私立第三新東京中学校
第五十三話 想いの中で
アスカと僕は、綾波のした事に呆然と立ち尽くしている。しかし綾波は自分の
した事の重大さには気付かず、平然とした顔で僕に向かって言う。
「急にこんな事してごめんなさい、碇君。私にはこうするより他に方法が無か
ったの。でも碇君、それよりも早くしないとお昼休みが終わってしまうわ。」
「・・・・え!?あ、うん。そうだね、綾波。」
僕は綾波の言葉で、ようやく我を取り戻した。しかし、さっきの衝撃が少しで
も衰えた訳ではない。それよりも、ようやくはじめて周りの事が目に入るよう
になって、僕は戦慄を覚えた。
アスカの時は、トウジをはじめとするいつもの連中の前でだけだったのに、今
度はクラス中の目の前でキスをしてしまったのだ。いくら僕が一方的にされた
とはいえ、キスをしたという事に変わりはない。
そしてアスカだ。アスカは蒼白な顔をしている。明らかに今の出来事に大きな
ショックを受けているのだろう。いつもだったら大声で叫ぶか、それともひっ
ぱたくとか、そういう事があってもいいはずなのに、身動き一つしない。僕に
はそれが、そういう限度を通り越しているという事が理解できた。これは非常
にまずい兆候だ。
僕はそんな事を考えていると、徐々に血の気が引いていった。きっと今の僕も、
鏡で見たら、アスカと似たような顔をしているのだろう。アスカとは種類こそ
違うだろうが、僕も大きなショックを受けていたのだ。そしてその時、綾波は
僕のそんな青ざめた顔を見て、心配そうに言った。
「碇君、どうしたの?私がこうした事に怒っているの?」
「・・・・そ、そういう訳じゃないよ。ちょ、ちょっとびっくりしてるだけ。」
僕が取り敢えずそう答えると、綾波は心配そうな表情を一変させて、うれしげ
な声で僕に言った。
「本当!?よかった、碇君が怒ってるんじゃなくて。でも、本当にごめんなさ
い。碇君を驚かせてしまって。」
「い、いや、綾波が謝る事じゃないよ。気にしないでいいから。」
「やっぱり碇君は優しいのね。私はうれしい。碇君がそう言ってくれて。」
「そ、そんなことないよ。それより・・・」
そう言って僕はアスカの方を見る。綾波も、僕の視線をたどってアスカを見る
と、ようやくアスカの状態に気付いた。しかし、その目には、アスカを心配す
るとか、そういう物は含まれていなかったように、僕には感じられた。そんな
訳で、僕は綾波に、僕がアスカを心配しているのだという事を、話してやる事
にした。
「・・・アスカは僕の知ってる誰よりも繊細なんだ。誰よりも傷つき易く、壊
れ易い。いつも誰かが見ていないと、どうなってしまうかわからないんだ。」
「碇君・・・」
綾波は、染み入るような優しい瞳でアスカを見ながら話す、そんな僕の顔を見
て、僕の名前をつぶやいた。しかし、僕は綾波に話しているにもかかわらず、
まるで独り言を言うかのように、そのまま自分の気持ちを語り続けた。
「だから、今は僕が、そんな誰かになってやろうと思う。アスカを見守り続け、
アスカのガラスのような心を、傷付けないように。僕では役不足かもしれない
けど、僕は自分に出来る事は、しなければいけないと思う。それが、逃げない、
という事なんじゃないかな?とにかく、僕はもう逃げたりはしない。僕の弱さ
のせいで、誰かを傷つけるところなんて、もう二度と見たくはないんだ。」
いつのまにか、教室は静まり返っていた。しかし、今の僕には周りの事などど
うでもいい。僕はアスカの肩に手を置くと、やさしく言う。
「もう心配しなくていいんだよ、アスカ。僕はずっと、アスカの側にいるから。」
「・・・シンジ・・・・」
アスカはそうつぶやくと、僕の顔を見つめる。その見開かれた、大きな蒼い瞳
からは、いつのまにか、涙が流れていた。しかし、アスカは自分が涙を流して
いるという事など、全く気が付いていない。僕は、そんなアスカを見ると、穏
やかに微笑みを浮かべながら、明るく言った。
「アスカに涙は似合わないよ。アスカは、笑っている時の方がかわいいんだか
ら。」
僕はそう言うと、そっと指を差し出して、流れ落ちる涙をすくいとる。
「笑ってごらんよ、アスカ。僕は泣いてるアスカよりも、笑ったアスカの方が
好きだな。」
僕はそう言うと、アスカは僕に向かって微笑みを浮かべる。まだ涙は止まって
いなかったが、それはきれいな笑顔だった。僕はそれを見て、大きくうなずく
と、アスカに向かって言った。
「そっちの方が、ずっといいよ。アスカは笑顔の方が素敵なんだから。」
「うん。」
「弁当を食べよう。早くしないと、お昼休みが終わっちゃうから。」
「うん。」
僕はアスカに向かってそう言うと、机の上にあった弁当箱を手にとり、箸を持
った。
「アスカも座って。僕が食べさせてあげるから。」
「うん。」
アスカは僕の言うまま、椅子に腰を下ろす。僕もアスカに続いて、弁当箱を手
に持ったまま腰を下ろすと、早速卵焼きをつまんで、アスカの方に持っていっ
た。
「さ、口を開けて。アスカの好きな、卵焼きだよ。」
「うん。」
アスカが口を開けると、僕はアスカの口の中に、卵焼きを入れる。
「おいしい?」
「うん。」
「次は何にする?」
「からあげ。」
「から揚げね。はい、から揚げだよ。」
僕はアスカが言うまま、弁当箱から、から揚げを取り出して、アスカの口の中
に入れてやる。綾波が食べるはずの無い、鶏のから揚げ。綾波は僕の為にわざ
わざ入れてくれたのかもしれなかったが、今の僕にはそんな事に気付く訳もな
かった。僕は綾波の事を忘れたまま、アスカに弁当を食べさせ続けた。
そして綾波は、そんな僕を黙って見つめていたが、しばらくして、椅子に腰を
下ろすと、机の上に置いてあった、自分の分の弁当を、鞄の中に仕舞い込んで
しまった。そんな綾波に、洞木さんが気付いて、綾波に向かって尋ねた。
「どうしたの、綾波さん?お弁当、仕舞っちゃうの?」
「うん。」
「どうして?まだ少しも食べてないじゃないの。」
「今は、私が出て行かない方がいいから。私が行けば、きっと碇君は困る。だ
から私は、我慢するの・・・」
「綾波さん・・・・」
「今でなくても、また今度が、きっとあるから。私はその時が来るまで、碇君
の事を、ずっと待ってる。碇君は、きっと私のところに来てくれるから・・・」
「・・・・」
「今は無理でも、いつかきっと、碇君は来てくれるはず。私は碇君の事を、信
じているから・・・」
洞木さんは、そんな綾波の言葉を聞いて、何も言えなかった。アスカを見守り
続けるといった僕。そんな僕の姿を見てしまって、洞木さんは、果たしてその
日が来るのであろうかと、綾波の事を危惧していた。しかし、洞木さんはそん
な自分の心配を、口にする事は出来なかった。それは綾波の切ないまでの希望
を、打ち砕いてしまう事になるのだから。
アスカも綾波も、同じくらい大切に思っている洞木さんには、自分の友人を傷
つける事など、出来ようはずも無い。洞木さんは綾波の気持ちなど知らぬかの
ように、アスカにお弁当を食べさせ続ける僕を見つめて、心配そうな顔をした。
アスカと綾波、自分の二人の親友に、そこまで想われているのだから。そして、
その事が、これからの自分にどう影響していくのか、不安でいっぱいだから。
しかし、そんな綾波や洞木さんの気持ちをよそに、僕はアスカに弁当を食べさ
せ続けた。アスカは幸せそうにみえたが、果たしてそれがいつまで続くものか、
それはここにいる誰にも、わからない事であるのだ。しかし、そんな事はかま
わず、ただ時は流れてゆく。数々の、想いの中を駆け抜けて・・・・
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