと帰ろうと思った。綾波
は僕に急かされて、僕から箸を受け取ると、僕が綾波にしたのと同じく、卵焼
きを手にした。
「碇君、口を開けて・・・」
僕は黙って綾波に向かって口を開く。綾波は静かに僕の口の中に卵焼きを差し
入れた。
「どう、碇君?私の作った卵焼きの味は?」
「とってもおいしいよ、綾波。」
「よかった、碇君がそう言ってくれて。」
「お世辞なんかじゃないよ、本当においしい。」
「碇君の味に、近づいた?」
「うん。もうほとんど変わらないといってもいいんじゃないかな?」
「よかった。じゃあ、次は・・・」
そう言って綾波は次のおかずを取ろうとする。僕に食べさせてもらうのを忘れ
ているんだろうか?まあ、とにかく僕はどっちでもいいので、黙っている事に
した。
「これ、里芋の煮たのよ。」
綾波は中学生が作るお弁当らしくも無い、里芋の煮っころがしを器用に箸で取
り上げる。
「いたんでないかしら?」
綾波はそう言って、疑わしそうな視線を箸の先に向ける。確かにこの暑さで今
まで食べずにいたんだから、僕でも心配になる。綾波は確かめる為に、ほんの
一口かじってみた。
「うん。大丈夫みたい。」
綾波はそう言うと、自分がかじった里芋を、そのまま僕の方に差し出した。
「はい、碇君。食べてみて、結構自信作なの。」
「え!?う、うん。」
僕は、綾波が自分でかじったのをそのまま僕によこすのか?と思ったが、さっ
きの間接キス問題を蒸し返すのも何なので、僕は差し出されるがままに、里芋
を口にした。
「おいしいよ、綾波。」
「本当!?」
「うん。さすが綾波だ。」
とまあ、こんな調子で、僕と綾波はお互いに弁当を食べさせあった。これは弁
当箱が空になるまで続けられたが、延々と同じような会話が繰り返されていた。
僕はいい加減あきれはじめてはいたものの、綾波はいつまでもうれしそうだっ
たので、僕も綾波のそんな顔を見ているだけでよかった。それに、このほのぼ
のとしたやり取りのおかげで、父さんとの再開で生まれた痛みを、ほとんど忘
れる事が出来た。その意味では、僕は綾波に感謝していた。綾波がここにいな
ければ、僕は今どうしていたであろう?僕には思いもつかないが、今の状態よ
りは、確実に悪かったはずである事はこの僕にもわかる。
そんな訳で、僕はこの救いの天使とともに、学校を後にした。帰り道、僕を悩
ませるものは、何も無かった。父さんも、アスカも、綾波も。僕に残された問
題は、まだ多く山積みにされていたが、今は、全てを忘れて、このひとときを
楽しんだ。そう、空を飛ぶ鳥もたまには羽根を休める時間が必要なのだ・・・
続きを読む
戻る