私立第三新東京中学校

第四十二話 人形から人へ

「綾波・・・ありがとう、もういいよ・・・僕はもう大丈夫だから・・・」

僕がそう綾波に告げると、綾波は僕を抱きしめていた腕をそっとはなした。

「ごめんね、こんな綾波の前で泣いちゃったりして。」

僕は照れながら、そう綾波に向かって言う。そして照れて少し顔を赤くしてい
る僕を見ると、綾波は今まで見せた事もなかった笑顔で僕に言った。

「いいの、別に。それは碇君が私に対して心を許してくれた証拠だから。」
「そ、そう?」
「ええ!!」

綾波は明るい。こんな嬉しそうに返事をする綾波もはじめてだが、なんだか、
感情からだけではなく、ちょっと僕にはうまく言えないが、こう、心の奥底か
ら、この時綾波が変化したように感じた。いったい何が綾波を変えていったの
かはわからないが、今の綾波を見れば、誰も綾波の事を人形のようだと、さげ
すむものもいないだろう。綾波を変えていくという、僕に科せられた使命は、
これで果たされたような気がする。まあ、僕だけでなく、他の人間に対してど
うかという事まではわからないが、これが第一歩となる事だろう。

「なんだか綾波は変わったね。急に明るくなった気がするよ。」
「そうかもしれない。碇君もそう感じる?私にもそんな気がするの。」
「うん、絶対にそうだよ!!綾波は明るくなった!!」
「それっていい事なの、碇君!?」
「もちろんだよ!!もうこれで綾波を人形みたいだっていう奴もいないと思う
よ!!」
「じゃあ、私は人間なのね!!」

綾波の喜びはひとしおだった。その喜びようを見て、僕にもそれが伝わってく
る。それほどまでに綾波の顔には喜びが満ち溢れており、今までの綾波には考
えもつかない表情であった。

「なんだか楽しいね!!」
「うん!」

僕と綾波はにっこりと微笑みあう。それは、互いに心を許し合えたもの同士が
交わすような笑顔だった。僕はさっきまで泣いていた辛い気持ちなど、もう忘
れてしまっていた。なんだか踊りたくなるような気持ちだったのだ。

僕たちはしばらくにこにこしていたが、僕はある事を思い出すと、とたんに顔
を暗くした。そう、父さんの事だ。

「どうしたの、碇くん?」

綾波は急にぼくの顔色が曇ったのを見ると、疑問に思って尋ねた。

「う、うん・・・ちょっと父さんの事を思い出して・・・・」

僕の言葉を聞くと、綾波は微笑んだまま答えた。

「あの人はほんとは優しい人よ。だから碇くんが心配する必要はないわ。」
「そうかな・・・?」
「そうよ。だからそんな顔はしないで。きっと碇くんの事も分かってくれると
思うわ。」

僕は明るく慰めてくれる綾波の言葉を聞くと、何とか元気を取り戻してきた。

「そうかもしれないね・・・父さんだって人間なんだし、今は分かってくれな
くとも、いつかは分かり合える日が来るかもしれない。」
「そうね!」

そして、僕は綾波の方を向き直すと、きっぱりとした顔をして言った。

「ありがとう、綾波。父さんの事はやっぱりわからなかったけど、それでも、
やっと父さんとちゃんと話が出来そうな気がするよ。結局僕は何だかんだ言っ
てて、父さんから逃げてきた。でももう、僕は逃げないよ。だって父さんだっ
て、僕たちと同じ人間なんだから。」

そう言って、僕は腰を上げると綾波に言った。

「長居をしちゃったね。僕はこれでもう帰る事にするよ。アスカも首を長くし
て待ってるだろうし。」

すると綾波は僕に続いて立ち上がると、残念そうな顔をして言った。

「もう帰っちゃうの、碇くん・・・?もう少し話がしたかったのに・・・」
「ごめんね、綾波。アスカは怒ると怖いんだ。またひっぱたかれたくないから
ね。」
「そうなんだ。」
「うん。だから、また明日、学校でね。」
「うん。」

そうして、僕は玄関の方に向かう。綾波も僕を見送るためにぴったりと後ろに
付いてきた。

「じゃ、綾波、明日・・・」

そう言いながら、僕はドアを開ける。しかし、外はどしゃ降りの雨が降ってい
た。

「雨だ・・・」
「雨ね・・・」

僕は呆然と外を眺める。ここに来た時はとてもいい天気で、雨など全く降りそ
うな気配も見せていなかったのに、外は見事なまでの大雨である。
そんな訳で、僕は後ろを振り向くと、綾波に言った。

「綾波、良かったら、傘、貸してくれる?」

僕がそう言うと、綾波は視線を下駄箱の脇にやった。そこには一本のくたびれ
たビニール傘があった。綾波はそれを見て、少し躊躇したが、すぐに顔を上げ
て僕の方を向くと、こう答えた。

「ごめんなさい、碇くん。これ一本しかないの。だから碇くんに貸したら・・・」
「そうだね。いいよ無理に貸してもらわなくても。僕は濡れて帰るか・・・」
「駄目!!」

僕は途中で綾波に言葉を遮られた。僕は驚くと、綾波に尋ねる。

「ど、どうして?」
「こんな凄い雨の中濡れていったら、碇くんが風邪をひいちゃうじゃない。」
「そ、そうかもしれないけど、しょうがないじゃないか。」
「雨が止むまで、もう少しうちにいて。まだそれほど遅くないんだし、多分す
ぐ止むと思うから。」
「・・・それもそうだね。夕立みたいなもんだろうし、しばらく待てば、すぐ
に止むかもね。」

僕は外の様子を見ながらそう答える。確かに外は雨が降っているにもかかわら
ず、思ったより明るく、すぐに雨は止みそうな気配を見せていた。

「じゃあ、はやく中に入って。お茶を入れるから。」
「う、うん。」

またお茶か、と思いながらも、僕は綾波の後ろについて、再び中に戻っていっ
た。

「碇くんは座ってて。すぐにお茶が入るから。」

僕は綾波に言われたとおり、黙って座ると、湯飲みの中に残っていて、既に冷
たくなっていたお茶を飲み干した。外で雨が降っているせいか、何だか部屋の
中は蒸し蒸ししていて、暑い。僕はさっきまで熱いお茶を飲んでいたせいか、
冷たい飲みものが恋しくなっており、また綾波のために残ったお茶を片づけよ
うという意図もあって、何気なく綾波の湯飲みを取ると、口をつけてグビリと
飲み干した。
ちょうど僕が綾波のお茶を飲み干して、湯飲みを置いた時、綾波の方もお茶が
入り、急須を持ってこっちを向いた。

「碇くん、それ!?」

僕は綾波に気が付くと、笑いながら弁解する。

「ああ、ごめん。つい飲んじゃったよ。悪かったかな?でも、新しいお茶が入
るのに、湯飲みが空の方がいいだろ?」
「う、うん。別に私は構わないけど・・・」
「そう?それならよかった。」
「で、でも・・・その湯飲み、私が口をつけた・・・」

僕は顔を赤くしながらそう言う綾波を見て、その言葉の含む意味を理解すると、
慌てて言い訳をした。

「え!?あ、ああ、し、心配しなくていいよ!!別に綾波が口をつけたところ
で飲んだ訳じゃないから!!」
「そ、それもそうね。ごめんなさい、変な事考えて・・・」
「い、いいんだよ、別に。僕の方こそ、そうとられても仕方の無い事をしちゃ
ったんだから。」

僕がそう言うと、綾波は顔を赤くしたまま黙って、持っていたお茶を、空にな
った二つの湯飲みに注ぎ込んだ。そして綾波はまた僕の向かいに腰を下ろすと、
黙って視線を下にしたまま、恥ずかしそうにお茶をすすりはじめた。
僕も綾波に倣ってお茶をのみはじめたが、恥ずかしそうにうつむいている綾波
の姿を見ると、僕の方もなんだか意識してしまって、それからは綾波の姿を見
ていられなかった。
それでもまだ、お茶があるうちはなんとかなったが、お茶を全部飲み干してし
まい、他にする事もなくなると、急に場が持たなくなった。そんな訳で、まだ
うつむきながらお茶をすすっている綾波に、僕は話し掛ける事にした。

「綾波、ちょっと聞きたい事があるんだけど・・・」

すると綾波は、少し顔を上げると、上目遣いで軽く僕を視線に入れながら、恥
ずかしげに聞き返した。

「何、碇くん・・・?」
「う、うん。別にたいしたことじゃないんだけど、いい機会だから、綾波の事
を知っておこうと思って。」
「私の事を?」
「うん。」
「碇くんは私の何について知りたいの?」
「そうだなあ・・・じゃあ、例えば、綾波は私服を持ってないのか?とか。」
「私服?」
「そう、私服。綾波っていつも制服じゃない。こうして家に帰ってきててもさ。
だから自分の服なんか無いんじゃないかと思って。」
「・・・そんなこと、考えた事もなかった。」
「え!?じゃあ、やっぱり持ってないの、自分の服?」
「うん。だって私にはそんなもの必要無かったから。」
「そうか・・・そうかもしれないね。でも、普通の女の子はみんな持ってるも
のなんだよ。」
「そうなの?」
「うん。綾波はいつも学校でしかみんなを見てないから、わからなかったのか
もしれないけど、みんないつも制服を着てる訳じゃなくて、学校でしか着てな
いんだよ。」
「そうだったんだ・・・」
「だから綾波も、何か服を買った方がいいと思うよ。」
「やっぱり制服じゃ駄目?」
「もちろんだよ。それに綾波の私服姿って言うのも、見てみたいしさ・・・」

僕の何気に言った言葉を、綾波は聞き逃してはいなかった。綾波はとたんに顔
を赤く染めると、恥ずかしげに聞き返した。

「本当、碇くん・・・?」

僕は綾波のそんな様子に、また綾波が誤解しているのを即座に悟ると、慌てて
大きな声を上げて言った。

「べ、別にそういう意味で言ったんじゃないってば!!それに綾波もみんなと
同じでいたいんだったら、服くらい持ってるべきだとおもうよ!!」

僕のそんな言い訳じみた言葉を聞くと、綾波は残念そうな顔を浮かべて、つぶ
やいた。

「なんだ。そうだったらよかったのに・・・」

その綾波のつぶやきは、興奮していた僕には全く聞こえなかった。僕は何も知
らずにそのまま話を続けていった。

「良かったら今度の日曜日、綾波の服を買いに行こうか!?」

綾波は僕のその言葉を聞くと、ほんのさっき残念そうな顔をしたばかりなのに、
ぱっと顔色を明るくして、いかにもうれしいといった感じで叫んだ。

「本当!?碇くんが私のために服を選んでくれるの!?」
「う、うん。別にいいよ。綾波が良ければ・・・」
「ありがとう、碇くん。碇くんが選んでくれたのだったら、私はどんなもので
も喜んで着るわ。」

しかし、綾波のそんな喜びようとは裏腹に、僕は綾波の言葉に若干の恐ろしさ
を感じて、うろたえながら綾波に言った。

「そ、そう?でも僕だけじゃあ、女の子の服を選ぶのもどうかと思うから、他
のみんなにもお願いしようよ、ね、綾波。」
「碇くんがそう言うなら、私はそれでいいわ。残念だけど・・・」
「じゃあ、今度の日曜日、みんなで一緒に行こう。」
「うん。」

そんな訳で、今度の日曜日に、綾波の服を買いに行く事が決まった。これから
綾波が、人間らしい営みをするためには、欠かせない事だった。綾波はなんだ
か明るくなって、話もよくするようになり、以前よりもずっと人間らしくなっ
てきたが、まだ、普通の暮らしというものをほとんど知らない。綾波がエヴァ
に乗る以外に必要な事は、だれも教えなくてもいいと考えていたのだろうか?
そうだとすると、やっぱり綾波の言っていた事は正しい。誰も綾波を普通の女
の子としては見てあげなかったのだ。なら、せめて僕だけは、綾波をエヴァパ
イロットとしてではなく、普通の女の子としてみてあげよう。それが、綾波に
は一番必要な事なのだから・・・・


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