爪を噛む癖があった。
誰かに挨拶する時、いつも恥ずかしそうに手を小さく振っていた。
産まれた時からずっと、一緒の時間を過ごしてきた。
些細な癖から、ちょっとした感情の変化まで、わからないことは殆どない。
空気のように傍にいることが当たり前で、それを煩わしく思ったことも数え切れない。
でも、決して変わったりはしない。
それが、僕と彼女の、誰もが認める関係だった。



スイッチ

Written by Eiji Takashima





「ただいまぁー」

今まで知らなかった、狭い狭い玄関。
雑然と靴やサンダルが並べられて、足の踏み場もない。

「は、ほかへり、ほ兄はん」

居間からひょいと顔だけを覗かせて、挨拶してくれる。
口には大きなてのひらサイズのごませんべい。
決してお行儀のいい態度とは言えない。

「せんべいを置いてから言えよ。だらしない」

靴を脱ぎながら、軽くたしなめて言う。
足元を見たままで、目線を合わせてではない。
ついでに散らかった靴を揃え、倒れてたビニール傘をひょいと靴箱に引っかけた。

「あ、うん、ごめんなさい」

せんべいを口から手に戻し、てくてくとこちらにやってくる。
この狭くて安いぼろアパートは、僕と妹の距離を、今までにないくらい狭めていた。

「靴、散らかすなよな。ったく、履かない靴ばっかり何足も買って来て……」

微かに埃が積もった、女物の靴。
表面をそっと手で払うと、靴箱の中に仕舞おうとする。

「ごめーん、あ、いいよ、わたしが片付けるから」

僕の手から靴を取り、靴箱の中にあった紙箱へ入れて行く。
気がつくと、僕の手には食べかけのごませんべいが握らされていた。

「おい、これ……」
「あ、うん、あげる。お兄ちゃんが食べていいよ」

整理整頓の類にはルーズな、僕の妹。
でも、決して苦手な訳ではなく、片付ける時は徹底している。
きっかけが出来たのか、片付けモードのスイッチが入って、手際よく靴を仕舞っていく。

「ったく、手を洗う前なんだぞ……」
「いいじゃん、そんなの。おなか痛くなったら、薬飲めばさ」

そんなことを、さらりと言ってのける。
やれやれと思いつつ、僕は黙って渡されたせんべいにかじりついた。
そして妹を背に、自分の部屋へと入っていった。



「ふう……」

メリハリのない学業を終え、万年床の上に身体を放り投げる。
ひんやりとした布団が、疲れた身体に心地よかった。

「しかし、楽と言うか何と言うか……」

布団を敷きっぱなしにしていることを知ったら、うちの母親はいったい何て言うだろうか。
少なくとも、数ヶ月前までだったら、そんなことは許されなかった。

大学進学に合わせ、この2DKの小さな新居に引っ越してきたのは、桜の咲くよりほんの少し早い季節だった。
同年代の他の連中と同じく、僕も独り暮らしと言うものに、それなりの憧れを抱いていたのも事実だ。
親元を離れることによる不自由くらいは承知していたが、それを払拭して余りある、怠惰な生活は魅力的に映ったのだ。

そう、僕は独り暮しをするはずだった。
それなのに――

「おにいちゃーん、お兄ちゃんの革靴も、磨いといてあげるねー」

気付くと、妹が転がり込んでいた。
夢溢れる独り暮し。
それに憧れていたのは、何も僕ばかりではなかったのだ。



大学から自転車で5分の距離にある、家賃6万5千円のアパート。
この、僕のささやかな城に二人暮しを始めてから、早3ヶ月が経過している。
狭い玄関にも、狭いお風呂にも、とにかく狭くて不便尽くしの2DKにも、完全に慣れてしまったようだ。

「お兄ちゃん、晩ご飯どうする?」

妹も靴を片付け終えたらしい。
テレビのリモコンを足の指で器用に摘み上げて、つけっぱなしだった番組を変えていた。

「……お前、足器用だな」

行儀の悪さ以前に、これにはいつも驚かされる。
もしかしたら、手よりも足の方が使える奴なのかもしれないとか思わせるくらいだ。

「えー、そんなことないよ。手よりも長いし、こんな便利なものはないね」

リモコンを置くと、今度はごませんべいの袋に手を伸ばす。
流石に口に入れるものは、足で取るつもりはないようだ。

「使えれば、だろ。それよかメシ前なんだから、せんべいはよせよ」

せんべいの袋をインターセプトする。
近くにあった輪ゴムで縛ると、妹の対角線上にあるファンシーケースの上に、さり気なく置いた。

「ちぇー、つまんないの。お兄ちゃんってば、小姑みたいに……」

ぶつぶつ言いながら、妹はあっさりとせんべいを諦めた。
我が侭なところはあっても、聞き分けはいいし、意固地にならないところが、こいつのいいところだと思う。

「そんなこと言うけどな、お前、小姑って意味知ってるのか?」
「えっ、なんか嫁いびりとかする人のことじゃないの?」

そんなことかと思った。
妹に、嫁いびりみたいなことをしていると思われているのも、釈然としないものがあるが。

「違う違う、お前の場合だと、だんなさんの兄弟のことだよ」
「ふうん。で、どこが違うの?」
「おいおい、僕とお前は実の兄妹だろが……」

呆れてものも言えない。
だが、妹はいつものニコニコ笑いで僕に返してくる。

「そだね。ごめん。お兄ちゃん、やっさしいもんね。嫁いびり扱いしたら失礼だよ」
「優しいってより、甘いっていう方が、適切かもしれんがな」
「うんうん、お兄ちゃん、異性には甘そうだから」
「うるさい、男はみんなそうだ」
「ふっふーん♪」

今にして思えば、妹がこのアパートに転がり込むことになったのも、僕の甘さが原因だった。
両親からしてみれば、大事な我が子がいきなり二人も同時にいなくなるのは、心配だし心細かったことだろう。
でも、妹の高校は遠く、実家からだと片道2時間半かかる。
ちなみにこのアパートからだと、ほんの2駅の近さだ。

だから、妹には大義名分があった。
ただ、それでも僕と父さん達は揃って反対した。
僕達二人だけでの生活なんて、あまりに早過ぎるからだ。
でも、妹の意志は変わらず。
結局、どうするかは僕が受け入れるかどうかの選択で決まることになり、今のこの状況に至る訳だ。

「ったく、しょうがないな……」

それが、ここに越してからの数ヶ月でしみついてしまった、僕の口癖。
妹を保護しつつ、僕達の二人暮しは何不自由なく過ぎていった。

「ありがと。それで、ごはんどうする?」

何事もなかったかのように、話は戻る。
実は、これまで全く気がつかなかったのだが、妹はこっそり料理がうまい。
無論、母親には遠く及ばないものの、お世辞抜きで美味いと誉められる出来映えだった。

「んー、まあ適当に。商店街に行ったら、食いたいものも決まるだろ」

この安アパートの唯一の売りは、商店街に近いことだった。
これくらいの日が傾きかけた頃になると、商店街は活気付いて、僕達の食欲を膨らませてくれる。
日毎に違う店先の品々が楽しく、二人揃って晩ご飯の買い出しに行くのは日課にもなっていた。

「そうだね、でも……」

買い出しは日課だ。
妹が選んで、僕が荷物を持つ。
妹に変な気持ちを抱いたことはないけど、傍から見たら新婚さんにも見えるこのシチュエーションを、僕はそれなりに心地よく思っていた。

「ん、どうした?」

僕がこの日々の買い出しが好きなように、妹も引っ越してからできた新しい習慣を楽しんでいた。
母親に左右されない分、自分の好きなものを好きに選ぶことが出来る分、もしかしたら僕以上かもしれない。

「うん、ごめんね。今日はちょっと、パス」

そういう妹の顔はちょっと切ない。
普段そんな顔を僕に見せないから、新鮮である反面、不安にも感じる。

「あ、うん、お前がそう言うなら……」

僕は妹の全てを知っているつもりだった。
妹はおしゃべりだったし、日々にあった出来事を快活に何でも喋ってくれる。
友達連中にそのことを話すと、羨ましいことだと力説されるくらいだ。

まあ、妹はそんなに害がない。
迷惑をかける程度も知れてるし、まさに空気のような存在だった。

でも、月に何度か、妹は変わる。
それだけは、今でも馴染めずにいた。

「ごめんね、スイッチ、入っちゃったみたいだから」

妹のスイッチ。
このアパートに引っ越して、僕は初めてその存在を知った。
そして、何も見なかったかのように、背を向け続ける。
僕の妹が、何も変わらず妹であり続けるために。




夕暮れの商店街に独り佇む。
それまでの経験上、恐らくかかる時間は1時間あまり。
揚げ物やお惣菜の匂いで溢れる街並みを行ったり来たりして、僕は時間を潰すことにした。

「わかった。買い物はゆっくりするから」

スイッチが入っていることを宣言した妹に、僕はそれ以上何も告げなかった。
そして、黙ってアパートを出て行く。
何も問わず、何も返さない。
それが、僕らの不文律だ。

いつからそうなったのか、よく覚えていない。
でも、口にするのは憚られるそれは、守られるべき大切なプライベートだった。

「さぁて、何買っていってやるかな……」

晩ご飯の買い物に集中する。
今までも、そうやって気を紛らわせてきた。
僕が今ここに独りでいるのは、買い物のためなんだ。
それ以上でも、それ以下でも、あるはずがない。

僕が部屋に戻ったら、妹はいつもと変わらずに笑ってくれて、その料理の腕前を振るってくれるはずだ。
だから僕はいつも、独りで買い物をする時は、妹の技量に挑戦するかのように、ちょっと変わった食材や、難しそうな料理を試すことにしている。

そんな、料理をしている妹の姿を想像してみる。
難しい顔をしながらうめいたり、はしゃいでみたり。
それが僕達のあるべき楽しい日常の姿だった。




「……ん?」

携帯メールの着信あり。
送り主は、妹だった。
内容は至極簡単。
もう戻ってきてもOKのサインだ。
両手に買い物袋をぶら下げた僕は、不確かな現実を早く確かめたくて、妹の待つあの2DKへと急いだ。




「ただいまー」

勢いよく、玄関のドアを潜る。
わざとらしいくらいの元気が、我ながら情けない。

「あ、おかえり、お兄ちゃん。早かったね」

そう言うと、口元に手をやってくすりと笑う妹。
少し息を切らせた僕の様子がおかしいらしい。

「そ、外は暑いんだよ。それよりほら、買い出し、行って来たから」

誤魔化すように、買い物袋を渡す。
額にかいた汗がつうっと伝って、瞼を濡らした。

「そんなこと言って、うちだって暑いじゃん。クーラーないしね」

手で扇いで見せながら、妹はぼやいてみせる。
そろそろ本格的な夏が訪れる。
扇風機だけでは、確かにこれからしんどくなりそうだった。

「うーん、やっぱクーラーは欲しいな。暑いとお互い大変だろ」

買ってきたものを冷蔵庫の中に入れるのを手伝いながら、そう返して言う。
僕が手伝うのを見て、妹は露骨にサボり始めた。
冷蔵庫の中に顔を突っ込んで、タンクトップの胸元をパタパタやっている。

「そだねー、あー、涼しいっ」
「おい、そんなことするならあっち行けって。邪魔だから」

卵を仕舞いつつ、追い払おうとする。
だが、そう簡単には撃退されずに、僕に向かって言い返してきた。

「クーラーの代わりだよ。いっぱい汗かいたし、ホントはシャワー浴びたかったんだけど、暑い中お兄ちゃんをいつまでも待たせちゃ悪いでしょ?」

その一言で思い出す。
妹は、スイッチを切り替えてまだ間がなかったことを。

「……なら、シャワー浴びてこいよ」
「えっ、でも、ごはんの支度しないと。わたし、おなかぺこぺこだし」

妹はそう言って、手を止めてしまった僕の代わりに、そのまま続けて卵を入れていった。

「そっか、それならせめて、しばらく扇風機の前にいろよ。クーラーのたしにはならないけど、冷蔵庫に鼻先を突っ込まれてるのは困るからな」

卵は妹に任せて、僕は別のものを仕舞っていく。
何となく、気まずい空気が流れた。

「あ、うん、この卵仕舞ったら、後はお願いするね」

互いの腕がクロスするように、卵を持った妹の指先が目の前を通過する。
それは数度繰り返され、すぐに終わりを迎えた。

「じゃあ、少し涼ませてもらうね、お兄ちゃん」
「ああ……」

妹は、僕に言われた通り、扇風機の前に陣取って涼んだ。
首振りをやめて、スイッチを中くらいにして。
いつもは下ろしている前髪が、風に煽られて上がり、その額を見せる。
僕はそんな妹の姿を横目で見ながら、あることに気付いていた。

「あの癖、まだ治ってないのな……」

妹には爪を噛む癖があった。
両親はやめさせようとしたが、それは一向に治らず。
でも、ネイルアートやら何やらで、世間の女性のお洒落が指先にも向かった頃、妹のその癖もなくなったように思えた。

しばらく爪を噛む姿を見なかったせいで、僕達はそのことをすっかり忘れていた。
でも、さっき卵を仕舞う妹の指先には、確かに爪をかじった跡があった。

だが、それだけなら別に気にならなかった。
僕は妹の言うように小姑じゃない。
そんな些細な悪癖など、注意するにも値しない。

でも、妹がその指先に残していたのはそれだけではなかった。
一筋の赤い痕跡。
妹が、指を噛んだ跡だった。




「あ゛ー」

扇風機に向かって声を発している妹。
その仕種は、あの頃のままだった。

「おわったぞー」

後頭部に声をかける。
妹はくるりと振り返って、勢いよく立ち上がった。

「ごくろうさま。じゃあ交代ね、お兄ちゃん」

そう言って、自分の場所を譲る。
僕は迷わず妹が居たところに座り、扇風機の風を受けた。

「お兄ちゃんも、あーってやるといいよ」

エプロンを手に、そんなことを言う。
妹の発言はまだまだ子供で、いつもならからかうところ。
でも、今は笑わずに、妹の真似をしてみせた。

「あ゛ー」

声が変わる。
自分が勧めたにもかかわらず、妹は子供っぽい僕の行為に軽く笑った。

「そうそう、そんな感じ。昔はよくそうやったよね」

エプロンを身に着けながら、楽しそうに語っていた。
何も変わっていないはずの僕達。
それを確かめる行為を、今はただ繰り返してゆく。
突然湧いた危うさが、態度には見せないものの、不安だったに違いない。

「で、お兄ちゃん、今日は何を作ったらいいの?」

茄子を手に、僕に尋ねる妹。
食材は揃えたものの、何を作るのかは、特に説明していない。

「任せるよ。なんか適当に頼む」

扇風機を首振りに戻すと、スイッチを微風にしてそう返す。
それから妹の真似をして、足を伸ばすとテレビのリモコンを取ろうとした。

「あー、なんか張り合いないなぁ。買ってきたのはお兄ちゃんなんだから、どうするつもりだったのか、考えくらいあるんでしょ?」

茄子を振りかざして僕の発言をたしなめる。
まさかそのまま投げつけるつもりなんじゃないかと思いつつ、僕はリモコンを掴むのに悪戦苦闘していた。

「わたしの真似するなんて、お兄ちゃんには百年早いよー」

そう言ったかと思うと、つかつかとこっちに歩み寄ってきて、リモコンに足を伸ばす。
指先で掴むと、無造作にこっちに放り投げてきた。

「っとと、おい、投げるなって」
「ナイスキャッチ♪」

妹の荒技には、ほとほと参る。
でも、何だか元の妹に戻ったようで、僕は少しだけほっとしていた。
そして、まな板に向かうエプロン姿の背中に、さっきの問いの答えを返す。

「味噌で甘く炒めたやつ。あれが食いたいな」
「ああ、あれね。りょうかーい」

妹には通じたらしい。
僕の要望を受け入れ、鼻歌交じりに茄子を手早く乱切りにしていった。

「相変わらず、鮮やかな手捌きだな」

お褒めの言葉を口にしてみる。
妹のよどみない動きは、料理なんてしたこともない僕にとっては、魔法のようにすら映っていた。

「えー、そんなことないよぉ。お母さんの方が凄いよ」
「おいおい、比較する相手が悪いだろ。そもそも主婦としてのキャリアが違うんだし」

妹の料理は、恐らく母さんに薫陶を受けたものだろう。
僕が見たことないのを鑑みると、それは女同士で秘密裏に行われた結果なのかもしれない。

「お兄ちゃん、主婦としてのキャリアって……わたし、主婦じゃないよ」
「そ、そうだな、悪い」
「主婦じゃなくて、いもうとなんだから。そこ、重要だよ。テストに出るからね」
「おいおい……」

冗談を交えつつ、晩ご飯の準備は着々と進んでいく。
妹も乗ってきたのか、スピードも速まり、物凄い勢いで生姜をみじん切りにしていた。

「そうそう、お兄ちゃん、わたしの料理、誉めてくれるならね……」
「どうした?」
「新しい包丁、買ってよ。今のやつ、何だかイマイチなんだー」

そういうと、妹は手を止め、おもむろに包丁を僕に向かって突き出した。
勿論、届かない距離だが、驚いて少し後ろに下がってしまう。

「っとと、おい、刃をこっちに向けるなよ」
「あ、ごめーん。でも見てよ、ほら……」

今度は柄の部分を向け、僕に包丁を渡す。
受け取った僕は、包丁の刃をじっくり検分してみたが、これといって刃こぼれしている様子もないように思えた。

「んー、問題ないように見えるけど……」
「お兄ちゃんの目、ふしあなー」
「って、そこまで言うか、お前」
「でも、切れないものは切れないんだよ。今日もお茄子とか切りにくくて、危なかったし。ほらここ、包丁で爪けずっちゃった」

不満げな様子で、妹は僕に向かって指を差し出した。
確かに爪に包丁の刃がつけた傷があった。
だが、それだけじゃない。
かじった跡と、一筋の噛んだ跡だ。

「お前……」

つい、視線を向けてしまった。
妹も、そのことに気付く。
切り替わったはずのスイッチに、見えない手が触れそうになる。

「……ごめん。やっぱり、気付いた?」

かじった爪なのか、それとも噛んだ指先なのか、僕には判らない。
ただ、どちらを指摘しても、残った片方を浮かび上がらせてしまうような気がして、僕は口をつぐんだ。

「あはっ、安普請みたいだからね。お隣さんに聞えちゃうと、やっぱりマズイでしょ?」

誤魔化すように笑っている。
スイッチはもう戻っているはずの妹。
僕を安心させるためか、それとも自分に言い聞かせるためか。
でも、僕は言葉を返せない。
返す言葉なんか、見つけられるはずがなかった。

「……ごめんね、お兄ちゃん、わたし、女で……」

妹はただそう言って、僕に謝った。
その顔は、僕の見慣れない、そして妹が見せたがらない、もうひとつの顔だ。
年下のはずの妹は、その瞬間、ずっと大人びて見えて、僕にあのスイッチの存在を強く認識させる。

「そんな、謝るなよ……」

謝ることじゃない。
妹は、この世に生を受けた時からずっと女で、それは今でも当然変わらない。
でも、僕は妹が謝る理由を、数ヶ月前のあの日から、はっきりと理解していた。

「妹は、女じゃないから。でも、わたしは女だし……えへへ、難しいよね」

だから、スイッチを設けた。
僕と妹が兄妹であるために、他人になってしまわぬように、僕達は無言でスイッチを設けた。

「お前が、悪い訳じゃない、そうだろう?」

妹が女なら、僕は男だ。
それも、全く変わらない。
でも、妹は教えてくれたんだ。
女は男と違う。
男みたいな、便利で簡単な生き物じゃないんだって。

「……でも、今は謝らせて。ごめん、わがまま言って」

妹は改めて頭を下げた。
うなじが見えるくらいに、深々と。

「頭、あげろよ。もういいって」

気付かないようにしていた。
見ないように、気付かれないようにしていた。

部屋に戻った時の、妹が別人であること。
妹の汗の匂いがいつもと違うこと。
その呼気が、いつもより熱いこと。
妹の全身が気だるげで、動きにキレがないこと。
頬の色、潤んだ瞳、そして、僕の目を見ないようにしていた気遣いを。

妹には必要なことだった。
だって、妹は女だから。
そして、男みたいな便利な身体じゃないから。

そのことに気付いたのは、そろそろゴールデンウィークになろうかという、あの暑い日だった。
僕はその日初めて、妹が女であることを知り、この引っ越しが大いなる過ちであることを悟ったのだ。

「……うん、ありがと、お兄ちゃん」

妹は頭をあげて、そっと微笑む。
やわらかく、溶けそうなその顔は、僕の心を惑わせる。

「気にするなよ。僕は、別に……」

そう言う僕。
でも、気にしているのは、僕の方なのかもしれない。
妹は、スイッチの切り替えを努力し、今まで通りの僕達であろうと気を配っている。

このスイッチがあれば、完璧なはずだった。
二人でルールを守るなら、何も変わるはずがない。
その、はずだった。

「お兄ちゃん、やっぱりわたし……出ていった方がいいかな?」

両親には見せなかった姿。
妹は、そういうキャラじゃない。
誰もがそのことを知っている。
でも、真実は違う。
真実を知っているのはただ、スイッチの存在を知る、僕と妹だけだ。

「出ていって、どうするんだ?」

問い返す。
僕には妹の選択に、口を挟む権利なんてない。

「何も変わらないよ、何も。それが、わたし達の願いでしょ? 違う?」

妹が出て行けば、スイッチを気にすることもない。
今まで通り、兄妹として、つきあっていくだけだった。
でも、僕は知っている。
妹には、あのスイッチがあることを。
知ってしまった以上、昔の関係に戻ることなど、最早不可能なのだ。

「……行くなよ」

理由はわからない。
でも、僕は妹をとめていた。

「どうして?」

妹にもよくわかっていないのだろう。
出ていって、それに何の意味があるのかなんて、深く考えていないに違いない。
考えたところで、無意味なのかもしれないが。

「お前は、僕の妹だからさ」

妹だから。
そして、僕は兄だから。
それ以上でも、それ以下でもなく。
僕達の繋がりは、こんな風にシンプルであるべきだ。
僕は、そう信じていた。

「……うん、そうだね」

妹も、シンプルに返してくれた。
理解してくれたようで、僕はそれが嬉しかった。

「お兄ちゃん、あのね……」

妹が笑う。
妹には、僕にはないスイッチがあるけど、今はどっちの妹なんだろう。

「言えよ。聞いてやるから」

指先の噛み跡も、妹の甘い匂いも。
それだけではどっちにスイッチが入っているのかわからない。
ただ、妹は妹であり、同時に妹だけじゃないんだと、僕に知らせてくれるだけだ。

「……好きだよ。好きじゃないけど」

相反する二つの言葉。
でも、それはどちらも成立している。
それがどのスイッチの時なのか、明言されてはいないけれど。

「お前……結構残酷だな」

ふっと笑って返す。
何となく、心が和んだ。

「ええーっ、そうかなぁ? 愛情あふれる言葉だと、自画自讃しちゃおうかなーと思ってたんだけど」

おどけて妹が言う。
つられるように、僕の表情も緩んだ。

「そうやって、いつもクラスメイトを殺してるんじゃないのか?」

男殺し。
まさに、そんな感じだ。
妹は妹で、そして女だけど、そんな風に思ったことはない。
でも、こんなことを繰り返していたら、僕もそのうち殺されてしまいそうだ。

「そんなぁ、わたし、そんなこと言うと思う?」
「わからんな」
「どうしてわかんないの? こんなにわかり易いのにっ」

妹が僕に掴みかかる。
じゃれつくように、ぽかぽか叩いてきた。

「僕は、妹としてのお前しか知らないからな」

学校での妹は知らない。
だから、そう言ってみた。

「うそ」

でも、妹は頬をふくらませる。
僕もすぐに、それが失言だったことを悟った。

「あ、いやな、それはだな……」
「わたしのスイッチはね、わたしとお兄ちゃんと、二人だけの秘密なんだよ……」

二人だけのスイッチ。
二人で決めた、不文律だった。

「そう言えば、お兄ちゃんにはスイッチがないよね」
「ん? ああ……」
「わたしも、スイッチやめちゃおうかなー」
「ええっ?」
「じょーだんだよ。それこそ、残酷だからね」

妹が笑って否定する。
でも、僕は笑えなかった。

「でも、お兄ちゃんが望むならね……」

妹にはスイッチがある。
それは、お互いが求めたものだ。
でも、求めなくなったら――

「捨ててもいいんだよ、このスイッチ」

二人で始めた、2DKの小さな幸せ。
何も変わらないはずだった。
そう、思い込んでいた。
でも、そのはずだけど――

僕達は、もう戻れない。
そう、永遠に。


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