闇に沈む心
「でね、浩之さんって素敵なんですよー。今日も掃除していたら・・・」
身体に付けられたコードを気にする事無く熱弁を振るうマルチ。
余程興奮しているのか、おぼつかないまでも手振り身振りを交えてさらに声のトーンを上げる。
「私、申し訳ないというか、ありがたいというか。お礼を申し上げても素っ気ないですし、こういう場合はどうすればいいんでしょうか。先生はどう思います?」
「私はそういう経験に疎くてね。アドバイスをするには向いてないよ」
先生と呼ばれた壮年の男は、白衣の襟を直し携帯端末に手を伸ばした。
「そうなんですかー。私があの学校にいられるのは後2日ですから、その間に何かご恩返しが出来ればと・・・」
マルチの言葉が不意に途切れる。
瞳孔が開き、正確にはCCDカメラにフィルム状のシールドが下りたのだが、元気を無くした表情のままで固まっている。
手は胸元に当てられ、背中を丸めた小さな身体はますます小さく見える。
「浩之さん、か。相変わらず彼の影響は大した物だね」
白衣の男は短く刈られた髪をかき上げ、苦笑混じりに背もたれへ倒れ込んだ。
書斎風の室内には大小のデスクが一つずつあり、男は部屋の中央にあるソファーに腰を下ろしている。
「ロングスパーンメモリーには、かなりの容量を割いて彼の情報が書き込まれています。ショートスパーンメモリーも、いつも殆どが彼の事ばかりですから」
小さなデスクで端末を操作していた女性が、淡々とした口調でそれに応える。
男とは違い、淡いグレーのニットシャツに黒のミニスカート。
年齢は男より一回り若い感じで、30代前半といったところか。
綺麗な顔立ちであるが、動きを止めたマルチに注がれる眼差しは怜悧としか例えようがない。
「学校に行くとかいっておいて、一体何を学んできているのやら。しかし、ロボットといえども中身は女性。その辺は仕方ないのかな」
「私の口からは何とも。データの一時的な抜き出しと、初期化が終わりました。テストに入りますか」
「バウムもロールシャッハも、もう飽きたよ。所詮は人が作り出したプログラムだ。何度やっても結果は同じさ」
男はテーブルに散乱する絵の描かれた紙に視線を向け、鼻を鳴らした。
「ですが、それが先生のお仕事です。来栖川の外部から招かれたスタッフとしてここまで計画に参加しているのですから、その職務の重大さをご理解して下さい」
「聞き飽きたよ、それも。私は文系の学者であって、ロボット工学には何の関心も知識もないしね」
自嘲気味の笑いが漏れ、椅子のきしむ音が微かに混じる。
「大体、ロボットに人の心を持たせようという発想自体無理があるんだよ。面白いには面白いが」
「そういうのは私にではなく、主任研究員か課長クラスの方にでも仰って下さい」
「この間レポートを出したら、採点されて戻ってきた。Aプラス目指して、もっと頑張って下さいって」
女性の前にあるディスプレイの一つが、文字と図表で埋まる。
男が提出したというレポートらしく、心理学用語とおぼしき文字があちこちに散りばめられている。
「ユーモアのセンスはあるようだが・・・。それほどこのロボットに心を生み出したいかね」
「マルチです、先生」
「ああ、そうだな。良く付けられた物だよ、マルチとは」
男の手が携帯端末に伸び、いくつかのキーが連続して押されていく。
マルチを監視しているディスプレイが作動を始め、停止していた様々な数値が変動を開始する。
「さてと・・・」
男の呟きと共に、マルチの瞳が輝きを増していく。
だがそれは、先ほどまでの人の心に溶け込むような柔和な光ではない。
そうではなく、人の心を溶かし取り込んでしまうような昏いさざめき。
白い頬は朱に染まり、甘く切なげな息づかいがわずかに開いた小さな口から漏れる。
「調子はどうかな」
「・・・良好です」
胸の奥まで届きそうなささやき。
心を灼き尽くし、理性までを痺れさせてしまうような。
やや下がった瞳は潤みきり、ぬめった薄い小さな唇が微妙に揺れる。
背中を丸め上目遣いになる様は、未発達の体付きをさらに強調させる。
「なるほど。今すぐでも大丈夫か」
「はい・・・」
マルチの手がスカートへ伸びたところで、男がキーを叩いた。
その途端マルチの動きが止まり、クッションの置かれたその場へ弱々しく崩れ去る。
「何もならないんですか?」
「ロボットを相手にするほど酔狂じゃないんでね。若い研究員に、今のパスワードを教えてみたい気はするが。職業倫理と肉体的欲求のジレンマをどう克服するのか興味あるね」
「人を観察の視点から見るのは先生の悪い癖ですよ・・・。触覚フィードバック以外の各種センサーをオフ。内部ネットワーク機能を通じての会話のみ可能です」
「Multi-Personality-System、マルチ。つまりは、他面な性格を持ったロボットという訳だ。誰が基本設計をしたのかは知らないが、良く出来ている事は認めるよ」
うずくまり身体を丸めているマルチに視線を送る男。
足の間に手を挟み、まるで赤ん坊のような笑顔を浮かべている。
それは母の胎内に収まった胎児さながらであった。
「従順、純粋、強情、わがまま、怠惰、健気・・・。どういった性格にするかは、こちらの操作次第」
「複数の性格を組み込んでいる訳ではないんですね」
男は軽く頷き、携帯端末を操作する。
テーブルの上に浮かんだ疑似ディスプレイに、マルチの状態を表す数値が一斉に表示される。
「プログラムは一つだけ。仕組みを簡単に言えば、その中に幾つも含まれている特性の一つを選んで際だたせるだけさ」
「すると、先ほどのあれも」
「ああ。男を誘う仕草も、浩之君をいじらしく慕うのも、どちらもマルチ本来の性質だ」
丸まったマルチに視線を注ぐ男。
「そういった意味では、本当に良く出来ているよ。人間だって性格と呼ばれている物は、表層に現れたごく一部を判断しているに過ぎない」
「なるほど」
「現実にはこのロボット同様、その下に無数の特性を隠しているんだ」
男はつまらなそうに呟き、何やらメモを取っている。
「この計画に呼ばれた時、最初は不思議に思ったんだ。ただのメイドロボに、どうしてそこまでの高性能が必要なのかと」
「彼女より、セリオの方が性能としては高いですよ」
「量産型として、カムフラージュ用に発売されるタイプではね。私が言っているのは、特注によってオーダーメードで作られるマルチの事だよ」
女性の視線が一瞬泳ぐが、それはすぐに冷静な物へと変わる。
男の言葉の意味を見定めようとする、観察者の目へと。
「愛玩や、癒し用という使用意図はまだましだ。ボディーガードやスパイ、またはヒットマンという利用を目的としてるんだろ、本来は」
「今申し上げたように、彼女の性能は一般のメイドロボと大差ありません。とてもそんな事が出来るとは思えませんが」
「リミッターの数値を変更すれば、特殊部隊の一中隊とも渡り合える。たまたまこの端末に残っていたデータを信用すればの話だが」
女性が立ちあがり、男の前のソファーへと腰を下ろした。
背もたれに深く腰掛け、足を大きく組んでみせる。
「・・・このロボットを送られた相手は、その外見と愛嬌のあるキャラクターにだまされ、あっさりと信用してしまう。出来は悪いが、可愛らしい女性の子だくらいにね。興味あるかな、私の話は」
「ええ、とても。どうぞ、先を続けて下さい」
「ありがとう。で、送られた相手は何も気にせずこのロボットを自由にさせてしまう。重要機密が保管された情報管理室や、自分の執務室。データは盗まれ放題、でも誰もこのロボットを疑わない。あのキャラクターだからね」
昏々と眠り続けるマルチは、自分の事を言われているのも分からず可愛らしい寝息を立てている。
だがそこに注がれる視線は、決してそれを労り慈しむような物ではなかった。
「そして、プライベートルームなどにも入室を許される。そこでこのロボットのデータを初期化。送り主への感情をリセットした状態へ戻し、一気に暗殺を謀る」
「そうなると、まっさきに疑われるのはマルチではないのですか」
「もし調べられても、その時には元の愛らしい性格に再変更させればすむ事だ。おろおろおたおたする、出来の悪いメイドロボに。一番手っ取り早いのは動力をオーバーヒートさせて、対象者もろとも跡形もなく溶けてしまう事だろう」
「ロボット工学の知識はなかったのでしょう」
男はわざとらしく肩をすくめ、女性の刺すような視線を軽くいなした。
「クライアントのを基礎データ調べるのは当然だよ。それにこれだけ計画の中枢にいれば、その手の情報は自然と入ってくる。勿論、監視役である君の目が届かない所でね」
「マルチの操作とデータ処理をしてあなたをサポートするのが、私の任務です」
「ああ、そうだった。つい勘違いしてたよ」
その言葉の割には、全く悪びれた様子がない。
そして女性も、ルージュが薄く塗られた口元を微かに緩めただけだ。
「・・・それはともかく、悲しいかな所詮はロボット。多様に設定された性格も、全ては人為的な操作のまま。どれだけ愛嬌を振りまこうと、そこに意外性はない。人の心を揺り動かしはするが、そこ止まりだよ」
「どういう事です?」
「人は、時として予測の付かない行動を取る。それが魅力であり、人としての面白さであるという事さ」
組まれた女性の足に手を伸ばして見せる男。
しかし女性は慌てる様子もなく、伸びてくる手をじっと見つめ続ける。
「まあ、この程度は意外な行動でもないがね」
「私は内心焦りましたよ。それを感情として表さなかっただけです」
自分に触れる事無く引き戻された手を、女性は意味ありげな笑みで捉え続ける。
「しかしそのロボットは、こういった意味不明で突発的な行動はしない。どれだけ可愛く振る舞おうと、それは一本調子の予想されうる行動でしかないんだ」
「でも例の浩之君は、そんなマルチにかなり惹かれているようですが。彼女自身、行動に突飛な点も見られますよ」
「運動能力を低く設定してあるからね。無理に失敗をさせる事で、強引に意外性を生み出しているに過ぎないよ。上手いというか、あざといというか」
眠り続けるマルチに送られる眼差しは、やはり冷ややかな物だ。
しかし安らかな表情で寝入っているマルチは、勿論それを厭う様子はない。
「ほら、大学生と駆け落ちした駆動ベアリング部2課の山内さんだったけ」
「ええ、そういうスタッフがいるようですね」
「成績優秀で、前途も有望。大学から講師や助教授の口もあったそうじゃないか。でも新妻もそんな立場も全て投げ捨て、駆け落ちしてしまった。まさに人そのものだよ」
「愛ですよ、それが」
「男同士の?性に関する思考と行動は、私も研究の対象外だが」
女性は大げさに首を振り、マルチをモニターしているディスプレイを柔らかな仕草で指さした。
「お話はその辺りで結構ですから、そろそろマルチのテストをお願いします」
「言っただろ、無駄だと。設定されたプログラムでの性格しか、このロボットには現れないよ。どれだけテストを繰り替えそうとね」
「彼女は学習機能を搭載しているんですよ。それを考慮に入れないんですか」
「認知的不協和でも起きない限り、性格はなかなか変化しないよ。つまり、心の中で相反する二つの選択肢が発生するとか。新しい情報を知る事により、以前から持っていた情報が揺らぐという事だ。最も例えられる例では吊り橋の実験や、タバコの害の説明があり・・・、と」
自分の説明口調に気づいのたか、男は苦笑して手にしていたペンをテーブルへ置いた。
書きかけのメモ用紙には、「発生した不協和の理屈付け・身体反応との関係・蛇足、ジェームス=ランゲ説」などと羅列してある。
「とにかく知識の蓄積と性格の変化は、また違う物だよ。弁護士やカウンセラーから色々教えられたからといって、暴君が良心的な夫になると思う?それを装うだけではなくて、思考自体が変わってしまうと」
「それは人によります」
「そう。そしてこのロボットは変わらない」
男はきっぱりと言い放つ。
「それほど簡単に性格が変わったら、暗殺する相手に丸め込まれてしまうからね。性格は、絶対に変化してはならないんだよ。勿論暗殺する場合は、対象者への感情を含んだ情報を消して、初期化した状態で行動させるんだろう」
「では我が社は、どうしてあなたにマルチの心理検査を依頼しているんですか」
男は皮肉に満ちた笑顔を、生真面目な顔で質問してきた女性に送る。
「だから、性格が常に変わらない事を立証するためさ。今言った通り、暗殺する相手に情を移していては仕事にならないだろ。データを初期化した際に、以前の情報が残っていないのを確かめたいんだよ」
「面白い推論ではあります」
「わざわざデータを抜き出して、初期化した状態を検査させるのがその証拠さ。無論データを残した状態の検査も依頼されてはいるが、その目的はまた別にありそうだ」
「もう少し、詳しくお伺いしたいですわ」
煙るような視線を送る女性。
その奥に凍える程の鋭さを秘めて。
「冗談だ、冗談。軍事目的の件に関しては、さして興味はない。人の心を作り出そうとする点は除くがね」
「心、ですか」
「ああ。それに私としては、浩之君の方に興味があるよ。ロボットに恋する少年に」
男は優しい笑顔で、宙に浮かぶ疑似ディスプレイに目を注いだ。
「君だって、彼の気持が知りたいとは思わないか。何と言っても彼は、CPUの集積体を恋愛対象に選んでいるんだよ。そのうち電子レンジを愛人にするのかな」
「冗談が過ぎます」
「失敬。ともかく、彼には一度会ってみたい。データは、ここにあるのが全部なんだね」
疑似ディスプレイに映っている精悍な少年の顔を指さす男。
顔写真の下には、「Hiroyuki・Fujita」とある。
「ええ。来栖川の管理部が調査した限りでは、それ以上の情報は得られませんでした。他社のスパイという説も一時ありましたが、そういった背後関係は無いと結論が出ています」
「すると、彼の本心によってこのロボットを愛してる訳だ。何でも学校へのテスト期間が終わったら、彼とデートさせるそうだね。その際いくつかの質問事項を彼にしたいんだけど、このロボットに言わせる事は可能かな」
笑いを含んでいた男の顔に、理性の色が宿っていく。
「ええ。質問事項を教えていただければ、開発部に連絡をしておきます。ただ質問はあらかじめ入力しておきますが、会話の状況によっては先生が作成した通りの言葉とは若干異なる可能性があります」
「ニュアンスさえ一緒ならかまわないよ。本当なら直接面接したいのだけど、それはさすがに無理だろうからね。学校で試行された心理テストだけでは、彼の輪郭すら理解出来ない」
先ほどまでのたわいもない冗談を話していた時とは違う、知性に満ちた語り口。
変わらないのは、冷徹にマルチを見下ろすその眼差し。
「それにしても、ここまでの高性能が必要かと思うよ」
「戦闘能力がですか?」
「いや、心の部分についてさ。単に相手を信用させるなら、ここまで多様な性格特性をシステムに内包しなくても事足りる。それなのに来栖川の開発部では、あくまでもこのロボットに心を生み出そうとしている。もしかして軍事用というのも、もう一つのカムフラージュかと思い始めているんだ」
「軍事目的に関しては今さら否定しませんが・・・」
女性は目を細め、男の様子を慎重に窺う。
「言った通りの意味さ。タブーであるはずの、人間の創造。この場合は心に重きが置かれているがね。彼等は神の領域に踏み込み、その神すら越えようとしているんだよ」
無言となった女性を見据えつつ、男は話を続ける。
「どうもその辺についての感覚が麻痺してるような気がするんだ、外部の私から見ていると。人が人を生み出すなんて、許される事なのかね」
「・・・先日見えたバチカンの枢機卿は、かなり喜んでいらっしゃいましたよ。「人が神に近づいた」と。アラブ諸国から来られた法学者の方々も、同様のご意見でした。また来週には高野山と身延山から、数名の僧正がおいでになる予定になってます」
「宗教界の抱き込みは完璧か。視察に来た連中が大物である事を祈っておくよ」
「皆様、異端査問を司る部門の方ですわ」
深い、限りなく深い笑み。
「この開発は、生命倫理法に抵触しないのかな。今の首相は、クローン臓器すら否定的と聞いているが」
「マルチは軍に納入が予定されていますし、同盟国にも一定数の輸出が検討されています。首相といった方はともかく、主要官庁は全面的にバックアップを約束しています。現に工業局からも、キャリアの方が出向されていますし」
男は降参とばかりに肩をすくめ、長いため息を付いた。
「現代に蘇る魔術の世界。ホルムンスクならぬロボットで、その夢を再現すると。しかし、現時点では不可能だと思うよ」
「無数のCPUを組み合わせる事により、人の脳に似せた機能を持たせていると聞いてます。ニューロン結合とシナプスの動きについても、実験段階では人とほぼ変わらないとか」
「脳の機能を真似るのは、技術力と資金があればどうとでもなる。問題は、それがどう動くかだよ。例えば忘却、ひらめき、防衛機制などなど。人間でもまだ解明されていない部分はどうする」
「ましてや、コンピューターに応用するなど時期尚早だと」
男の言葉を待たずに結論を述べる女性。
「脳生理学や心理学の分野でも、人の心は未だ未解明だ。どの部分がどういった仕組みでどう機能するかは分かっても、何故そう機能するかが分からないんだ」
「心の神秘とでも言いたいんですか」
「例えば世の中には、赤を好きな人と嫌いな人がいる。脳で色を判断する部分は分かっている、その機能も。だが何故好き嫌いに分かれるのかは、どうテストや面接を繰り返そうと分からない場合もある」
眼下に眠るマルチを気にも止めず、何の感情も交えず淡々と語る男。
「理論や計算では成り立たないんだよ、心というのは。来栖川の試みは無謀な挑戦なのか、人のしての新境地を開く偉大な一歩なのか。君はどう思う」
「私はマルチについて、概略しか聞かされておりません。それに、軍事にしても心や性格についても専門外ですので」
「知らぬ存ぜぬか。しかし冷静さを装っても、人はどこかにその兆候が現れる。不随意で動く事に関しては、抑えようがないからね。例えば、瞬きの回数が増えるとか」
男は笑い気味に、女性の目元を指さす。
すると女性は動揺を隠すように、髪をかき上げ大胆に足を組み替えた。
「君の場合は、わざと瞬きしている可能性もあるけどね。開発部がこういう細かい部分まで、このロボットに採用してくれていると嬉しいな」
「ホストから転送する形にすれば、データの容量についてはほぼ無限です。出来ればそういうご意見を、もう少し報告書に書いて下さると助かります」
「今言った事は、人の生理についての基本だよ。開発部は心にばかりとらわれ過ぎて、身体に付いて考えて無さ過ぎなんじゃないかな。心と身体は非常に密接した関係にあるんだから」
マルチに目もくれず、会話を交わす二人。
ディスプレイの脇にあるスピーカーが、時折電子音を静かな室内に響かせる。
「・・・浩之さん」
そんな音に混じり、微かなささやきが聞かれる。
「今のは」
「データは初期化されていますから、あり得ない事なんですが・・・。バックアップはしてありますから、一度再生してみますか?」
「いや、その必要はない」
男の瞳が輝きを帯び、今までになかった興味をもってマルチを見つめる。
「今の発言に関しては、開発部の方へも連絡しておきます。データの初期化が不完全だったのか、サブメモリーに情報の痕跡がまたがっていてそれが結合されたのか・・・」
「あり得ない発言をしたコンピューターの理屈については、そちらに任せるよ」
困惑する女性をよそに、男は口元に手を当て己の思惟に耽っていく。
「先生、考察は後でお願いします。今は、マルチのテストを優先して下さい」
「ああ、そうだな。・・・しかしその浩之君は、この後どうするつもりだろう。テスト期間が終われば、このロボットともお別れだろ」
やはりテストには移行せず、話を振る男。
男のパターンが分かっているのか、女性は気にした様子を見せずその話を受ける。
「ええ、彼と会う事はもう無いでしょう。ただそれほどの思い入れがあれば、彼は今後発売されるマルチの量産型を買うと思いますよ」
「どうだろう。その際、オリジナルを彼に渡しては。彼に愛しい娘を託すような、開発スタッフの気持を見せてね」
「モルモットですか、浩之君は。いい趣味ではありませんよ」
「彼等の行く末を見守って上げたいだけだよ。人とロボットの、愛の行方を」
言っている自分が一番信じていない口調。
疑似ディスプレイに映った少年と眠り続けるマルチに注がれるのは、被験者を観察する研究者の冷静な眼差しである。
「開発部には、アイディアの一つとして報告しておきます。先生の契約期間はまだ数年ありますから、もし採用された場合はまたご意見を伺うかと思いますが」
「自費ででもスタッフに加えてもらうよ。・・・テストの準備を頼む」
「はい」
席を移動して、コンソールを操作する女性。
男はテーブルに広がっている本や書類に目を通し、熱心に何かを書いている。
キーを叩く音とペンが走る音、そしてスピーカーから流れる電子音。
「・・・浩之さん」
鈴の音のような、澄んだささやき。
閉じられた瞳から、一筋の流れが床へ辿る。
「泣いているのか」
「CCDカメラに、異物が付着したのでしょう。マルチの内部は冷却用の水分が循環してますし、涙を流す機能も搭載しています」
「心理的ではなく、物理的な反応という訳か。その理屈についても、君に任せる」
男は席を立ち、胸元のポケットからハンカチを取り出した。
「・・・そこまで好きなのかね」
そしてマルチの脇に腰を屈め、その目元をハンカチで優しく拭う。
「意外な事するんですね。あなたも、マルチに情を移しましたか」
からかうような女性の質問に、男は鼻を鳴らしてハンカチをしまった。
「言っただろ、人の心は予測が付きにくいと。私自身、何故こんな事をしたのか分からないよ」
マルチを見下ろす男の視線は、先程までと変わらぬ冷静なものでしかない。
「さて、用意は出来たかな」
「ええ。彼女を起こしますか」
「いや、内部ネットワークを使おう。視覚部と言語部に直接情報を送ってくれ。フィードバックされたデータは、ディスプレイに表示。返答に関しては、音声に変換してスピーカーから頼む」
「分かりました。ネットワークとの接続完了、各部位正常に作動。質問は、マイクを通してお願いします」
男は微かに頷き、ヘッドフォン付きのマイクを取り付けた
「・・・聞こえるかね」
「はい」
「そうか。浩之君をどう思う」
ディスプレイを注視していた女性が顔を上げるが、男は自分の前にある書類に目を落としたままだ。
「そのような方の名前は聞いた事がありません。現在私の内部には、殆ど情報が蓄積されていません」
「テスト用のデータしか入ってないという訳か。悪かったね、変な質問をして」
「いいえ」
抑揚のないマルチの返答が、スピーカーから流れてくる。
男は満足げに頷き、女性に軽く手を振って指示を送った。
「今、目の前に広場の風景が見えるね。手には、小さなステッキも握られている」
「はい」
「では、テストを開始しよう。型通りの説明をするから、それに従ってくれ」
「はい」
一切余計な事をいわず、マルチは返事をしていく。
「・・・このテストは目の前にある広場に、君の思う物体を配置していくものだ。時間はどれだけ掛かってもかまわないし、疲れたのなら休憩をしても結構だ。このテストに正解はなく、君の思った物体を思ったように配置してほしい。また恥ずかしい物体を配置したいと思った場合は、無理に置く必要はなく・・・」
冷静な男の口調と、単調なマルチの返事が繰り返される。
電子音とキーのタイプされる音。
一切の感情が排除された、無機質な空間。
明るいはずの照明が、翳りを帯びて見える程の。
そしてもう二度と、マルチが呟く事は無かった。
心を、闇に沈めて・・・。
了
あとがき
どうも初めまして。猫地獄こと高橋という者です。
高嶋さんが書かれた「人と、機械と、そして心と・・・」に触発されて書いてみました。
多少陰にこもった話で、マルチファンの方には面白くないかも知れません。
書いてある事については、いい加減な知識を適当にそれらしくつなぎ合わせただけです。
至らぬ点が多々あるかとは思いますが、どうか御容赦下さい。
合わせて志保のストーリーも書いていますので、よろしかったらそちらもどうぞ。
最後になりましたが、今作品を公開する機会を与えて下さった高嶋さんに感謝いたします。