水飛沫が跳ねる。
ぱあっと光が舞い、虹が霞む。
水と光と空気の織り成す幻の世界。
子供だって知ってる原理だけど、ちょっとだけ夢を上乗せしてみたい。
夢があれば、チカラは現実になるから……。



スコールと夏の煌き

Written by Eiji Takashima




時は二月。
北風が吹く度コートの襟を正したくなる、そんな季節。まさに、冬真っ盛りだった。

「だってのにオレは……」

つい、愚痴をこぼす。
ここは電車に揺られて一時間の、家から一番近い海浜公園。
埋め立て地に造られたそこはただただ広く、潮風を遮る障害物も少ない。

「冬には冬の、夏には夏の、それぞれの楽しみ方ってものがあるじゃねーか」

連れには聞こえないよう、注意を払いながら呟く。
明らかに、この冬にはそぐわないシチュエーション。
それを証明するように、辺りには人もまばらだ。

「何か言いました、藤田さん?」

少し前を上機嫌で歩いていた彼女がくるっと振り返る。
長めの白いスカートがふわりとなって、雲ひとつない青空に光った。

「あ、いや……なんでもない」

オレは軽く誤魔化しながら、そっと手をかざして光を遮る。
この寒さを皮肉るように陽射しは強い。
澄みきったこの青は、まさに冬のものだ。

「そうですか、よかった」

満面の笑顔で応える。
透き通るように白い肌に映える、曇りのない笑顔。
一体いつから彼女はオレにこんな貌を見せるようになったんだろう。

「来て、よかったかな?」

彼女に対する問い。
でも、それはオレ自身に対する問い。
これでいいのか。これが彼女のためなのか。疑問は常にあった。
でも、彼女の笑顔が打ち消す。
不安のカケラも感じさせない、悔しくなるようないい笑顔で。

「はい、とっても! 有り難う御座います、連れて来て下さって」

言葉が表情を裏付ける。
心配するな、思い悩むな、とオレに訴えかけるように。

「そっか、いや、こっちこそ……」

笑ってみる。
馬鹿馬鹿しい自分の思考をフッと笑ってやる。
これでいいじゃないか。彼女も正しいと言っている。
今日は楽しむためにここに来た。
オレは下らない思考を振り払って、彼女の横に並ぶ。

「……手、つなごうか。寒いだろ?」

照れながら言う。
途端に彼女の頬が赤らむ。
いつまで経っても慣れない行為。
彼女と知り合ってから、もうすぐで一年になる。
最初は変な先輩、そして一月で恋人。
そして今は、いい友達。
不思議な関係は、こうして今も続いている。

袖の長いコート。繋いだ指先を半分隠す。
感じた指の冷たさに、彼女は微笑みながらオレに告げた。

「やっぱり寒かったですね。中、早く入りましょうか」

誘われたにもかかわらず、彼女はオレが嫌々ここに来ていることを知っている。
そして、刺すような寒さに少し苛立ちを覚えていることも。

「そうだな。じゃあ、少し急ごっか」

二人の歩みが速まる。
それは決して、速まった鼓動のせいじゃない。
彼女は黙ってオレの思考を窺い、オレは彼女に普段では見せない優しい姿を見せる。
ぎこちなさとよそよそしさと、そして恋人同士っぽい仕種と。
だから、不思議な関係。
本人同士しかわからない、そんな不思議な関係。



「うわぁ……」

公園内にある水族館。
彼女は色とりどりの魚達に魅せられている。
オレは少し離れた位置で、そんな彼女を見ていた。

「そんないいもんかね……」

小さく呟く。
浮かれている様子は、彼女の年齢を更に低く見せる。
それに逆らうように、オレは斜に構えていた。

「水族館は嫌いじゃないけど、いい加減飽きるだろ」

オレも水族館が嫌いって訳じゃない。
が、来るのはいつもここ。
彼女の輝き方が、他とは全然違って見える。
そのことに気付いてから、彼女を誘う時はいつもここにしていた。

「ほらっ、こっちに挨拶してますよ。ほらっ!」

何やら巨大な生命体の奇妙な仕種に子供っぽいはしゃぎっぷりを見せている。
オレは彼女に手を振って、水槽に歩み寄った。

「どれどれ、おー、これはサメの仲間だな。ネコザメか」

確かに挨拶してるように見えなくもない。
こういう感性は、女子供特有のものだ。
無論、野暮な発言で水を注すつもりもない。

「あ、そうですそうです。よくご存知ですね」

何度もここに通った結果、水棲生物には詳しくなった。
彼女ほどではないにしても、だ。

「ま、流石に何度も来てりゃーな。ネコザメくらい覚えるさ」

笑って言う。その中に含みは持たせない。

「ふふっ、それもそうですね」

彼女も嬉しそうに笑う。
オレの成長が喜ばしいのだろう。
先生気取りの彼女を前にすると、ちょっとだけ気恥ずかしくなる。
そんなオレの反応が、更に彼女の好奇心をくすぐることになるとわかっていても。

水族館を二周くらいして、館内放送が流れた。
黙っていても、オレはこれが彼女の待っていたものだと知っている。

「あ、イルカのショー。始まるみたいですよ」

隠そうと思っても隠しきれない。
彼女のイルカ好きは、この季節でも変わりなかった。

「そっか。じゃ、行くか?」

このためだけにここに来ていると言っても過言じゃない。
でも、オレは彼女のために、敢えて指摘はしない。

「急ぎましょう。いい席とらなきゃ!」

彼女がオレの手を取る。しっかりと、全てを包んで。
余ったコートの袖も、彼女の想いは止められない。彼女が自由になる、そんな瞬間だった。



イルカショーの会場は館外にある。
オレはコートの襟を立て、寒さに備えた。

「やっぱり最前列ですよねっ!」

海風に滅入っているオレとは対照的に、彼女の頬は緩みっぱなしだ。

「でも、水がかかるだろ。もっと後ろにしないか?」

無意味だとわかっていても、言わずにはいられない。
この寒空の下、びしょ濡れになるのは御免だ。

「平気ですよ、ほらっ」

彼女はバッグを開けて見せる。覗き込むと、タオルが二本入っていた。

「準備は万端です。ちゃんとわたしが拭いてあげますから」

笑顔でそう言う。
拭けばいいってものでもないとは思うが、彼女の厚意を無にすることも出来ない。
それに、彼女にはここに座る意義があることを、オレは知っていた。

「わかったよ。じゃ、後で頼むな」

しょうがない、といった顔をする。
彼女もこれが自分のわがままだということくらい知っている。
滅多に我を通そうとしない、彼女のわがまま。
だからオレはそれが嬉しく、嬉しいと感じている自分を悟られるのが恥ずかしかった。

「はい。わたしのことも頼みますね」

濡れるのは前面。当然、自分で拭ける範囲が濡れるだけだ。
彼女は照れながら、歩み寄りを見せる。

「……髪。塩水だしな」

今では自慢の髪。少しお洒落をして、軽くウェーブをかけている。

彼女が黒く染めてしまおうかと相談して来た時、オレはそのままの君が好きだと答えた。
そして、彼女は染める代わりに真っ直ぐだった髪にウェーブをかけてオレに応えた。
変わらない自分。変わりたい自分。
彼女の悩んで出した結果がそれだった。

「……はい」

彼女はそれしか答えない。
笑うだけでは表現しきれない喜びがそこにはあった。
これでいいと思う。彼女も同様だろう。
だからオレはここに、彼女はここにいる。

「ちゃんと、拭いてやるから」

そっと答える。彼女の耳にも確かに届く。
閑散とした客席の中、盛り上がりを欠いたステージがようやく始まろうとしていた。



恋人関係を解消して、半年が経過した。
月に何度か二人で出掛けるオレ達を、周囲は恋人同士だと思い込んでいる。
ただの友達だと認識しているのは当人のみ。しかし、重すぎる認識だった。

「がんばれー!」

演技をするイルカ達に声援を送っている。
観客が少ない分、自分が頑張らないとと張り切っている様子が見て取れた。
オレは既に見飽きたイルカショーを気持ち半分で眺めつつ、気付かれないよう彼女の横顔に視線を向ける。


『友達からやり直そう』

そう切り出したのはオレからだった。
幸せの絶頂にあった彼女にしてみれば、寝耳に水の話だったろう。
理由を説明し、納得させるのに丸々一週間を要した。
苦労の甲斐あって彼女もなんとかオレの言葉を受け入れ、こうして今に至る。
半年の間、進展がなかった訳じゃない。
ゆっくりではあるけれど、少しずつ近付いていた。

「なら、どうして……」

どうしてまだ恋人同士に戻らないのか。
オレは彼女の横顔を盗み見る度、そんな疑問を自分にぶつけている。

「えっ、どうしたんですか? 今、何か言いました?」

思わず洩らした呟きに、彼女がこちらを向く。
高く振られていたレースのハンカチが、静かに下に降ろされた。

「え、ああ……ちょっとな。やっぱ観客が少ないと、気合も入らないのかと思って」

違うことを言う。
彼女は気付かず、オレの言葉に応える。

「そうですね。それに寒いですし」

苦笑い。
そして初めて気付いたように、襟元を合わせた。

「寒い、か……」

寒い。
既に軽く飛沫を浴びている。
コートの中には染みないものの、あまりいい気はしない。

「……ごめんなさい、寒くて」

今日初めて、彼女がオレに謝った。
しかし、かつてのような思いつめた謝罪ではない。
笑顔の一歩手前、そんな感じだ。

「いや、寒いのはしょうがないさ。冬だからな」

そう応える中でも、飛沫はオレ達に降り注ぐ。
顔にかからないように手で軽く防ぎながら、彼女はオレに言った。

「じゃあ、頑張って夏にしちゃいましょうか?」

そこにあるのは冗談とは取れない本気の笑顔。
そんな彼女を見る度、オレはドキッとさせられる。

「夏にするって……そんなこと出来るのか?」

オレは当然の疑問を口にする。
今は二月。冬真っ只中だ。

「出来っこない……そう思います?」

挑発するような視線。
口元に手をやってクスッと笑う仕種は、どことなく小悪魔的だった。

「普通ならな。いくらなんでも無理だろ」

答えて言う。
かつて彼女に夢見ることを教えたのはオレだったのに、いつのまにか立場が逆転していた。

「でも、ほらっ……」

彼女は指差す。
その先には跳ねるイルカの姿が。

「イルカ、だろ? それがどうかしたか?」

インストラクターのお姉さんの合図に合わせてイルカが跳ぶ。
彼女という最大の観客を欠いた今、賞賛の拍手は聞こえなかった。

「イルカ、頑張ってます。だからわたしも頑張れば」

迷いはない。
瞳の強さにオレは少しだけ尻込みした。

「お、おい、頑張ればって……」

現実に縛られているのはオレの方だった。
ウェーブのかかった彼女の髪が、微かに揺れ始める。

「行きますよ……見てて……下さいね……」

チカラの存在を感じる。
彼女のまばたきが止まり、意志が彼方に向けられた。
だが、その先をオレは知らない。
冬を夏に変えるなんて、何をどうすればいいのだろう。

「……えいっ!」

掛け声。
瞬間、イルカがひときわ高く跳ねた。
空間が弾け、応えるように水飛沫が舞う。

「あっ……」

そこには虹。
水と光の結晶に、オレは思わず魅せられた。
だが、それは一瞬の出来事で、すぐに我に返って彼女を見る。

「ちゃんと見てくれました?」

少しだけ、彼女の息が荒い。
それはチカラを駆使した証だ。

「虹……だったら……。でも、夏じゃないぜ」

見えたのは虹。
でも、彼女のチカラとは無縁のもので、この陽射しならあと何度かは黙っていても見られるはずだった。

「虹が見えたんでしたら、それは正解ですよ」

彼女は笑って言う。
虹を夏と言い切る彼女の姿は、オレにも正しいと思わせてしまいそうになる。

「正解……なのか?」

やり取りの最中も、現実は淡々と進んでいく。
ショーのプログラムは進行し、イルカは水飛沫を上げる。

「ええ、虹には夢がありますから。夏になったら、一緒に虹を見に行きませんか?」

一瞬見せてくれた幻。
あの虹は、彼女の夢のカケラなんだろうか。

「虹を? 一緒に?」

吸い込まれるように彼女の瞳を見つめながら聞き返す。

「はい。今のはその、予告みたいなものです。だからちょっとだけなんですけど」

照れ笑いを浮かべる。
彼女は冗談を言ったつもりなんだろう。

「なるほどな。いいぜ、一緒に行こう」

彼女に応える。
彼女の夢、そして彼女が見せてくれた夏に。

「わたし、夢を見てもいいんですよね?」

見た夢を現実にすることが出来る。
彼女にはそのチカラがあった。
でも、決して無駄遣いはしない。
彼女が見せたのは夏のカケラだけ。
カケラだけでも、オレは充分に詰めこんだドキドキを感じることが出来た。

「ああ、当然だろ。それと……」

少しだけ、口篭もる。
オレは言いにくそうに視線を逸らしながら、続きを口にした。

「オレも一緒に……いいかな?」

言ってから、ちらちらと彼女の反応を窺う。
でも、彼女にはもうお見通しだった。

「その言葉を、ずっと待ってたんですよ、わたしは」

告白したのは彼女。
別れを告げたのはオレ。
そして今回は――

「悪いな、待たせて」

恥ずかしい。
でも、彼女を見ずにはいられない。

「わたし、夏まで待てないかもしれません。うれしくって」

彼女の夢は夏。
夏まではあと数ヶ月待たねばならない。
しかし彼女には、冬を夏に変えるチカラがあった。

「別に夏を待つ必要は……ないと思うぜ」

夏まで待てないのはオレも同じかもしれなかった。
だが、オレには彼女のようなチカラはない。
あるのはただ、想いだけだ。

「なら、言ってみて下さい。わたしが想いにチカラを乗せて、夏を運んでみますから」

笑顔で言う。
彼女はオレの想いを求めていた。
オレの想いと彼女のチカラが重なって……そして初めて夏がやってくる。
もう、迷いなんてなかった。

「好きだ、琴音ちゃん……」

初めての告白。
オレは別れの時にした約束を、半年がかりでようやく果たした。
心から好きだと言えて、それで初めて恋人同士になれる。
オレが彼女の全てを好きになるまでに長い時間がかかったけれど、それは少しも無駄じゃないと断言できた。

「わたしもあなたが好きです、藤田さん……」

オレの想い、そして彼女のチカラ。
そのふたつが一緒になって、夢を現実に変える奇跡が生まれる。
跳ねる水飛沫。輝く冬の太陽。
イルカの水飛沫はスコールに、そして太陽は一瞬だけ夏の煌きを見せた。
さっきよりもひとまわり大きな弧を描く。
オレ達を夏へと導く架け橋のように、虹はしばらく浮かんで消えなかった。

「見えたぜ、夏が……」

そこだけ冬が夏に変わった。
もう、オレは否定することもない。

「わたしにも見えました。夢が現実に変わって……」

この半年間はただ、夢を見続けていただけだったのかもしれない。
でも、もう夢じゃない。
冬が夏に変わったように、夢も現実へと変わった。
虹がオレ達を繋ぐ。
普通ならはそれは消えてゆく幻。
しかし、虹が消え去る前に、オレはそっと彼女の手を取った。

「もっともっと、沢山の夢を現実に変えていこうな、琴音ちゃん」

それには彼女のチカラが要る。
オレは彼女を必要としていた。

「はいっ、二人で一緒に!」

きゅっと握り返される手。
オレも少し力を込めて握り返した。
二人で共に歩んで行こうという証に。
そして、夢を現実に変える喜びの証に……。

                               終わり




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