私立第三新東京中学校

第五十二話 いきなりのキス

僕は周りのざわめきをよそに、綾波からもらった弁当をアスカの前に置くと、
早速蓋を開けた。
さすが綾波、なかなかの出来栄えだ。僕がそんな風に頭の中で感心していると、
横から声がかかった。

「碇君、ちょっといい？」

僕が声のする方を向くと、そこには洞木さんがいた。

「碇君がアスカの為にしてくれるのはうれしいんだけど、それじゃあちょっと
綾波さんに悪いんじゃない？」

僕は洞木さんにそう言われると、今まで混乱状態になっていた頭が正常に戻っ
たようで、綾波の方にも目を向ける事が出来た。僕が見たその時の綾波は、言
葉にこそ出してはいないが、かなり辛そうにプルプルと震えていた。確かに洞
木さんの言うとおり、折角綾波が僕の為に作ってくれたのに、アスカに食べさ
せてあげるというのは、綾波にとってみればひどい話だ。しかし、アスカに食
べさせてやると明言した以上、それを実行しない訳にも行かない。僕はもうど
うしたらいいのか、わからなくなってしまっていた。

僕のその心理状態はもろに洞木さんには読み取れたようで、洞木さんは僕に向
かって、こっそりと助け船を出した。

「綾波さんに、どうしたらアスカに食べさせても許してくれるか、聞いてみた
ら？アスカの方は碇君が約束した以上、守らなくちゃいけないけど、綾波さん
の方は碇君次第で何とかなるかもしれないから。それに早くしないと、アスカ
が怒り出すかも知れないわよ。」

僕は耳打ちされた洞木さんのその提案、というか隠された危機を即座に理解し、
大きくうなずいた。

「ねえ、早くしてよ、シンジー。」

アスカは呑気なもんだ。さっきまであんな顔をしていたのに、もうすっかり元
気を取り戻して、僕が食べさせてくれるのを待っている。僕はさっきまで悩ん
でいた自分が馬鹿らしくも思えたが、それはそれ、これはこれなので、僕はア
スカにちょっと待たせて、綾波に話をする事にした。

「ちょっと待って、アスカ。考えてみれば、これは綾波のものなんだし、了解
を取らなくちゃいけないだろ？」
「そんなこといいじゃない、別に。あの子はアンタに作ってくれたって言うん
だから、それをアンタがどうしようと勝手じゃないの。」
「そういうわけにはいかないよ。綾波がかわいそうだろ？」

僕がそう、アスカに言うと、アスカはさっきまで呑気にしていた顔を一変させ
て、静かに僕に言った。

「・・・・アンタはあいつをかばうんだ。」
「そ、そういう問題じゃないよ。これは言わば礼儀の問題だろ？」
「・・・・シンジがそう言うのなら、アタシはそれを信じる。」
「うん。ありがとう、アスカ。」

僕は、取り敢えずアスカが納得してくれた事にほっとしたが、次には綾波が控
えていた。今度は綾波の方に向かうと、すまなそうな顔をして、僕は話し掛け
た。

「あ、綾波・・・？」

綾波は無言でじろりと僕の事を見る。今の僕にとっては、その無言の視線が痛
い。最近では、綾波はそんな目で僕を見る事もなくなったが、それはやはり今
も健在であった。僕はそんな綾波の視線にさらされて、一層罪悪感を感じたが、
それでも言う事はきちんと言わねばならないので、逃げ出したいような気持ち
を押さえて、綾波に向かって言った。

「ご、ごめんね、折角綾波が僕に作ってくれたのに・・・・」
「・・・・」
「ア、アスカにはもう約束しちゃったから、取り消すわけにはいかなくなっち
ゃったけど、その代わりに綾波の言う事なら何でも言う事を聞くよ。」

僕がそう綾波に言うと、綾波はそれまでに僕をとがめだてするような渋い表情
を一変させて、喜びにあふれた顔をして言った。

「本当、碇君！？」

僕は予想外の綾波の反応に戸惑いを隠し切れなかったが、それでも綾波がとに
かく許してくれそうであるので、細かい事は考えなかった。まあ、綾波が僕に
向かって頼むとしたら、また料理を教えてくれとか、今度僕の作った弁当が食
べたいとか、そんなもんだろう。それくらいなら別にどうって事ないし、今の
状態が回避できるのなら安いものだと僕は思っていた。

「ああ、もちろんだよ。この埋め合わせはさせてもらうよ。」
「碇君がそう言ってくれるんだったら、今私にも彼女と同じ事をしてくれる？」
「へ！？」
「私にも、このお弁当を碇君が食べさせて。」

そう言うと綾波は自分の分の弁当箱を、そっと僕の方に押しやる。僕はそれで
綾波が何を言おうとしているのかを理解した。それは僕だけでなく、僕の周り
で聞いていたみんなも同じ事で、アスカが僕に言った時以上のざわめきが、教
室中を包み込んだ。無論、アスカもそれを聞いて黙っている訳はなく、大きな
声で綾波に向かって叫んだ。

「な、何てこと言うのよ、アンタは！？アタシの作戦を邪魔しないでくれる！？」
「作戦？」
「な、何でもないわよ。とにかく、アタシが考え出した事なんだから、アンタ
は真似しないでよね！！」
「どうして？そもそもそれは私のお弁当よ。碇君が食べるならともかく、あな
たに食べる資格はないわ。でも、そんな事を言ったら碇君が困るだろうから、
私は許してあげているのよ。」
「く・・・」

アスカは綾波の理論の正当さに負けて、何も言えなくなってしまった。しかし、
綾波はそんなアスカの様子などかまいもせず、アスカに向かって話し続ける。

「だからあなたは私にお弁当をもらう見返りに、碇君が私にも同じ事をするの
を邪魔するのは止めてもらえない？別にあなたも同じ事をしてもらえる訳なん
だし、そんなにひがむ事も無いじゃない。」
「そ、それとこれとは話が別でしょ！！」
「とにかく、私が碇君に何をしてもらおうと、あなたにそれをとめだてする権
利はないわ。あなたには関係の無い事だもの。」
「関係なくはないわ！！」
「どうして？碇君があなたと一緒に住んでいるから？そんな事は関係ないと思
うけど。」
「シ、シンジとアタシはお互いにキスをし合った仲なのよ！！アンタとシンジ
の友達付きあいとは訳が違うんだから！！」

そのアスカのとんでもない発言に教室内の興奮はピークに達した。一方綾波は
アスカの言葉にうなだれてしまっている。アスカはそれを見て、自分の勝ちを
意識したのか、更に綾波に向かって言った。

「所詮アンタとアタシとでは勝負にならないのよ！！これでもうシンジにちょ
っかい出すのは止めて、アンタにお似合いの男でも探すのね！！」

すると、綾波はしばらく下を向いていたが、何かを決意したのか、すっと顔を
上げて、アスカと視線を合わせた。そしていきなり立ち上がり、僕の方を向く
と、顔を赤らめ、目を伏せていう。

「・・・ごめんなさい、碇君。」

そう言うと、綾波は飛び上がって僕にキスをしてきた。僕はあまりのいきなり
な出来事に、それを避ける暇も無く、見事に僕と綾波の唇は重なった。二人の
唇が重なっていたのはほんの一瞬の事ではあったが、僕には綾波の唇の柔らか
さがしっかりと伝わった。僕は予想外の事件に呆然となってしまい、何も言え
ず、ただ綾波の唇の触れた僕の唇を、軽く手で押さえていた。
一方、綾波は僕と同じく茫然自失のアスカに向かって言った。

「これであなたと私は対等よ。もう私が碇君に食べさせてもらうのを止めさせ
はしないわ。」

綾波はそうアスカに言ったのだが、アスカは綾波の言葉など聞いてはいなかっ
た。ただ、綾波が僕にキスをしたという事にショックを受けてしまい、まだ唇
を押さえている僕の方を、ぼんやりと見ているのだった・・・