静まり返った校舎。
誰も居ない階段に、ぱたぱたと上履きの駆ける音が響く。
数はふたつ、小刻みに。
それは急いでいるようで、どこか名残惜しそうで。
繋がれた手は心なしか火照って、物言わぬ感情を示しているかに思わせる。

前方を往く影。
黒い、果てしなく黒い影。
僕はその影に導かれ、現実へと還る。
現実という名の、僕達の非現実へ――



Lost magic ??

Written by Eiji Takashima

3rd magic:"give and..."




「すいません、遅れましたっ!」

誤魔化すように、多少慌てた体を装って教室に飛び込んだ。
休み時間はとうの昔に終わっている。
現実は、僕と頼を置き去りにして、何事もなかったかのように進んでいた。

「あ、あのっ、済みません、すぐ席に着きますから」

ざわつく教室。
クラスメイトと先生、この場に居た全員の目が、一斉に僕達二人へと向けられた。

「……休み時間に、職員室に来るように。いいな?」

じろりと睨まれて、そう宣告される。
だが、それ以上でもそれ以下でもない。
理由のひとつは、不真面目な生徒を叱責するよりも、授業を続けることを優先したから。

「はい、わかりました……」

そして、もうひとつの理由。
それが、頼だ。
クラスメイトも教師も、僕以外の全てが頼との関わりを避け、余計な揉め事の種を増やしたくないと考えているからに他ならない。

「…………」

頼は黙っている。
俯いているでもなく、反省しているでもなく。
ただ、あらぬ方を見、待っていた。

「より、ほら席に着いて……」

よくある話だ。
そして、聞き分けのない子供をあやすようにするこのやり取りも、よくある出来事だった。
頼は、必要のないことは極力口に出さない。
今も、同じだろう。

「…………拓登」

だが、頼は言うことを聞かず、こっちを見て僕の名を呼んだ。

「ん、どうしたの?」

反射的に聞き返す。
頼はいつもの何を考えているのだか判らない顔で、小さく口を開いた。

「かえして」
「へ?」
「かえして、その、ポケットの中の」

そう言って、頼はマントの合わせ目から手首だけ差し出す。
僕は何のことだか判らぬままに、手をズボンのポケットに突っ込んだ。

「あ……」

思い出した。
瞬間、見えない冷や汗のようなものが心の中に伝う。
一気に、血の気が引いていく様子が、自覚できるくらいだ。

「それがないと、着替えられないから」

僕の気も知らず、淡々と繰り返す頼。
すぐに返さない僕にじれたのか、手首だけでなく肘のところまで出して、更に求めてくる。

「あ、いや、その……」

手の中にはじわりと湿った感触。
妙に生温かい熱気を孕んでいて、先程までの危うい情事を思い出させる。
ナイロンだかポリエステルだかの、手に馴染まない布地の手触りが、この物体がここにあるべきでないことを声高に主張しているかのようだった。

「拓登」

語調が強まる。
眉が歪んで、頼は僅かな不機嫌さを表に出していた。

「拾ってくれて感謝する。だが、それは私のものだ。拓登の所有物じゃない」

そう言って、突き出される腕。
ちらりと、マントの中の体操着が見える。
それなりに丈があるのが幸いしてか、何も穿いていない下半身は何とか覆われているようだ。

「わっ、ちょ、ちょっと待って!」

そんなほっとしている場合じゃない。
頼は僕の手首を掴むと、そのままポケットから引きずり出した。
僕はその、頼のアレを握っていた訳で……同時にそれも、姿を露にしてしまった。

「あちゃー……」

無言で僕と頼のやり取りを眺めていたクラスメイト。
だが、僕のポケットから出てきた布切れを見て、激しくざわついた。
というか、ざわつくだけならまだいい。
男子の歓声と女子の黄色い声と、それから具体的な名称ががっくり来る僕の耳に届いた。
やはり、僕のポケットから頼のぱんつとブルマが出てくるのはマズイだろう。
マズすぎる。うん、甚だマズイ。

「……どうした、拓登?」

一方、周りのことなどお構いなしの頼は、目的のものを回収できたらそれでいいらしく、けろっとした顔で僕の様子を窺ってくる。
それはいつも通りなのに、手にぱんつとブルマが握られていては、周囲もスルーしてはくれないだろう。

「あ、いや……」

こういう頼には何を言っても無駄だ。
いや、無駄ではないだろうが、無駄じゃないくらいに説明するには、その、大きな具体性を伴わねばならない。
今ここでそんなことを口にしようものなら、「僕たち二人はついさっきまで、とってもえっちなことをしていました」と喧伝するようなものだ。
もう、どうしようもない。ああ、どうしようもない。

「そうか。なら少し待ってくれ。今、はくから」

と言って、頼はいきなりマントを脱ぎ捨てる。
勿論、それは無造作なものでなく、至って丁寧な所作だ。
だが、頼は単なるにわかコスプレイヤーなんかじゃない。
頼にとっての黒マントは、馴染んだ下着と同等かそれ以上のもので、脱ぎ、畳むスピードは、丁寧さを伴っていても尚、かなりのものがあった。

「よ、より、ちょっと!」

周囲の視線と今後のリアクションを考えて意識が飛んでいた僕が、それをストップさせられるはずもなく、頼は瞬時に上半身の体操着のみの格好になった。
裾をブルマから出していたとしても、普通はブルマの端っこが見えるものだ。
だが、今の頼にはそれがない。イコール、下に何も穿いていないことがバレバレ状態だった。

「……これは洗わないと駄目だな」

僕の驚きをよそに、頼は手に持った二枚の布切れを選別している。
そして、僕と頼のぬるぬるでいっぱいになっていたぱんつを断念したようだった。

「有り難う、拓登。ブルマが無事で、よかった」

頼の机の上に置かれた、濡れたぱんつ。
マントの扱いとは対照的に、とても無造作なものだ。
適当に放られたそれは、妙に生々しく、まるで湯気でも発しそうなほどだった。

「あ……」

ぽかんとしたままの僕。
そんな僕を放置したまま、頼はここでブルマを穿こうとする。
その事実に我を取り戻して、僕は頼の盾となると、周囲の視線を遮った。

「……より、少しは周囲の目を気にした方がいいよ」

背中から覆い被さるようにしながら、頼にだけ届く声でぼやいてみる。
僕達がしていたことがバレてしまったのはもう手遅れだとしても、頼のおしりとか、大事なところをみんなに見られてしまうのはまた別の話だ。

「そうか?」

しゅるっとブルマが頼の脚を通っていく音が聴こえる。
無機質なその音は、頼の音というだけで、どこか扇情的に感じられた。

「そうだよ。よりは、見られたら嫌じゃないの?」

本当は、僕が怒るべきじゃない場所。
でも、確かに僕は、いつもの口調ながらも憤っていた。

「……さぁな」

素っ気なく、曖昧な返事が返ってきた。
同時に、ぱちんと軽いゴムの音。
頼がブルマを穿き終えた証だ。

「さぁな、って……もうちょっとは真剣に考えてよ」

困ってそう訴えると、頼はくるりと振り向く。
頼を守るように屈んでいた僕の目に、丁度高さが重なった。
鼻先がくっつき合うくらい。
キス、が出来るくらいの距離だ。

「あ、あの……」
「拓登が、考えてくれればいい。そういうの、私は苦手だから」

言った瞬間、頼は不意打ちのように寄った。
ちょんと鼻と鼻が触れ合う。
唇ではないけれど、それはまるでキスのようで、僕は言おうとしていたことを完全に頭からすっ飛ばされてしまった。

「――席に着け、拓登。授業中だぞ」

気づくと、頼は自分の席に着いていた。
ぽかんと立ち尽くしていた僕は、慌てて椅子を引き、腰を下ろす。
それでも尚、教室はこのとんでもない状況に凍りついていたが、しばらくしてゆるゆると元の流れに戻り始めた。

「はぁ……どうしよう?」

授業が再開されても、そこかしこで囁きが交わされていた。
間違いなく、僕と頼についてだ。



僕達の非現実が、半ば無理矢理現実にねじ込まれてゆく。
それほど現実は圧倒的で大きくて、小昏い非現実の存在を許そうとはしない。
小さなマントで包まれた、僕と頼だけの、二人の世界。
早くも、その世界は脅かされようとしていた。



チャイムが鳴り、短いようで長かった授業が終わりを告げた。
週番の号令と共に、この空間に拘束されていた全ての人間が解放される。
僕達二人とクラスメイト、そして、先生だ。
まさかこんな展開になろうとは想像もしていなかった先生は、僕の首根っこを掴んで職員室へと連行するでもなく、逃げるようにそそくさと教室を後にして行った。

「おい、どういうことだか説明しろよ、拓登!」

うるさい教師が居なくなれば、後は自由空間だ。
そう言わんばかりに、物好きな連中が鎖から解き放たれたように、僕と頼の元へと集結した。

「あ、痛いって、そんな首絞めないで……」
「うるせぇ、虫も食わない顔してる癖しやがってよぉ!」

クラスメイト……正確には、斜め左の席の富田にチョーク気味のスリーパーをかまされる。
本気でこそないものの、僕の返答如何によっては、力加減は変わってくるだろう。

「な、何でもないんだって、ホントに」

腕をバタバタさせつつ、横目で頼の様子を確認してみる。
僕のところに集まってきたのは血の気の多そうな男子連中で、頼のところには如何にもゴシップ好きそうな顔ぶれの女子が集っていた。

「ったく、変人夫婦だと思ってたら、ちゃーんとやることだけはやってるってか?」
「そんな、してないっ、してないって!」
「嘘つけ! 白状しないと、ためにならんぞ!」

ぐいぐいと首を絞め付けられる。
こういう時、男子は遠慮がないから辛い。

「まさかこの柿崎に先を越されるとはなぁ……まあ、有り得ない話じゃねーけどよぉ」

別の男子が富田の横で淡々と感想を述べる。
ちなみに「先を越される」というのは、そういうことなんだろう。
悔しいというのと同時に、興味津々という感情が、誰しもの表情に表れていた。


「――拓登は、まだ、入ってない」

隣の席で女子連中に囲まれていた頼。
しつこく質問されたのか、相変わらずのぶっきらぼうな声が人の垣根を通して僕の耳に届いた。

「へぇ、そうなんだ。でも、柿崎君が下着とか、持ってたみたいだけど」

誰の声だかわからない追及の言葉が、見えない頼に降り注ぐ。
そんなやり取りを耳にした富田のスリーパーが途端にほどけた。

「え? どうしたの、急に?」
「お前は言いそうにないけど、奥さんの方はなんぼか口が軽いみたいだからな。あっちに鞍替えするわ」

富田が僕を放棄して女子の輪に加わると、後に続けと言わんばかりに数人の男子が頼の席に集う。
ぽつんと独り取り残された僕は、慌ててその後を追った。

「――拓登が拾ってくれたんだ。あれは、本当に助かった」

誰かの質問に対し、頼はそんなことを答えている。
頼は愛想は悪いし自らアプローチすることはないが、言われたことは大概素直に返すタイプだ。
びろうどのマントにとんがり帽子、しかも休み時間には怪しげな本を読み耽るときては、誰も近付こうとしないのも道理だったが、この場合は全く違う。
近寄りがたい感情以上に、皆の好奇心は間違いなく炸裂していた。

「拾ったって、それならどうして落としたの? ねえねえ?」

こういうことは秘密にしておくべきだとか、頼にはその辺の感覚がないらしい。
頼にとっては、これといって恥ずかしいことでもないのだろう。
鋭い女子はそれをすぐに察知したのか、猫なで声で頼に説明を求める。

「それは、拓登が――」
「よりっ、言うな、言っちゃダメだ!」

質問されたことをそのまま答えようとした頼に向かって、人垣越しに制止しようとした。
だが、事実を知りたい男子連中がそんな僕を腕力で阻む。

「うるさいぞ、柿崎。奥さんの言論の自由を剥奪しようとは頂けんなぁ」
「そうだそうだ! 旦那が口出しすべきことでなし!」

見事な連携プレイで僕は羽交い絞めにされる。
そしてどこから持ってきたのか、体育で使うハチマキで猿ぐつわをかまされた。

「むうーっ、むぐむぐっ、むぐっ!」
「うむ、これでよし。後顧の憂いは絶ったところで……」
「柿崎と内藤さんの情事の克明なレポートを聞かねばならぬな」

発言と行動の自由を奪われた僕は、床に転がされる。
そのことで安心した富田一同は、女子と頼の質疑応答を聞き逃すまいと、かしましい輪の中に戻っていった。



「……今、拓登の声が聴こえた気がした」

人間の垣根のせいで、僕の状態がわかっていない頼。
でも、さっきの呼びかけは無駄ではなかったようで、珍しく心配そうな声を発していた。

「あー、柿崎君は柿崎君で、みんなに色々質問されてるみたいよ。だから気にしないで」

巧妙な女子のフォローが入る。
人を疑うことを知らない頼は、ころりと騙されてしまったようで、反駁の声は聴こえてこなかった。

「それよりほらっ、さっきの質問の答え、まだでしょ?」
「そうそう、パンティをどうして落としたのかなーって」

そんな内容の問い詰めが複数、床に転がされている僕の耳にも届いた。
頼がどんな答えを返すのか、何も出来ない僕は不安いっぱいで耳を澄ませる。

「――儀式のためだ」

そう、僕の耳には聴こえた。

「儀式? それってどんな?」
「宗教的な儀式だ。詳しくは、言えない」

事実を認めたものの、頼は言及を避けた。
まあ、確かに僕達は儀式をしている訳で、それはあまりおおっぴらにするものではないと、頼は判断したんだろう。

「でも、えっちなことしてたんでしょ? ラブラブ〜って感じで」

思わぬ頼の拒絶に屈することなく、曖昧な質問を繰り返す女子。
ぱんつを脱ぐということ自体に特別な何かを感じこそすれ、具体的なことはまだよく知らないのかもしれない。
そう思うと、この状況下でも、なんだか微笑ましいものを感じた。

「私は別に、悪いことをしているつもりはない」

頼はそう言い切る。
確かに、行為の際の頼は、罪悪感の欠片も帯びていなかった。

「悪いとは言ってないわよ。私達は色々と知りたいだけなの。ねっ、内藤さん」

根気強く、猫なで声は続く。
だが、そんなことに惑わされる頼じゃないこともまた、僕は知っている。
頼が言わないと決めた以上、誰もそれを枉げることは出来ないだろう。

「……うるさい」
「えっ?」
「お前たち、うるさい。儀式の邪魔をするな」

頼の声色が変わった。
いつもの無感情なものから、苛立ちを帯びたものへ。
何となく、そうなるだろうと予想はしていたけれど、いつもだったら困るだけの僕なのに、今は何故か、それがとても嬉しかった。

「う、うるさいって、そんな……」
「これは私と拓登の問題だ。お前たちが関与する謂れはなかろう?」

頼の周りに出来た垣根が揺れる。
ざわめきが広がり、自然と輪が緩んだ。

「そ、それはそうだけど……」
「呪われても、知らんぞ。その身が惜しければ、ヒトが我等の領分に口を挟まぬことだ」

既に、恫喝の域に入っていた。
そう気づいた瞬間、僕はさっきまでの嬉しい気持ちが霧消したことに気づく。

「……散れ!」

鞭で叩くような一声。
それは比喩でありながら、浴びせられた当人は本当に叩かれたような感じがしただろう。

きっかけは最悪のものだったけれど、頼がみんなの輪の中には入れるかもしれない、はじめての出来事。
それがこうして呆気なく消え去ろうとしている。
僕は頼に請われて、頼と二人だけの影の道を歩もうと決意したけれど、本来は一緒に明るい学園生活を送りたかった。

こうして身体の自由を奪われていなければ。
僕は虚しく、抵抗の色を見せようとする。
そんな時、僕の前に一人の男がしゃがみ込んだ。

「むぐっ?」

それは、率先して僕を拘束した、あのにっくき富田だった。

「拓登、お前、内藤のことが好きなんだろ?」

冗談めかした台詞でなく、僕の反射的な怒りも消える。

「…………」

本当は、どうなんだろう?
でも、きちんと考えて答えを出すより先に、僕は強く、力強く頷いていた。

「よっし、よく言った。って、言ってはいないか。とにかく、奥さんのこと、助けてやれよ」

羽交い絞めがほどかれ、ハチマキの猿ぐつわを外される。
いきなりのことで、僕は何が何だかさっぱりだった。

「と、富田、どうして……」
「ああいう時、女ってのは残酷だからな。だが、俺らは男だろ? 男は他人の女にでも、やさしくなれるもんだ」

どこかのハードボイルド映画のように、勿体をつけて富田は言っていた。
正直、似合ってなどいない。
でも、そんな富田を、僕は男だと思った。

「サンキュ、富田!」

飛び起きて、頼の元へ。
後は、簡単なものだった。

「より、大丈夫か!」

僕に掻き分けられた女子多数は、それをきっかけにして、蜘蛛の子を散らすように頼の机から退いた。
広がった輪の中で、二人きりになる、僕と頼。
だが、当の頼は何が何だかわからずに、訝しげな顔でこっちを見上げていた。

「どうした、拓登。騒々しいな」

言葉はいつものままに。
しかし、刺々しさはなく。
僕を前にした時の、素っ気ないいつもの頼だった。

「い、いや、よりが心配だったからさ……」

頼はいつものように気にしていないけれど、僕は気にせずにはいられない。
それが頼には余計なことだったとしても、とにかく僕はそれ以上でもそれ以下でもなく、ただ心配していた。

「……そうか」

変わらぬ瞳。
それは真っ直ぐに僕を見ている。
そこに感情がなかったとしても、頼がこうして見ていてくれるだけで、今はそれだけで十分にすら思えた。

「だが、拓登はやはり頼りになるな。誠実だ」
「えっ?」
「先程言ったことを、きちんと守っているから」

先程言ったこと。
それが何なのか、僕にはすぐにわからなかった。

「どうした、思い出せないのか?」
「あ、うん、ごめん」
「私のことは、拓登が考えていてくれ、と。どうだ、思い出したか?」

確かに、頼はそんなことを言っていた。
周囲の目とか、そういうのは苦手だから、僕に気にしていてくれ、と。

「うん、思い出したよ」
「そうか、それならいい」

特に深く考えるでもなく、頼は軽く流して応える。
だが、そこから意味不明な行動に出始めた。
おもむろに、自分の机の中を漁り始めたのだ。

「ど、どうしたの、より?」
「あ、いや、何か拓登にあげる褒美はないものかって……」

どうやら、そういうことらしい。
律儀であると同時に、妙にズレているのが、如何にも頼だった。

「別にいいよ、そんなの。僕が好きにやってるんだしさ」
「そうはいかない。契約を交わした以上、義務が生じるから」

契約と義務。
僕は屋上で、自ら頼に与えることを誓った。
でも、それに対して頼がどうするのかは全く示しておらず。
確かに言われてみれば、何かあっても別段おかしくはなかった。

「そうだ、拓登に訊けばいい。欲しいものとか、ないの?」

何の気なしに、頼が訊ねてきた。
でも、それは言葉以上に重いものだと言うことを、僕は今までの経験で知っている。
そしてまた、僕は自分が何を頼に求めているのか、はっきりと思い浮かべることが出来た。

愛が欲しい、言葉が欲しい、視線が欲しい、そして、日常が欲しい。

でも、それは叶わない願い。
だから、口に出せない。
求めれば、たぶん頼の身体はもらえるけど、僕が欲しいのは、そんなんじゃなかった。

「…………何もいらない」

求めて拒まれるのが恐かった。
だから、嘘をついた。
欲しくないものを与えられても、悲しいだけだ。

「……困ったな」

僕の返事に、頼は素直なコメントを返した。
だが、困った顔も一瞬で消える。

「だが、全てを拓登に委ねるのは単なる甘えだな。うん、わかった。拓登が欲しそうなものを、自分で考えて決めるとする」

そう言って、頼はおもむろに立ち上がる。
立ち上がって、机の上に登って、膝立ちになって。
僕より頭ひとつ高いところに陣取って、両方の手を僕の肩に乗せた。
まるで、押さえつけるように。

「より……」
「伊達につき合いが長いわけじゃないから。拓登が欲しそうなものくらい……」

頼のことなら何でも知っていた。
いや、知っているつもりだった。
結局、僕の単なる思い込みで、頼が何を思い、何を考えているかなんて、僕はさっぱりわかっていない。
わかっているのはただ……僕が、頼を好きなことくらいだ。

「――ずない」

だから、思わず口にしていた。

「ん、どうした? よく聴こえなかったけど……」

僕の少し上で、頼は小首を傾げる。

「わかるはず……ないよ。よりには……」

悲しませたくない。
でも、一度口にしてしまったら、雪崩を打つように口に出ていた。

「拓登は、そう思うんだ……」

がっかりしているのかどうか。
僕にもはっきり言えないような、微妙な声。
表情も、逆光と髪に隠れて、よくわからなかった。

「じゃあ、受け取ってみて、それで判断すればいい。私が、わかってるかどうか」

肩に載せられた手。
ほんの少し、力が加わった。
ぎゅっと握って、掴んで、放さぬように。

「これが、私のこたえ……だから……」

影が下りて、音もなく重なる。
頬に頼の髪が触れ、くすぐったく感じた。

挨拶するように鼻先が触れ……それはさっきと同じ。
でも、そこから更に一段、頼が沈んだ。
より、深く。
それは、互いの唇が触れ合う距離だ。

「…………」

軽く舐めたのか、僅かに濡れていた唇。
ただ重ねているだけなのに、まるで吸い付くように、僕と頼の唇が結ばれた。

「ん……」

頼の吐息が届く。
衆目の下でキスを交わしているこのざわめきも、今は不快じゃなかった。
不快だったのは……僕がキスを求めていると思った頼の思考と、それなのに嬉しく感じている、下らない自分だ。

「……どう、わかった、拓登?」

唇を離し、確認を取る頼。
僕は見下ろされながら、出したくない言葉を発する。

「…………キス?」

キスなんて求めてない。
僕が欲しいのは、ただ――

「ちがう、よ、拓登……」

否定の言葉。
それはあまりに無感情で、それが悲しくて。

「拓登には……私の、こころをあげる。だから……」

頼のこころ。
今のキスが、その証なんだろうか。

「だから……」

だから。
その続きは、頼の口からは出てこない。

だから……何なんだろう?

でも、僕は頼のこころをもらった。
きっと、それ以上のものはない、と思う。
結局、僕を誰よりも知る幼馴染の頼の判断は正しくて……。

「より……」

でも、頼がくれると言った、頼のこころって、いったい何なんだろう。


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