稲光が虚空を貫く。
垂れ込めた黒い雲から僅かに漏れ出る夕陽の朱。
迸るエネルギーが天を掻き回し、混沌とした世界を現前させていた。
それは創世の時を思わせる光景だった。
破壊の刃が総てを叩き壊し、新たな世界を築く。
そして暗雲が清涼な風に流されていった後には、虚無が待っている・・・
いや、それは虚無ではない。
膨大なエネルギーによって世界が浄化された後、残されたものは透明に見えていても尚、存在感を持っていた。
そしてそれが、新たな世界の根幹となるのだ。
「・・・どう?」
傍らで少女が囁く。
しかし、ぼくは荒れ狂う稲妻を眺めたまま、つまらなそうに答えた。
「わからないよ。ぼくには何も感じない。」
「・・・どうして?」
すると、少女は意外そうに問う。
彼女はぼくのために用意したこの光景に自信があったのだろうか?
「だって、ぼくはあそこにいないから。ぼくは見ているだけだから・・・」
つまらなかった。
確かにこれが現実ならば、さぞかしスリリングだったかもしれない。
でも、ぼくは傍観者に過ぎないんだ。
滝のような豪雨にずぶ濡れになることもなければ、稲光に恐れおののくこともない。
安全の代償として、ぼくは感情の起伏を与えられなかったんだ。
それが・・・それが一体何なんだろう?
「じゃあ、あそこに行ってみたい?」
少女はからかうようにそう言う。
そう、知っているのだ。
ぼくがここに来たのは、自分の世界から逃げてきたからなのだと。
そして彼女はそんなぼくに追い討ちをかけるように更にこう言った。
「あそこには・・・ないよ。」
「・・・・」
「でも、ここにはある。ずっとずっと・・・・」
「・・・・」
「どうするの、ねぇ・・・?」
「ここにあるものが、他の場所にもないってどうして言いきれるんだ?」
もう、うんざりだった。
ぼくはどんな光景を見せられても、胸に響くことなんてない。
たとえこれから彼女がどんな趣向を凝らしたとしても。
「わたしはそんなこと、言ってないよ。」
「じゃあ・・・」
「探してみる?」
「えっ?」
「だから、探してみる?現実の世界にも、ここと同じものがあるのかを?」
「・・・・」
「わたしは無理に、とは言ってないよ。わたしはここにいたい。」
「・・・ぼくは行く。」
「そう・・・」
「そして見つけるんだ、現実の中のえいえんを・・・・」
雨 -- A rainy day story --
From Eiji Takashima
For ICCHAN
雨が、降っていた。
アスファルトの表面を流れ、そして下水溝へと流れ込む。
そんな絶え間ない一連の動きも、自分にとっては無関係なこと。
睡眠を妨げるささやかなノイズは、却ってウトウト感を楽しむには絶好だった。
しかし・・・・
「うがーっ、寝れねー!!」
俺は布団を跳ね除けて勢いよく起き上がった。
「なんだ、この音は!?」
小気味よく、雨粒が何かにカンカンと当たる音が聞こえる。
この俺に対する嫌がらせか?
俺はそう思うとその音の発生源を求めて周囲を見回した。
すると・・・・
「あ、おはよ、浩平。でもまだちょっと早いから寝てても平気だよ。」
「って、長森ーっ!!」
俺はベッドから飛び降りると、何故か俺の部屋の床の上にぺたりと座り込んでいる長森の両肩を掴んで、
それこそ前後にガタガタと激しく揺さぶった。
「や、やめてよ、浩平。倒れるじゃない・・・」
「な、何でお前がここにいるんだ!?」
「だから、いつものように起こしに来ようと思って・・・」
「今何時だと思ってるんだ!?」
俺はベッドから少し離れた場所においてある時計をビシッと指差す。
長森はそんな俺の剣幕を見てもさして意に介さず、いつもと変わらぬほえほえ気分で時計に視線を向けた。
「あれっ・・・」
「あれっ、じゃないだろっ!!こんな時間じゃまだ由起子さんも爆睡中だ!!」
「そ、そうだね・・・どうしたんだろ、わたし?」
恥ずかしそうにぽりぽりとこめかみの辺りを掻いてみせる長森。
自分でもよくわかっていないみたいだったが、俺の方がもっとわからない。
俺は長森がこんな早朝と言うか、まだ朝とも言えない真冬の午前四時にどうして俺の部屋に座っていたのかはさて置き、
それ以上に謎なその手に大切に持っていた物体について疑問をぶつけた。
「そんなことはどうでもいい!!それより何だよ、その手のものは!?」
「え、あ、これ・・・?ももかんだよ。知らない?」
「知ってるに決まってるだろっ!!」
平然とボケる長森。
俺は激しいツッコミを入れた。
そう、長森は何故かどういう訳か、大切そうに桃の缶詰の空缶を持っていたんだ。
ったく、こりゃ夢か?
「で、どうしてそんなもん持ってるんだよ?」
「え、えっとね・・・ほら、浩平の部屋、雨漏りしてたと思って。だから私がこうやってカーペットが
濡れるのをこの缶で防いであげようかって。」
「俺の部屋は貧乏長屋かいっ!!」
ったく、なに寝ぼけてんだ、コイツ。
しかし、俺はボケる長森をいい加減ドツキそうになって気がついた。
あの、俺の眠りを妨げてた音って・・・
「ちょっと見してみろっ!!」
俺は慌ててそう言うと缶の中を覗き込む。
すると・・・・中には沢山の雨水が溜まっていた。
しかし、俺の部屋が雨漏り?
そんな話、全然覚えがないのに・・・・
思わぬ現実を突きつけられて呆然となる俺。
そんな俺を見て、自慢げに長森は胸を張って俺に言った。
「ほらね。ちゃんと雨水溜まってるでしょ?」
「ああ・・・」
「そろそろ溢れそうだったから、どうしようかと思ってたんだよ、浩平。だから起きてくれて良かった。」
ほのぼのした表情で長森はそう言った。
しかし、俺は不思議な違和感を感じ続けていた。
何かがおかしい、と・・・・
「しかし、長森、どうして桃缶なんだ?」
「えっ?ちょうどたまたま見つけただけだよ。別に深い意味はないから。」
「当たり前だ。しかしなぁ・・・」
「何、浩平。」
「今度からそれはやめて洗面器か何かにしてくれ。うるさくて目が覚めちまったじゃねーか。」
「あ、それっていいね。今度から缶を叩いて毎朝浩平を起こそうかなー?」
ぽんと手を叩いて、まるでナイスアイデアと言わんばかりに面白そうに長森が言う。
まったく寝不足の俺の気も知らないでふざけやがって・・・・
俺はそんな長森にうんざりした顔でこう答えた。
「頼むからやめてくれ、長森。」
「浩平が悪いんだよ。いつもぎりぎりまで起きてくれないんだもん。」
「だから、頼んでるんだよ。」
「浩平にしては珍しいよね、私に頼むなんて。」
「いいから。風呂場から洗面器を持ってこい。俺は寝るから。」
そして俺はそれだけ長森に告げると、引っぺがした布団を頭から被って、再び寝モードに入ろうとした。
「あー、折角起きたんだから寝ないでよー。」
長森が布団の上から俺を揺さぶって俺に呼びかける。
ふははは、愚かなり、長森。
この俺はお前に何度も叩き起こされることによって、そんな程度では起きない体質にレベルアップしているのだ。
俺は長森の懇願を無視すると、そのまま惰眠を貪ろうとした。
ったく、まだ四時だぞ、四時!!
まだまだ寝れるじゃねーか。
俺はそう思って早くも寝ぼけた声で布団の外の長森に呼びかけた。
「・・・長森も一回帰って寝ろ。」
「いやだよ、雨降ってるもん。」
「じゃあ、適当な時間になるまでここで寝ろ。布団は・・・適当に使え。じゃ、俺は寝る・・・」
そして、俺は眠りに就いた。
長森のまるで救いを求めるような呼びかけも、もう俺の耳には届かなくなっていた・・・
桃缶に当たる雨粒の音も、布団を通してだとさほどの騒音には感じない。
俺は熟睡したりウトウトしたりを何度も繰り返しながら、その音がいつまで経っても変化しないのを、
半分寝かかった頭でなんとなくいぶかしく思い始めていた。
そしてそんな疑問が高まった時、俺は布団の中から少し顔を出して、様子を覗ってみた。
「なっ・・・・」
俺はその光景に唖然とする。
長森の奴、俺が言ったように桃缶から洗面器に替えるでもなく、かといってそのまま放って置く訳でもなかった。
なんと、その桃缶を大切そうに抱えたままの体勢で眠っていたのだ。
そしてさっき半分以上雨水の溜まっていた空缶は、今ではほとんど溢れそうなくらいになっていた。
その空缶は長森がゆらゆらと船を漕ぐ度に危なく揺れ、いつこぼしてしまうかヒヤヒヤさせられた。
俺は慌てて机の上に置いてあったマグカップを適当に掴み取り、素早く桃缶と差し替えてやった。
「ったく・・・あぶねー奴だ。」
俺は長森に言う訳でもなくそう呟いた。
そしてそのままベッドには戻らずに少し窓を開けると、そこから桃缶の中身を捨てる。
空になった缶は丁度長森の手の中に納まっているマグカップがさっきまであった場所に置いた。
「さて、もうひと寝入りしますかね・・・」
俺は少しおどけてそう言うと、再び布団の中の住人となる。
今度は雨漏りの音も静かで、俺は誰に妨げられることもなく完全に眠りに就いたのだった。
そして最後に桃缶を抱えてウトウトしていた長森を思い出して何気にそっと呟く。
「そういや・・・みさおも桃缶、好きだったな・・・・」
しかし、俺の記憶のどこにも、みさおなんて言う名前はなかった・・・・
何か、夢を見たような気がした。
しかし、それが大切な夢であればあるほど、起きた後には思い出せなかったりする。
それは神の悪戯か?なんて思ったりもするけど、思った後で俺は一笑に付す。
神の存在を考えるなんて、俺らしくもなかった。
「浩平〜起きてよぉ〜!!」
「んん・・・せめてあと一週間・・・・」
「一週間なんて寝られる訳ないよぅ〜。」
長森がこんな起こし方をしているうちはまだまだ余裕がある。
俺は長年の経験によってその微妙なところを学習していた。
俺を起こそうと無駄な努力を繰り返す長森に対抗して寝続けようとするのもなかなかに楽しい。
俺を起こしに来る長森を如何に驚かせることが出来るかが、最近の俺の趣味と言ってもよかった。
この前はベッドの中に身代わりの人形を寝かせておいて、自分はクローゼットの中に寝たりもしたし・・・
まあ、あれはちょっとあとで節々が痛かったけどな。
でも、長森をかなり困惑させたから、よしとしよう。
そして俺は寝ぼけながら長森に言う。
「そのマグカップの雨水を全部飲み干したら起きるかもしれないなぁ・・・」
無論、嘘だ。
しかし、長森のことだから、ぐいっと一気飲みしてくれるかもしれない。
俺は自分で言ってみて、これはなかなか面白いかもと思って、ちょっと布団を持ち上げて長森の様子を窺おうと思った。
だが、長森はそんな俺の動きをいち早く察して、その作り出された僅かな隙間からいきなり覗き込んできた。
「う、うわっ!!」
「ふふっ、おはよ、浩平。こうなったらもう起きなきゃ駄目だもんね。」
何だかちょっと負けた気分。
でも、俺は諦めずに長森の笑顔に言った。
「いや、長森がその雨水を飲むをのこの目で見るまでは・・・」
「何言ってるの、浩平?さっきから雨水とか・・・」
「だからマグカップの・・・」
「これのこと?」
長森はいぶかしげに俺の目の前にマグカップを差し出した。
確かにこのマグカップだ。
絶対に間違いない。
俺愛用のマグカップは、この家ではほとんど肌身離さずと言っていいほどの必需品なんだ。
しかし、長森が俺に続けて言った言葉は、俺を充分驚かせるに足るものだった。
「やっぱり寝ぼけてるんだよ、浩平。このコーヒーを泥水って言うならともかく、雨水なんて・・・」
「何だって!?」
俺は飛び起きる。
そしてマグカップの中身を見ると・・・
「ね、コーヒーでしょ?」
「あ、ああ・・・コーヒーだ。」
それは、確かに誰がなんと言おうとコーヒーだった。
そして更に、長森がカーテンを開け放ったせいで外の眩しい朝の日差しが入り込んでくる。
ほんの少し前まで、雨が降っていたはずなのに・・・・
「雨なんて・・・降ってないよな?」
俺は外を見ながら長森に問う。
「降ってないよ、浩平。」
僅かに首を捻りながらも、長森は真面目に俺の質問に答えてくれた。
長森が俺を騙すはずはない。
実際目の前の現実はこうなんだから。
しかし・・・全ては夢だったとでも言うのか?
俺の疑問は膨れあがっていた。
それは恐怖を感じるほどに。
今までの世界が全て崩れ落ちていくような、そんな感覚さえ受けていた。
そして長森はそんな俺を見ている。
確かに長森はここに座って寝ていたはずだ。
そう、桃缶を胸に抱いて・・・・
「やっぱりゆっくり行くのはいいね、浩平?」
「そうだな。」
にこにこと笑いながら、傍らの俺を覗き込むように半分回り込んで言う長森。
しかし、今の俺は長森の言葉にも上の空だった。
「・・・何だか今日は元気ないね、浩平。どうかしたの?」
そんな俺をすぐに察して微かに不安の色を表情に滲ませながら長森が訊ねてきた。
俺は長森の様子を見て、仕方なく相手をしてやることにした。
「ああ、ちょっとな・・・変な夢、見たかもしんない。」
「夢・・・憶えてはないの?」
「ああ、よく憶えてない。まあ、よくある話だけどな。」
「そうだね。私も夢を見たって感覚はあっても、内容を憶えてないってことがほとんどだもん。」
「みんな、それが普通なんだよな・・・・」
俺はそうしみじみと言う。
今朝の夢を憶えていられたら、どれだけすっきりしたことか。
いや、俺が夢だと思い込もうとしているそれはほとんど現実のこととしてはっきりと憶えている。
しかし、その合間に、何か大切な夢を見ていたような・・・・
すると、長森がぽつりと呟く。
「ずっと何も忘れずに憶えていられたら、いいよね・・・・」
「・・・まあ、そうかもな。」
「うん・・・自分の中で永遠にしたいこと、あるから・・・・」
「・・・・」
何故か、俺はそう言う長森に何も言えなかった。
「・・・・・」
俺は寝ていた。
今は授業中。
まあ、居眠りするのはいつものことだった。
いつものことだから、誰も俺を注意したりはしない。
あの長森さえも、居眠りをする俺を起こそうと言う虚しい努力は既に放棄していた。
それはまた、雨だった。
しとしとと降りつく雨の中、俺は傘を差して歩いていた。
どこに向かっているのかわからない。
しかし、どこでもいいような気がした。
そう、彼女が俺の隣にいれば・・・
「やっぱり、折り畳みじゃない方がよかったね。」
「そうだな、まあ、所詮は携帯用ってことだろ。」
彼女は俺とは違って、折り畳み傘を差していた。
そのせいか、僅かに肩の辺りが雨に濡れてしまっている。
「うん。でも、たまには濡れるのも悪くないよね。」
「だったら傘差さなかったらいいだろ。」
「そしたらずぶ濡れだよぉ〜・・・」
俺の素っ気無い言葉に、情けなく応じている。
まあ、そんなのどかな光景は、いつも俺を落ち着かせていてくれた。
俺は少し表情を崩して彼女を見ると、優しくこう申し出る。
「傘、交換してやろうか?」
「いいよぉ、別に。」
「そうか?」
「うん、だって、わたしの代わりにお兄ちゃんが濡れたら申し訳ないもん。」
「お兄ちゃん?何言ってんだよ、瑞佳、ふざけるのは・・・」
「ふざけてるのはお兄ちゃんの方だよ。みさおのこと、忘れちゃったの・・・?」
何かがすれ違っている。
それは、些細なものだったかもしれない。
しかし、その綻びが如何に小さなものであろうと、俺の目には真っ白な洗いざらしのシーツに一点の血痕がついているも同然だったのだ。
「みさお・・・?」
「そうだよ、お兄ちゃん。」
長い髪、そして大きな瞳。
しかし、気付いてみると肩の高さが違う。
そして俺も・・・
雨が降る。
ガレージの屋根を雨水が伝い、そのまま道路へと流れ込む。
雨の街は普段の喧燥が嘘のように静かで、ただ、水の音だけが聞こえていた。
「・・・雷?」
季節外れの雷の音が、遠くから響いてくる。
それは微かなものだったけれど、俺の耳にはしっかりと届いていた。
「そうだね・・・雷鳴ってる。」
瑞佳ならぬみさおが俺に応えて言う。
俺は空の彼方に視線を向け、目を凝らす。
一体どこで、この雷が鳴っているのだろう・・・
冬の雷は切なく、俺の心を揺り動かしていた。
その鳴動は俺の琴線に触れ、涙を流させる。
それは、失った何かを思い出させるような・・・・
「浩平、浩平ってば・・・」
「ん・・・」
「もう、起きてよ、浩平。みんな帰っちゃうよぉ〜・・・」
誰かが俺を揺さぶる。
それは、いつもの長森の手だろうと、俺はその感触で悟った。
更に情けないその声、間違いなく長森だった。
「ん・・・もうちょっとだけ・・・・」
「駄目だよぉ。私だってもう部活に行かなくちゃ行けないし・・・」
「そんなつれないこと言うなよ・・・瑞佳・・・・」
「えっ・・・?」
そして、ふと長森の手が止まる。
俺は何事かと思って、僅かに瞼を開けて長森の方を見てみた。
すると、驚きの表情で俺のことを見下ろしていた。
「こ、浩平、今なんて・・・?」
「だから、瑞佳。お前は瑞佳じゃないのか?」
「そ、そうだけど・・・でも浩平、今まで私のこと、名前で呼んでくれたことなんてなかったじゃない。
いつも長森長森って・・・・」
「それもそうだな。」
俺はそう言うと、身体を起こした。
冬の夕暮れは予想以上に早く、教室は既に茜色に染まろうとしていた。
「ど、どうしたの、浩平、今日は何だかおかしいよ。」
「そうかもな・・・・」
それはまだ、夢の続きのようだった。
この夕焼けが示すように、雨なんて降ってない。
でも、何故か違和感なんて感じなかった。
「でも・・・おかしくてもいいかな・・・?」
「どうしてだ?」
「だって・・・浩平、私のこと、瑞佳って呼んでくれるんだもん。」
恥ずかしそうにしながらもにこにことそう言う長森。
「それがどうかしたのか?」
「だって、嬉しいよ、やっぱり。」
「そんなもんか?」
「うん。」
「じゃあ、今度から瑞佳って呼んでやろうか?」
「本当に!?」
「ああ。そんなことくらいで、みさおが喜んでくれるならな・・・」
そう、俺はいつも、みさおの奴を喜ばせてやりたかったんだ。
あのカメレオンだって、みさおをただ喜ばせてやりたくって・・・・
「こ、浩平?」
「ん・・・なんだ?」
「みさおって・・・・?」
「ああ・・・俺の、死んだ妹だ・・・・」
「そ、そんな・・・聞いてなかったよ、浩平にそんな妹がいたなんて・・・」
唖然としてそう言う瑞佳。
しかし、俺はそんな瑞佳にさも当然だと言うように平然と答えた。
「そりゃそうだ。何せこの俺も、今初めて知ったんだからな・・・・」
それは少し違うかもしれない。
忘れさせていたことを、今再び思い出させられたと言うか・・・・
「は、初めてって・・・」
「ああ・・・そういうことだ、みさお。」
俺、何言ってんだろ?
でも、瑞佳にみさおと呼ぶのは何故かやけにしっくりと来て、俺はその言葉を撤回しようとは思わなかった。
「わたしは・・・みさおなんかじゃないよ。長森・・・瑞佳だもん。」
困ったように小さく言う瑞佳。
俯いたその様子は、泣いているようにも見えていた。
それは、最後の晩餐にしては味気なかった。
みさおが大好きだった桃の缶詰を、ぼくはお医者さんに内緒で持ち込むと、真夜中の病室でこっそりみさおに食べさせた。
「うまいか、みさお・・・?」
「うん・・・あまいね、とっても。」
「ああ、あまいから、うまいんだ。」
根拠もなくぼくはそう言う。
でも、そんな論理は正しいように感じられていた。
「おいしいよ、お兄ちゃん・・・」
「お兄ちゃんにもひとつ、いいか?」
あまりにうまそうにみさおが食べるから、ぼくも欲しくなってそうねだる。
でも、そんなぼくに面白そうにみさおが答えた。
「駄目だよぉ。これはみさおのももかんなんだから。」
「でも、ぼくが買ってきたんだぞ。」
少ないおこづかいは、桃缶ひとつでさえ大きく響いた。
だからちょっとくらいいいだろ、っていう思いがあったのかもしれない。
「だーめ。でも、シロップだけなら、ひとくちあげるよ。」
「そ、それでもいいや。」
「ほら、あーんして・・・」
冷たいシロップ。
それは甘く、ほんのり桃の香りがした。
「うーん、やっぱももかんはシロップだけでもうまいな。」
「うんうん。またこっそり食べさせてね、お兄ちゃん。」
「ああ・・・また今度、買って来てやるよ、みさお・・・・」
しかし、その約束が叶えられることはなかった。
そう、二度と・・・・
「もう・・・おしまいかな?」
瑞佳がそう言う。
「ああ・・・そうだな・・・みさお・・・・」
ぼくはみさおに応える。
そんな時、ぼくの耳にある音が届いた。
「・・・雷?」
「そうだよ・・・」
ふと気付くと、茜色に染まる教室の中だと言うのに、ぼくの肩は濡れていた。
それは、雨だった。
「雨だ・・・どうしてこんなところで・・・?」
「わたしがいるから。だから・・・・」
「みさおが?」
「うん・・・瑞佳が、泣いてるから・・・ずっとこのままお兄ちゃんと、いたかったのに・・・・」
「ぼく・・・いや、俺がいるから?瑞佳とお前は同じじゃないのか?」
俺は驚いて言う。
しかし、瑞佳の姿をしたみさおは小さくこう答えた。
「そうだけど・・・少し違うんだ・・・」
「どう違うんだ?」
「お兄ちゃんが気付かなければ、ずっとこのままだったかもしれない。でも、気付いちゃったから・・・」
「ぼくはまた、お前の世界に戻らなきゃ行けないのか、みさお?」
「うん・・・だから泣いてるんだよ、瑞佳は・・・まあ、私が泣いてるって言ってもいいかもしれないけどね。」
そんなみさおは、雨降る教室の中、涙を流していた。
みさおはぼくと一緒にいられる世界を望んでいただけなんだ。
でも、ぼくはそれを拒んだ。
だからみさおは瑞佳になって・・・それが一番、幸せな形だったのかもしれない。
ぼくは失ってみて、初めてそのことに気がついた。
そしてみさおも、瑞佳として俺と一緒に学園生活を楽しみたかったんだ・・・
「瑞佳・・・・」
「・・・浩平・・・いいよね、最後くらい、こう呼んでも・・・・」
「ああ・・・・」
世界が終わる。
いや、それは総てではなく、ひとつの世界の終末にしか過ぎない。
でも、ぼくにもみさおにも、それは総てに等しく感じるものだった。
「ずっとずっと好きだったよ、浩平・・・・」
「俺も・・・瑞佳のこと、好きだった・・・けど・・・・」
「何も言わなくていいよ。ただ、そっと抱き締めて・・・」
瑞佳が俺の言葉を遮ってそう言う。
俺は黙って瑞佳の身体を抱き締めた。
失われていくものを、忘れないように身体に刻み込むかのように。
雨に濡れた二人の身体は冷え始めていた。
ぺたりと服は身体に張りつき、寒々しい光景だった。
そして雨は次第に強さを増す。
雷の音も、だんだん近付いてきているような気がしていた。
それは世界の終わりを告げる鐘の音。
奇しくも俺がみさおに見せられた光景に似ていた。
しかし、あの時と同じじゃない。
俺は雨を感じ、喪失の痛みに涙している。
そして俺の腕の中には瑞佳がいて・・・
「瑞佳・・・」
俺はその唇にそっとキスをする。
それは最初で最後のキスだった。
瑞佳はそれを微かに身を震わせながら全身で受け止める。
俺はただ、そんな瑞佳を離さないように、ぎゅっと抱き締めるだけだった。
そして、俺が瑞佳から唇を離した時、俺達の世界は終わった・・・・