二人の距離 前編



「遅いじゃない、何やってたのよ」
「あ、何言ってんだ。いきなり人呼び出して遅いは無いだろ」
「男はぐだぐだ言わないの。ほら、いくわよ」
 志保は身を翻し、ショッピングモールへ続く道を歩きだした。
 輝く茶のショートカットを軽くかき上げ、初夏の日差しに目を細める。
「暖かくていい気持ち。絶好の買い物日和よね」
「買い物に天気が関係あるか。おまえは頭の中まで夏仕様みたいだな」
 自分の頭を指で叩く、精悍な顔立ちをした少年。
「いちいちうるさいわね、浩之。普通は素直に「うんそうだね、僕もそう思う」くらい言うものよ」
「普通は、な」
 意味ありげに微笑んでみせる浩之。
 志保は一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに表情を和らげ肩をすくめた。
「まあいいわ。可愛い女の子にちょっかいをかけたがる気持ちは分からないでもないし」
「・・・楽天的というか、脳天気というか」
「前向きと言ってよね」
 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑い出す。
「で、どんな服買うんだ。夏が近いから半袖系か」
「向こうで決めるわ。深く考えずに行って、素敵な服を発見するのが楽しいしね」
「アバウトだな、相変わらず」
「浩之は買いたい物とかないの?」
 耳元をかき上げ、その顔を覗き込む志保。 
「今月はきついんだよ。どうしても食費がかさんでさ」
「仕送り増やしてもらったら?それか家計簿つけなさい」
「どっちも無理だ。大体俺が勝手に一人暮らししてるのに、もっと金送ってくれは無いだろ」
「まあね。でもそういう事なら、今日のお昼は私がおごって上げるわ」
 すると浩之は、世にも意外な事を聞いたという顔で志保を見つめた。
「な、何よその顔」
「いや別に。さすが志保さん、太っ腹だなと思って」
 そして、今度は志保のお腹に視線を落とす。
「・・・意味が違うでしょ、それ」
 黒のウエストスカートを押さえる志保。
 ノースリーブのハイネックシャツは対照的な白で、初夏の日差しを鮮やかに跳ね返す。
「さあな。しかし、何で俺を誘うかね。どうせならあかりとか・・・、彼氏とか」
 皮肉めいた浩之の笑みに、志保は平静を装いつつ言葉を返した。
「自分だってそうでしょうに。私はそれを不憫に思って、あまたの候補からあなたを選んであげたんじゃない。ちょっとは感謝しなさい」
「へいへい。じゃあ今日は、寂しい者同士肩を寄せ合うとするか」
「全然人の話聞いてないわね、あなた」
 呆れた表情を浮かべ、志保は隣を歩く浩之を見上げた。
 しかし浩之は特に気にした様子もなく、小さく伸びをする。
「俺は本当の事を言ったまでだ。それより先に飯食うか。もういい時間だし」
「ええ。で、何食べる?」
「ラーメン、かな。なんか塩ラーメンの気分だ」
「どんな気分よ、それ。せめてみそラーメンくらい言ってよね」
「何が、せめてなんだ」 
 いつもと同じ軽いノリと気さくな態度で会話を進めていく二人。   

 そうこうする内に、彼等はショッピングモールへと到着した。
 土曜日という事もあって、周りには家族連れやカップルの姿が目立つ。
「みんな楽しそうね」
 暖かな眼差しを、母親の手に引かれた女の子へ注ぐ志保。
「それはおまえが楽しいと思ってるからだろ。本当は、ここにいる誰もが楽しい訳じゃないさ」
「ふーん。醒めてるっていうか、人の心を読むっていうか。たまには良い事言うのね」
「褒めてるのか、それ」
 苦笑した浩之が、通りをさっと見渡す。
「俺的には、そこの路地を入った中華料理屋がお勧めだな」
「じゃあここは、地元民の意見を聞いておくわ。でもまさか、本格中華のお店じゃないでしょうね。北京ダックなんておごれないわよ」
「だからラーメンだって言ってるだろ。大体、高い中華料理イコール北京ダックっていう発想がしょうもないんだよ」
 すたすたと歩いていく浩之の後を、わざとらしく疑った顔の志保が続く。

「いらっしゃいませっ」
 威勢の良い挨拶が、店の奥から幾つも聞こえてくる。
 同時に品の良さそうな中年の女性が、二人を出迎えた。
「いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」
「あ、はい」
 テーブル席は殆どが埋まり、カウンターも何人かの客が座っている。
 カウンターに腰を下ろした二人は、手渡されたメニューに目を通した。
「俺、塩な。志保は何にするんだ」
「五目にする。でもあなたラーメンだけでいいの。餃子とかチャーハンもあるわよ」
「食べるのはいいけど、随分気前良いな」
 多少心配気味な浩之の視線に、志保はなだらかに膨らんだ胸を押さえた。
「この志保ちゃんにお任せあれ。こないだおじさんが家へ遊びに来て、お小遣いくれたの。今日服買いに来たのも、そのせいよ。」
「ならいいや。表通りに、本格中華の店があるんだよ。どうせならあっちで、噂のアワビの姿煮でも・・・」
「すみませーん。塩に五目、あと唐揚げとエビチャーハン下さいー」
 一切無視して、さっきの女性に注文する志保。
 そして水を半分ほど飲み、コップを浩之に差し出す。
「んだよ。こんなの分け合っても仕方ないだろ」
「はぁ。あなたって人は、本当に礼儀を知らないわね。いい事、ここのお金を出す人は誰?」
「志保だろ」
「だったら分かるでしょ」
 流し目をくれ、丸みを帯びた可愛らしい顎を軽く動かす。
「注げばいいんだろ、ほれ」
 呆れた浩之が水の入ったポットを持ち上げたところで、志保の眉がぴくりと上がる。
「浩之君なってない、なってないわよ。その言葉遣いはなに」
「そこまでしろって?」
「当たり前でしょ。大体水を注ぐのなら、ちゃんと両手を添えてこういう風に」
 ポットの下を支え、いつの間にか空になっていた浩之のコップに水を注ぐ志保。
「あ、私がやってどうするの。ほら、もう一度」
 ポットを受け取った浩之は、顔をしかめて志保の方を向いた。
「・・・それでは、注がせて頂きます」
「うむ、良きに計らえ」
「くっ。・・・失礼します」 
 音を立てて水が注がれていく。
 志保はコップを目元まで掲げ、意味ありげに頷いてみせる。
 そしておもむろに口を付け、もう一度頷いた。
「お味は、いかがでしょう」
「悪うない。うぬもやれい」
「ははっ」
 一気に水を飲み干し、空になった自分のコップを差し出す浩之。
 志保は大仰に頷き、片手でポットを持ちドボドボと水を注ぐ。
 顔に水が掛かった浩之は、鬼のような形相でコップに口を付けた。
「どうじゃ、味は」
「よ、よろしいかと」
「そうか、甘露であったか。ほれ、もう一献いけい」
「てめ、いい加減にしとけよ」
 浩之が牙を剥きかけたところで、タイミング良く唐揚げが差し出される。
「はい、お待ちどう様」
「あ、どうも」 
「あー、美味しそう」
 それまでの経過をさらりと流して唐揚げを箸でつまむ志保。
 そして、ハフハフ言いながら唐揚げを頬張る。
 この世の楽しさを一身に集めたような志保の笑顔。
 それには浩之も苦笑するしかなく、差し出された箸を受け取って自分も唐揚げを口にした。
「・・・ん、美味いなこれ。このちょっとピリ辛なところが何とも言えん」
「でしょでしょ。これで生ビールでもあったら最高じゃない」
「怖い事言うな。そりゃ俺達の年になれば飲酒くらい黙認だけど、昼間から飲んだくれてるようじゃ終わってるぞ」
「悔しいけど、それもそうね。まあこの恨みは、近い内に晴らさせてもらうわ」
 どんな恨みをどう晴らすかは分からないが、唐揚げには相当満足したようである。

 そうしている間に、二人のラーメンとエビチャーハンも運ばれてきた。  
「さてと」
 並べられている調味料の中からコショウを手にする志保。
 すると浩之が、大げさにため息を付いて首を振った。
「おまえ分かってないな。調味料っていうのは、まず一口食べてから味を調整するために使うんだ。もしかして、コショウ無しの方が美味しいかも知れないだろ」
「なに通ぶってるのよ。こういうのは、うだうだ言わないでとにかく掛けるものなの」
 そう言って、半ばやけ気味に振りかぶる。
 かなり高い位置で振られたコショウは、当然周りへ飛び散っていく。
「・・・ハ、クシュッ」
 一応は浩之から顔を背け可愛らしくくしゃみをする志保。
 幸いそちらに客はいなく、被害は最小限で食い止められた。
「あのな。コショウでくしゃみするなんて、マンガの主人公くらいだ」
「う、うっさいわね。我慢したら体に悪いのよ」
 まだムズムズするのか、ティッシュでしきりに鼻を抑える。
「それは風邪の場合だ。もうコショウはいいから、とにかく食べろよ」
「う、うん」
 さすがにコショウを置いてラーメンを食べ始める。
 味がいいせいか、その表情は自然と和らいでいく。
 二人はそれ以上会話を交わす事もなく、黙々と食事を平らげていった。
 

「ちょっと食べ過ぎたかしら。お腹苦しい・・・」
「単純に太っただけなんじゃないか」
「食べていきなり太る訳無いでしょ。やっぱりウエスト緩めよっと」
 腰に手を当て、ボタンの位置をずらす志保。
 多少は楽になったらしく、目を細めて長い息を付く。
「おっさんか、おまえは。どう見ても女子高生の行動じゃないぞ」
「それでも私は女子高生なの。大体、自分だってお腹張ってるんじゃない?」
「俺は平気だ。人間、いかなる時でも姿勢を正して生きて行かないとな」
 食べた量は志保より多いはずだが、男という事で多少余裕があるようだ。
「姿勢も何も、背筋伸ばしたら大変な事になるかも」
「おまえな・・・。ちょっと休むか」
「大丈夫。変に止まると、ぐったりしそうだもん」
 背中を丸め、ひょこひょこと歩き出す。
 「仕方ない奴」という顔で、浩之がその隣を歩いていく。
「でも、服ってどこで買うんだ。そこに婦人服専門店があるぞ」
「客がおばさんばっかじゃない。私があそこへたどり着くまでには、22世紀まで待たないと」
「100才まで生きる気かよ。でも、志保なら余裕であり得るか・・・」
「納得するな、納得を」
 笑いながら突っ込む志保。
 だが、おかげで苦しいのもかなり紛れたようだ。

 たわいもない会話を続ける内に、二人はショッピングモールの中心部まで来ていた。
 巨大な立方体のオブジェを中心として、4方に道が伸びている。
 オブジェの周りはかなりのスペースがあり、いくつかの屋台や新商品のキャンペーンが行われている。
 混み合っているという程でもないが、ベンチなどでくつろいでいるカップルや高校生風のグループの姿が目に付く。
「・・・あそこ。あの店が結構可愛い服売ってるのよ」
「ふーん。女物なんて買わないから気にも止めなかったけど、あんな店あったんだな」
「つまんない感心してないで、ほら早く」
 志保は肩をすくめる浩之を追い立てるようにして、店へと足を向けた。

 店内は夏が近いせいもあってか、ノースリーブや半袖の商品がかなりのスペースを割いて展示されている。
 意外と中は広く、店の奥にいる女子高生っぽい集団の笑い声も軽いBGM程度にしか聞こえてこない。
 店側もターゲットを10代の女性に合わせているらしく、原色系や派手な柄の付いた服が目に付く。
「キュロットか。裾が長いわね、これ」
「そうか?俺には分からんが」
「私が分かればいいの。んー、ちょっと違うかな」
 志保はバーバリーチェックのキュロットを棚に戻し、隣の棚へと手を伸ばした。
「最近、プリーツスカートが流行ってるんだって」
「プリーツ?何だそれ」
「こういう、スカートのひだの事。いいけど、もう少しふわっとした感じのないかな」
 どうやら本腰を入れて探す気になったらしい。
「・・・これか?いや、やっぱりこれかな。むー、これもいいわね」
「じゃあ全部買え」
「お嬢様じゃあるまいし、無理言わないでよ。取りあえず、試着してみるわ」
「そうしろ。さっきの例もあるし、ボタンがはじけ飛んだら困る」
 これには言い返す言葉が無いらしく、志保は睨みだけをくれて試着室へと向かった。

「・・・どう、これ」
「どうって言われてもな。色が違うだけでデザインは同じなんだろ」
「まあね」
 真っ赤なミニスカートを身につけた志保は、試着室の前でくるりと回りスカートの裾をはためかせた。
 そうして最後に、小首を傾げそっと微笑んでみせる。
 見ている人に安らぎと暖かさを与えてくれる、そんな笑顔で。
 浩之もそれには何か感じる物があったのか、控えめに呟いた。
「それに、どれも派手な色ばっかじゃないか」
「似合わない、こういうの?」
 冗談めかしてスカートをひらひらさせる志保。
 だが、かなり舞い上げすぎて今度は慌てて抑える事となる。
「・・・馬鹿か。別に似合わないって言ってんじゃない。いいから、自分の気に入ったのを買えって」
「んー、やっぱりの赤かな。取りあえず、スカートは決まりね」
「おい、まだ買うのか?」
 げんなりする浩之に、志保は当然とばかりに前髪をかき上げた。
 
 赤のミニスカートを脇に置き、キャミソールを見て回る志保。
 浩之は関心なさげに、壁際で腕を組んでいる。
「ねえ、これなんてどう」
「だから、俺は女物なんて分かんないの」
 すると志保は立てた人差し指を横に振り、それに合わせて舌を鳴らした。
「駄目ねぇ、浩之君は。こういう時は、「そうだね。それもいいけど、さっきのもいいかも。志保ちゃんは、何着ても似合うから」くらい言わないと」
「何でおまえにそんな事言う必要があるんだ」
「例えばの話よ。女の子は、そういう言葉を待ってるの」
 花柄のキャミソールを胸に抱き、うっとりとした顔をする志保。
「勝手にしろ。俺は、そういう事言わない女の子と買い物に行くから」
「そんな子いないわよ。いないっていうか、口に出さないだけ。心の中ではそう思ってるものなの。男のあなたには分からないでしょうけどね」
「へいへい。勉強になりました」
 付き合ってられないとばかりに鼻を鳴らし、浩之は大きく伸びをした。
「もう、だれてないで浩之も来てよ」
「だから、分かんないって言ってるだろ。それに、ここにいるのって結構恥ずかしいんだぞ。男、俺だけじゃないか」
「気にしないの。ほら、スカートは私が選んだから、上は浩之に選ばしてあげる」
「無茶言うな、おまえ。大体、何で俺が選ぶんだ」
「あなたのセンスチェックを兼ねてね。いいから、適当に選んでみて」
 からかい気味の志保に押され、店内をさっと見渡す浩之。
「キャミソールって、いかにもって感じなんだよな。悪くはないけど・・・」
「ん、何」
「いや、だからって他に思いつかないなって」 
 呆れた顔で肩をすくめた志保は、仕方ないといった感じで浩之の肩を叩いた。
「分かった、それが君の限界だ。そんな浩之君には、20点上げようじゃない」
「おい、20点はないだろ。・・・待て、もう少し考えるから」
 普段のバトルそのままにむきになる浩之。 
 その肩に、ため息混じりにもう一度手が置かれる。
「本当に負けず嫌いね、あなたは」
「ほっとけ・・・。キャミソールって、これだけで着るのか?」
「勿論重ね着もするわよ。普通にブラウスやワンピースの上に着たりして」
「なる、ほど・・・」
 目を光らせ、もう一度店内を見渡す浩之。 
 そして何かを見つけたらしく、足早に歩き出す。
 一方の志保は、鼻歌混じりでのんきに付いていく。

 その浩之がやってきたのは、ワンピースのコーナー。
 「10〜30%OFF」の張り紙があるせいか、その周りで足を止めていく客の姿も時折見られる
「ワンピース。無難というか、少女趣味というか」
 そんな軽口も気にせず、黙々とチェックしていく浩之。
 志保はなおもからかおうとしたが、意外に真剣な顔で選んでいるのを見て、少し彼から間を置いて様子を窺う。
 別に近くにあるワンピースを品定めする訳でもない。
 自分の服を選んでくれている浩之を、ただ見つめ続ける。
 飽きもせず、ただじっと。
 しかし穏やかだった志保の表情が、何故か曇り出す。
 やがては視線を落とし、完全に浩之から目線を外してしまう。
 短い、小さな吐息。
 誰にも聞かれない、自分ですら気づかない程の。

「おい、志保。おいって」
「え?」
 どれだけそうしていたのだろうか。
 顔を上げれば、訝しげな顔で自分を覗き込んでいる浩之と目が合った。
「・・・選ぶのが遅いから、寝ちゃいそうになったわよ」
 いつも通りの軽い口調。
 下がった前髪を横に払い、浩之が抱えている青いワンピースに目を向ける。
「またシンプルなの選んだわね」
「いいだろ、別に。さあ、俺のセンスは何点なんだ」
 自信があるのかないのか、素っ気なくワンピースが渡される。
 志保は取りあえずワンピースを広げ、自分の前に下げてみた。
「シャツワンピースか・・・」
 淡いブルー、襟元はやや小さい。
 裾も若干長めで、身につければ膝まであるかないかという程度。
 デニムっぽい生地の割にごわごわした感じはなく、触っていて心地いいくらいの感触。
 志保はワンピースを身体に当て、近くにあった姿見の前に立った。 
「なあ、何点なんだよ」
 背中に浩之が廻ってきたのに気づいた志保は、ワンピースを離し後ろを振り向いた。
「・・・まあ、80点くらいにしておいて上げるわ。知り合いって事でね」
「それはお優しい事で」
「サイズは大丈夫ね。まあ浩之の顔を立てるという意味で、これも買う事にするわ」
 あくまでも仕方なくという素振りで、志保はレジへと向かった。
 

 店を出ると、真上に上った太陽の強い日差しが照りつける。
 エアコンで冷えた身体には多少きつい気温でもある。
「暑いわねー。まだ夏じゃないっていうのに」
「こうして季節は巡ってくんだ。春が来て、夏が来て、そして志保の人生にも枯れ葉舞い散る秋が訪れると」
「私は一生常春よ。あなたこそ、もう冬になってるんじゃない。後は死ぬだけとか」
「俺はキリギリスなんでな。こつこつと蓄えて、冬を乗り切るのさ」
 上手いかどうかはともかく、切り替えされた志保は咄嗟に返す事が出来ず「うー、うー」唸ってしまった。
「どうした、アリさん。でも、おまえは働きアリとかじゃなくて、軍隊アリだな。志保の通った後には、草一本残っていないってか」
「私は女王アリなの。みんなにかしずかれて、のんき気ままに生きるのよ」
 突破口を見つけたとばかりに押し返す志保。
 だが浩之は、気にもせず再度切り返す。
「あれって、全部自分の子供なんだろ。そうするとおまえの将来は、子沢山の肝っ玉母さんか」
「やめてよ。そういう、テレビタイトルみたいなノリは」
 これ以上は形勢不利と判断したのか、志保は足を早めオープンカフェの椅子に腰掛けた。
「あー、疲れた。一休み一休み」
「健康な子供を産むにはまず運動だぞ。なってないな、おまえ」
「だから、そんなに産まないっていうの。・・・中の方が涼しいかしら」
 パラソルに日差しは遮られているが、歩道からの照り返しと輻射熱はかなりのものがある。
「そう言われてみれば、俺ものど渇いたな。さっき食べた唐揚げが、今になって効いてきた」
「辛かったものね、あれ。とにかく中に入りましょ」
「ああ。このままじゃもたん」
 二人は手動のドアを開け、店内へと入っていった。
 
 一転して中は涼しく、汗をかいた身体が一気に冷えていくのが分かる。
 全面ガラス張りの窓際は強い日差しが差し込み、さすがに座っている人はいない。
 二人もそこは避け、それでも外が見えるテーブルへ向かい合って腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
「私、クリームソーダ」
「俺は・・・、アイスティー」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」 
 マニュアルっぽい受け答えと笑顔であったが、身体が冷えていく感触に浸っている二人にはどうでもいい事だった。
「それにしてもおまえ、クリームソーダって。さっき苦しいって言ってただろ」
「甘い物は入る所が別なの」
「どっか穴でも開いてるんじゃないか。それとも、胃袋にブラックホールでもあるとか」
「そうそう。そこからホワイトホールを経て別宇宙へと、ってそんな訳無いでしょ」
 だるそうにノリ突っ込みをした志保は、テーブルに備えてあるメニューで顔を仰いだ。
 前髪がそよそよとなびき、口元が満足げに緩んでいく。
「海でも行きたくなるわね。でも、まだちょっと早いかしら」
「泳がなければいいだけだろ。海かー、いいとこ付くな」
「でしょ。潮の香りと押し寄せる波、潮騒がいつまでも耳に残り・・・。どうしよう、ものすごく行きたくなってきた」
 志保は両手をテーブルに付き、全ての指をバラバラに動かしてテーブルを小さく叩き出した。
「・・・分かった、分かったからそれ止めろ。俺もそんな話聞いてたら、行きたくなってきた。天気が良かったら、来週辺りにでも行こうぜ」
「本当?」
 志保は小首を傾げ、頬杖を付いていた浩之の顔を覗き込んだ。
 少し不安げな、しかし期待を込めた子供のような純粋に眼差しで。
 「ああ。でもあかり達はどうだろうな。雅史は来週、サッカー部の集まりがあるって言ってたし。あかりも、泳げないのに海に行ってはしゃぐタイプとも思えないんだよな」
 小さく頷いた浩之の何気ない呟きが、店内のBGMに乗って耳に届く。
「・・・そうね」
 輝いていた志保の表情に、微かな翳りが差す。
 彼等に飲み物を持ってきたウェイトレスの影のようだ。
「お待たせしました。クリームソーダに、アイスティー。ご注文は以上でよろしかったでしょうか」
「ええ」
「ありがとうございました。それではごゆっくりおくつろぎ下さい」
 やはりマニュアルな対応をして去っていくウェイトレス。
 それと同時に、志保の顔から翳りも消える。
「あかりは結構好きだと思うわよ、海。あの子だったら、ぼーっと一日中海眺めてそうじゃない」
 ストローでソーダに浮いたアイスをつつきながら、冗談っぽく笑う志保。
「かもな。取りあえず、あいつには俺から言っとく。おまえは水着でも用意しとけ」
「馬鹿。さっき自分でまだ早いかもって言ってたじゃない。そんなにこの志保ちゃんの、たわわに実った胸を拝みたい訳?」
「たわわじゃなくて、ワタタッの間違いだろ」
「どうしてカンフー映画なのよ。何その、ワタタッて」
 志保は水の入ったグラスに指をつけ、浩之に向かって軽くはじいた。
「わっ。てめ、何すんだ」
「そういう時は、ワタタってかわさないと」
 くすくす笑いながら、おしぼりでこぼれた水を拭いていく志保。
「・・・おまえも、一応はそういう事するんだな」
「一応は失礼ね。自分でこぼしたんだから、後片づけするのは当然でしょ」
「ふーん。志保、おまえマルチって知ってるか」
「前、学校に来てたメイドロボでしょ。それがどうかした」
 志保はおしぼりを脇へ戻し、逆に聞き返した。
「マルチって、掃除好きだったなと思って。おまえがテーブル拭くの見て思い出した」
「浩之一人暮らしなんだから、一体買ったら。意外と便利かもよ」
「俺はちょっとな。今志保が言ったみたいに、自分の事くらいは自分ですればいいだろ。それに、今時メイドっていうのもアレな気がする」
「まあね。でも、そういうのが好きなマニア筋には受けてるんじゃないの」
 志保は目を細め、ニヤニヤと浩之の顔を窺う。
「だから、俺は必要ないっていうの。そういうおまえはどうなんだよ」
「私も結構。私をモデルにメイドロボを作るっていうのなら、考えて上げなくないけど」
「そんなメイドロボが発売されたらとんでもない事になるぞ。うるさいは仕事はしないはデマは流すはで」
 怒るかと思いきや、志保は口元に手を当てしなやかに身をよじらせた。
「あーら、そうかしら。セクシーキュートでラブリーな志保ちゃんロボだったら、よからぬ目的で買う人が続出かもよ」
 そう言って、浩之に向かってウインクする。
「・・・セクシーキュートでラブリーはともかく、よからぬ目的ってのは俺も同感だ。量産型はどうかしらないけど、マルチなんて肌触りとか人間そのものだったからな。世の中おかしな事考える奴もいるさ」
「何でそんな事知ってるのよ。あなたも、そういう道に走らないように気を付けなさい」
「ご忠告どうも。最近は男性型のロボットも多いから、おまえも気を付けるんだな」
 目を合わせ、含み笑いをする二人。
 それは少しずつ声になり、やがて大笑いへと変わっていく。
 二人はウェイトレスの遠慮気味な注意を受けるまで、屈託のない笑い声を店内に響かせていた。


「もう、恥ずかしいわね」
「お互い様だ。客が少ななかったからよかったけどよ」
 その後も下らない話で盛り上がった二人は、遠慮気味な注意を何度も受け店を後にしていた。
 相変わらず太陽は上へ位置し、容赦無い日差しをぶつけてくる。
「ちょっと、このままじゃ危ないわ。焼け焼けの燃え燃えよ」
「大げさ過ぎるんだよ、おまえは。まあ、暑いのは確かだがな」
「でしょでしょ。早くどこかへ避難しないと・・・」
 額の辺りに手をかざし、周りを見渡す志保。
 その視線が、右手にあるビルの辺りで止まる。
「長岡君、君はゲーム以外に趣味がないのかね」
「つまんない事言ってないの。それは自分だって同じでしょ」
 志保は苦笑する浩之の肩を軽く押して、視線を止めたゲームセンターへと促した。
 
 店内は最近よくあるリズム物や大型筐体を利用した疑似スポーツゲームが壁際に並び、フロアの中央部分は対戦格闘やシューティングの筐体が幾つもの列を作っている。
 大きなBGMと、ゲームセンター独特の気分を高揚させるような熱気。
 通い慣れているはずの二人も、その表情は自然と浮き立っていく。
「あんまり客いないな。空いてる方が、こっちとしてはいいけど」
「で、何やる?格闘物かクイズか、そのバイクのゲームは?」
「どれもやり尽くしたって気がする。そう思わないか」
「まあね。投資した金額を考えるのが、ちょっと怖いわ・・・」
 そう呟いた志保は、入り口の近くにあるUFOキャッチャーに目を留めた。
「あれ、あれ見て」
「中に人でも入ってたか」
「違うわよ。景品にポスターがもらえるって書いてあるじゃない」
 筐体の下辺りにある張り紙に、「キャラクターポスターをゲット!」と書かれている。
 高校生を主人公にしたアニメらしく、制服を着た男女がポーズを取っているポスターがあちこちに貼ってある。
「見た事ないな、こんなアニメ」
「あなたは知らなくていいの。いいから、あの男の子取ってよ」
「・・・こういうのがおまえの趣味か」
 志保が指を差したのは、無愛想な顔で肩越しに振り向いている男子生徒のポスター。
 格好いいと言えなくもないが、多少怖い感じの眼差しである。
 また筐体の中には、それの引換券がしっかりと埋まっている。
「自分で取ればいいだろ。上の方にあるから、何回かやれば取れるぜ」
「私は苦手なの、このタイプ。お金なら出すから、早く」
 胸の前で手を合わせ、しきりにせき立てる志保。
 しかしそれは、懇願というより何かに焦っているようにも見える。
「金はいいけどよ。俺だってそう得意じゃないんだって」
 取り出したコインを投入する浩之に、志保は無言で手を合わせ続ける。
「・・・さてと」
 クレーンが滑らかに移動を開始し、そのキャラクターの引換券が入ったカプセルへと近づいていく。
 真剣な面持ちで操作する浩之を、志保は声を掛ける事もなくじっと見つめる。
「・・・ここか」
 筐体の中央部辺りで、クレーンのアームが降下していく。
 3本の爪がゆっくりと開き、狙っているカプセルに覆い被さる。
「・・・行け」
 浩之のささやきが通じたのか、カプセルはほぼ完璧な状態で爪に挟み込まれた。
 ゆっくりと上がっていくアーム。カプセルは微動だにしない。
 そのままの体勢でアームは横へスライドしていき、景品の投入口へと移動していく。
「ふぅ、もう大丈夫だろ」
 手の汗を拭きながら、浩之が振り返る。 
 すると志保は無言のまま頷いて、胸の前で合わせていた手を降ろした。
「あんまり嬉しそうじゃないな。俺、取るの間違えたか?」
「・・・そうじゃないわよ。あ、出てきた」
 浩之の視線を避けるようにして、転がり出てきたカプセルを取り出す志保。
「えーと。これはどうすればいいのかな」
「店員に引き換えてもらえばいいんだろ。ちょっと待ってろ」
 カプセルと受け取ってカウンターへ向かう浩之。
 様子を窺っていると、浩之は店員に手招きされて奥にある事務所へと入っていった。
 何か問題があったのだろうか。
 それとも、商品の受け渡しを事務所で行うという事なのか。
 志保は事務所へ向かいかけた足を止め、だるそうに壁へもたれ掛かった。

 
 見知らぬ顔が幾度も目の前を通り過ぎていく。
 壁に掛かったスピーカーから、ゲームのBGMにかき消される有線が微かに届く。
 目の前にあるゲームは同じデモを延々と繰り返し、訪れる事のないプレイヤーを待ち続けている。
 無為に過ぎていく時。
 伏せ気味の顔に表情はなく、半ば閉じた瞳は虚ろに床を捉えている。
 それでも志保は、壁にもたれたままその場を動こうとしない。
 顔を伏せ、腰の後ろで指を組だまま壁にもたれ続ける。

「・・・彼女、一人?」
 突然の呼びかけ。
 気づけば目の前に3人の男が立っていた。
 一人は頭にバンダナを、もう一人は長い毛を左右に分け、最後の一人は短く刈り上げている。
 それなりにセンスのいい服装で、全員なかなかの体格をしている。
 さして背の高くない志保からすれば、彼等を見上げる格好となる。  
「連れの子はいないのかな?」
 ロンゲの子が、甘い感じの声を出す。
 志保はぎこちなく頷き、すぐに顔をしかめる。
 それとは対照的に、男達の顔は一気に緩み出す。
「だったらさ、俺達と遊ばない。何か暇そうにしてるから、声掛けてみたんだけど」
「ゲームが嫌ならカラオケでも行く?俺達車で来てるから、ドライブでもいいよ」
 左右から連携して話しかける男達。
 行く手を防がれた形になった志保は、笑顔を作り壁一杯まで下がった。
「あれ、何か顔色悪いね。俺達がやばいとか思ってない?」
「大丈夫だって。ドラッグなんてやってないし、無理矢理付いて来いなんて言わないから」
「ただの大学生だよ、俺達。君のアンニュイな横顔が気になったから、声を掛けてみたんだけどさ」
 坊主頭の男の言葉に、左右の男が笑いながら突っ込む。
 志保も合わせたように笑い、彼等の背後に視線を彷徨わせた。
「ね、どうする。まずは、その辺でお茶しようか。ほら、まだ俺達名前も聞いて無いじゃない」
「君はなんて名前?」
 携帯を出しながら志保に近づくバンダナの男。
 これ以上下がれなくなった志保は、気づかれないように顔だけを少しずつ横へと向けていった。
「ねえ、名前は?」
 再度尋ねる男。
 その時、引きつりかけていた志保の顔が一気に晴れ渡る。
「・・・浩之っ」
 両手を上げ、勢い良く振り回す。
 浩之もこっちに気づいたのか、ゲームの筐体を避けながらこちらへと近づいてくる。
 志保の呼びかけと浩之の接近で、男達に動揺が走る。
「あれ、男いたの?」
「それを先に言って欲しかった・・・」
「だよな・・・」
 志保は肩を落とす男達の脇を通り抜け、浩之の後ろへと逃げ込んだ。
 そして彼の腕を取り、肩越しに男達を覗き見る。
「あの。こいつ何かしました?」
 後ろにいる志保を横目で見つつ男達に尋ねる浩之。
 すると男達は慌てて首を振り、無理矢理な愛想笑いを浮かべた。
「い、いや別に。ただちょっとその・・・」
「コ、コインが余ったから、それを上げようかと」
「はぁ」
 浩之が頷くと、彼等はその愛想笑いすら強ばらせる。
「え、どうかしました?」
「い、いや。何でもない・・・」
「後はよろしくという事で・・・」
 あわてふためきながら二人の前から逃げ去っていく男達。
 首を傾げた浩之が、こちらを振り返ってくる。
「俺、何かやったか?」
「そんな怖い顔で睨まれたら、誰だって逃げるわよ。無愛想だし」
「怖いって、俺別に怒ってないぞ」
「怒ってなくてもそう見えるの、浩之の顔は。目つきが鋭いっていうか怖いのよね」
 腕を取ったまま、困惑する浩之の横へ回り込む志保。
 はじけるような笑顔を彼に向けて。
「精悍と言ってくれよな・・・」
「はいはい。はぁ。せっかくナンパされてたのに、あなたのせいで台無しじゃない」
 志保はわざとらしくため息を付いて、浩之の反対側の腕へ目をやった。
「ポスターもらったのね」
「見つからないから事務所の奥の方を探してたら、時間が掛かったんだ。こんなのどこがいいのかね」
「いいの。どうせゲームやらないんだし、もう行きましょ」
 浩之の腕を取ったまま出口へと歩き出す志保。
 その顔が、一旦後ろを振り返る。
 先ほどのUFOキャッチャーの筐体を。
 筐体に張られた、志保が欲しがった男子生徒のキャラクター。
 無愛想で、鋭く怖い目つき。
 それは、精悍と例えてもおかしくはない顔立ちであった。
 志保は腕にそっと力を込め、ほんの少しだけ浩之へ寄り添った・・・。
   
 
「・・・ふーん。私には分かんないわ」
「分かんなくていいんだよ・・・。おい、ちょっと寄ってこうぜ」
 志保は浩之に促され、右手に現れた公園へと入っていた。
 公園の外周は葉を生い茂らせた木々が巡り、涼しげな風と鮮やかな緑を目に運んでくる。
 舗装された足元は清掃が行き届き、舞い落ちた枯れ葉が風に乗って揺られている程度だ。
 芝は青く、その間を抜ける小道は左右に植えられた木々によって木陰が出来ている。
「結構いい雰囲気じゃない。よく来るの、この公園」
 木陰の涼を楽しみながら隣りにいる浩之を見上げる志保。
 素直な、安らいだ表情と共に。
「ああ。昔はよくあかりや雅史と遊んだからな。今は、朝ここ通ってくるし」
 志保は腕を放し、浩之の前へ数歩出た。
 背を向けたまま、志保の問いが続く。
「そうすると、あかりや雅史もここを知ってる訳だ」
「地元だからな。この辺で遊ぶ場所っていったら、ここくらいしかなかったんだよ」
「3人にとっては、いわば良き思い出の場所って事ね」
 ショートカットが前後に揺れ、やがて前へ下がったまま動かなくなる。
 そのまま前へ進む志保。
 後を付いてくる浩之を振り返ろうとはしない。
「・・・ちょっと辛いわね」
「あ、何がだ」
「ここへ来た事がよ」
 笑いを含んだ志保の呟き。 
 それまでとは違う、苦く重い口調。
 顔はやはり伏せられたまま。
「・・・そこ、座ろ」
 志保は木陰にあるベンチを指さし、端の方へ腰を下ろした。
 そして隣りに座った浩之から顔を逸らし、耳元を軽くかき上げる。
「言わないと、意味分からないわよね」
「まあな。別に言いたくないなら、無理しなくてもいいぞ」
「・・・そういうのも、辛いのよね」
 志保はようやく顔を上げ、浩之に向かって微笑んだ。
 あまりにも儚く弱々しげな笑顔。
 初夏のそよ風にさえ流されそうな程に。
「なんて言ったらいいのかな。あなたと雅史、・・・それとあかりは幼なじみじゃない」
「ああ」
「だから、3人には共通した話題とか場所とかがたくさんあるでしょ。例えばこの公園とか」
 黙って頷いた浩之。
 志保は顔を伏せ、話を続ける。
「そういう話を聞かされると、私と浩之、・・・達は距離があるんだなって思う訳」
「距離・・・」
「あそこで何を食べたとか、誰々に怒られたとか、昔はよくここで遊んだとか・・・。私の知らない、あなた達だけの思い出」
 垂れ下がった前髪が、志保の表情を隠す。
「住んでいた場所が、たった二駅違うだけ。でもその二駅は、結構遠い距離なのよ・・・」
 不意に吹き抜けた風が、志保の髪を揺らす。
 噛みしめられた唇、細められる潤んだ瞳、青ざめた頬が小刻みに震える。
「志保・・・」
 浩之が声を掛けると、もう一度風が吹き抜けた。
 その表情は、揺れる髪に隠される。
「・・・なんて事も、たまに考えてるって話」
 垂れ下がった前髪をかき上げ、陽気に笑う志保。 
 そこには先ほどまでの、今にも消え入りそうな表情はない。
 元気よく浩之の肩を叩く様は、普段の彼女そのままだ。
「ごめんごめん。まあ、さらっと聞き流してよ。いつもの志保ちゃん情報みたいに」
「・・・おまえがそれでいいならな」
 真っ直ぐ見据えてくる浩之に、志保ははっきりと頷いた。
「そういうぶっきらぼうな優しさも、私としては辛いのよ・・・」
「ん、何か言ったか」
「そろそろ帰ろうかって言ったの。買い物も済んだしね」
 服の入った袋を手にして立ち上がる志保。
「どうせあなたの家近いんだし、送って上げるわよ」
「女が男に言う台詞か、それ」
「男はうだうだ言わないの。ほら立って」
 そう言い放ち颯爽と歩いていく様は、普段の彼女と何ら変わるところは無かった。


 公園を出てから、沈黙が続いていた。
 志保は顔をうつむけ、浩之が話しかけてもせいぜい頷くか首を振るだけである。
 日は傾き始め、日差しがようやく緩み始めていた。
 だが、無言のまま歩く二人がそれを喜んでいる様子はない。
 今日1日同じ時を過ごした二人
 しかし今は、ただ同じ方向へ向かっている男女にしか見えない。
 二人の間は、手を伸ばしても届かない程開いている。

 やがて、次の角を曲がると浩之の家が見える所までやってきた。
「・・・ねえ」
 全く無言だった志保が、くぐもりがちに口を開く。
「ん、なんだ」
 それまで気まずさを意識させない、自然な返事が返ってくる。
 顔を上げる志保。
 だが、言葉は続かない。
 先ほどとは違う、心を締め付けられるような沈黙。
 
「あのね・・・」
 意を決した表情を浮かべた志保が、震えるような声でささやく。
「今日の夕ご飯、浩之どうするの」
「家にある物で適当に済ますよ。食べに出ると高く付くからな」
「そう・・・」
 さらに固くなる志保の表情。
 ふっくらとした唇が、ゆっくりと動き出す。
「あのね。良かったら、私の・・・」
 そこで志保の言葉は途切れる。
 角を曲がりきった二人。
 目に入る浩之の家。
 壁にもたれる、お下げ髪の少女。 
  
「あかりじゃない」
 驚きや疑問ではなく、笑い気味に浩之を見上げる志保。
「何よ。今日あかりと何か予定があったの。そうなら最初に言ってよね」
「いや、別に何もないぞ」
 首を振る浩之であったが、志保は彼の肩をそっと押して先を行かせた。
「現にああして、あなたの事待ってるじゃない。多分夕ご飯でも作ってくれるんでしょ」
「だから、そんな約束はしてないって。それよりおまえの話はどうなったんだ」
 すると志保は肩をすくめ、さらにその背中を押した。
 振り向いた浩之に、諭すような口調で話しかける。
「私なんてどうでもいいから、早くあかりの所へ行って上げなさい。あの子の事だから、ずっと浩之の帰り待ってたと思うわよ」
「そうかも知れないけどよ。だからって・・・」
「じゃ、ここでお別れね」
 逆光で、志保の顔は殆ど見えない。
 唯一見えるのは、微かに緩んだ口元だけ。 
「今日は1日付き合ってくれてありがと。取りあえずお礼言っとくわ」
 立てた人差し指と中指をこめかみへ持っていく冗談めいた仕草。
 そのまま背を向け、浩之が取ってくれたポスターを軽く振る。
「あかりとは話をしてかないのか」
「今日はパス」 
 振り向いた志保の顔と差し込む日差しが重なり、やはり彼女の表情は読み取れない。
「また月曜日にね」
 歩き出す志保の影が浩之に落ち、すぐに前へと流れていく。
 それから角を曲がるまで、志保が振り返る事は無かった。


 自宅に着いた志保は服の入った袋とポスターをソファーに置き、自分もその脇にしゃがみ込んだ。
 遊びで選んでくれた服、半ば強引に取らせたポスターの隣りに。
 そのどちらにも、浩之の意志は入っていないだろう。
 志保は頭をうなだれ、ソファーに手を付いたまま身じろぎ一つしない。
 人気の無いリビング。
 夕方近くではあるが、隣り合ったキッチンも静まり返っている。
 壁に掛かったカレンダーには、今日の日付を前後して赤い丸が打たれている。
 「お父さんとお母さん・四国へ旅行」
 不意に顔が上がり、意外な程早い動作で立ち上がる。
 カレンダーの横を過ぎ、キッチンへと入る。

 綺麗に整頓された、広いキッチン。
 4つあるコンロには、鍋が2つ掛かっている。
 一つは片手で持てるような小さい鍋。
 もう一つは、底の深い鍋。
 冷蔵庫の前に立ち、扉を開ける。
 色々な総菜や食材に混じり、ラップの掛かった大きめの皿が下の棚に置かれている。
 何かのパイだろうか、少々右へ偏った形から見て手作りのようだ。
 どう見ても、一人で食べるにはかなり大きい。
 扉を閉めた志保は、次にコンロへと向かった。
 底の深い鍋のふたを取り、中を覗き込む。
 冷えた茶褐色のシチューが、その中で固まっている。
 こちらもやはり、二人分くらいありそうだ。
 志保は指を立て、固くなったシチューをすくい取った。
 それを口に運び、味を確かめてみる。
「・・・苦い」
 隠し味に入れたドイツ産のビールが口の中に広がる。
 冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、数口含む。
 それでも苦みは消えていかない。
 一人で食べるには多過ぎる料理を目の前にして、もう一度ペットボトルを手にした。
 だがお茶を飲む事なく、ペットボトルはテーブルに戻される。
 例えどれだけ口の中を洗い流しても、その苦みは消えないと分かっているかのように。
 冷えたシチューは香しい匂いで食欲をそそる事もなく、ただ苦さだけを志保に残すのだった・・・。

    




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