過ぎゆく時



 肌を焦がす日差しはとうに去り、心の中まで届くような涼風が過ぎていく。
 青空に浮かぶ雲は薄く、そして白い。
 しばらくは元気を失っていた庭の緑も、その涼しさに息を吹き返しているようだ。
「気持いいわね」
 時季外れの麦藁帽を被っている千鶴が、白のワンピースを翻しながら振り返る。
 清楚さと心の強さを感じさせる下がった瞳を、縁側へと向けて。
「ええ」
 素っ気なく答える楓。
 淡いブルーのブラウスに、チェックのショートスカート。
 彼女の方がより澄んだイメージを想起させるのは、千鶴の重ねた年齢のせいだろう。
 お互い良家の娘であるとはいえ、今までの出来事で矢面に立たされてきたのは千鶴なのだから。
「この間まで、あれ程暑かったのに」
 高い空を見上げ、穏やかに微笑む。
 目の前をトンボが通り過ぎていき、今度はそれを目で追っていった。
「トンボ」
 指を差す千鶴。
 楓は醒めた瞳で、彼女を見据える。
「な、何よ。その目付きは。それが、姉に対する態度なの」
「私にだって、見えてるわ」
「そ、そうだけど。だからあなたは可愛げが無いっていうか、初音の方が可愛いっていうか」 
 小声で、しかし楓に聞こえるくらいの声で呟く。
 拗ねたように顔を背けているが、時折その視線が縁側へと向けられる。
「赤トンボ、かしら」
「そう、そうよね。赤いものね」
「ええ」    
 仕方なく話に乗ったという楓の表情も気にせず、目を輝かせる千鶴。
 その勢いのまま、庭の緑へ向けていたホースが縁側へと移動し始めた。
「千鶴姉さん」
「え、ああ。大丈夫よ、すぐ乾くから」
「そうね」
 足元に掛かった水滴へ視線を落とした楓は、ハンカチを取り出してそれを拭こうとした。
 しかしすがるような眼差しで見てくる千鶴と目が合い、ハンカチをしまう。
「そうそう。この世に四人きりの姉妹なんだもの。みんなで労り、助け合って生きていかないと」
 真顔で語られる言葉に、これといった答えは返ってこない。
 無視という訳でもないが、相手にはされていない。
「楓ちゃん。お姉さんの言ってる事が聞こえないの」
「ちゃん付けは止めて」
「もう、聞こえてるんじゃない」
 年頃の女の子のように、可愛らしく笑う千鶴。
 対して楓は、小さく首を振ってショートヘアをたなびかせた。
 何か言いたげな視線を避け、千鶴は水を浴びた緑へ手を触れる。 
 光り輝く水滴が葉の上を滑り、ほっそりとした彼女の指先へと伝う。
「さあ、次の仕事に取り掛かろうかしら」
 物静かに緑を眺めていた楓の感慨を吹き飛ばすように、高らかに宣言する千鶴。 
 彼女の手にあるのは、剪定用の大きなハサミ。
 両手で持つタイプで、手入れが行き届いているのか刃には彼女の顔が映り込んでいる。
「千鶴姉さんがするの」
 さすがに違和感を感じたのだろう、自分から尋ねる楓。
「ええ。その辺りを、少し刈るだけだから」
 こくりと頷き、ハサミを動かす千鶴。
 金属のこすれ合う音が、秋の空へと響いていく。
 子供のような、無邪気な笑みと共に。
「大丈夫?」
「勿論。ちょっと大きなハサミっていうだけじゃない」 
 楓が気遣ったのは千鶴の事なのか、それとも庭の緑の事なのか。 
 その辺りは語られなかったが、ハサミは動き続けている。
「レレレのレよね」
「え?」
 唐突な、そして意味不明な言葉に戸惑いの声を出す楓。
「ほら。お父さんが植木屋さんで、いつもホウキ持ってる人」
「何の話?」
 千鶴も詳しくは分かっていないらしく、小首を傾げ唸りだした。
 両者の間に、不可思議な沈黙が流れていく。 
 だがそれを破ったのも、やはり千鶴だった。
「とにかく、やろうっと」
「……ごまかした」
 ささやくような突っ込みを無視し、ハサミが緑へと向けられる。
 日差しに光る大きな刃。 
 これならば人の体すら、たやすく切り裂く事が出来る。
 千鶴ならば、とも言い換えられる。
 そのせいだろうか、楓は淡く膨らむその胸を押さえた。 

 鬼の血、という意味だけではない。
 それとはまた別な名で呼ばれていた、遠い過去世。
 掟の元、妹をも切り裂いた姉。
 その記憶がない彼女には、何の関係も無い事だ。
 だから楓は、自らの胸を押さえた。
 今はないはずの痕を押さえるようにして。   
    
 
 屋敷へ戻り廊下を歩いていると、軽快な鼻歌が聞こえてきた。
 別な庭先に面した和室から届く音色。
 トレーナーにジーンズというラフな姿の梓が、爽やかな笑顔を浮かべて柱にぞうきんを掛けている。
「か、楓?」
 甲高い声を出し、その手を止める梓。
 頬は、どことなく赤い。
「そ、そのさ。ここも一応は我が家の一部だから、掃除しないとね」
 聞かれもしないのに言い訳がされ、可愛らしさと精悍さを併せ持つ顔が伏せられる。
 先日まで、彼女達の従兄弟が滞在していた部屋。 
 床の間と障子のある、若者にはやや不向きな和室。
 彼が去った今でも、千鶴や初音の姿がここではよく見られていた。
 そして彼女の姿も、また。
「み、みんなには言わないでよ」
 上目遣いで、じっと睨む梓。
 微かに頷いた楓を確かめ、その手が再び動き出す。
「あんな奴でもさ、一応は私達の従兄弟なんだし。それに短い間とはいえ、一応家族みたいに過ごしてきたんだから。このくらいはしても、悪くないわよ」    
 一応という言葉を強調して、一人しゃべり続ける。
 答えを待っているというよりは、自分の気持ちをただ述べているようにも思える。
「何をする訳でもなく、一日中ゴロゴロしてさ。トランクス一枚でうろうろしてさ。本当に、何なんだろあいつは」
「従兄弟よ」
「あのね、楓。私が言いたいのはそうじゃなくて」
 「ではなんなのか」という視線に、梓は掃除へ没頭する事で逃げた。
「しかし、大学生ってのはああなのかな。私も、進路を真面目に考えないと」
「そうね」
「素っ気ないな、もう」
 その言葉とは裏腹に、にこやかな表情で掃除を続ける梓。
 妹の気性を知り尽くしてるこその笑みであり、姉としての妹に対する無償の優しさでもあるだろう。
「千鶴姉は」
「庭で、剪定をしてるわ」
「せんてい?よく分からないけど、あの女にそんな事出来た?」
 言葉を返さない、いや返せないのか無言になる楓。
 梓もハタキを持ったまま、腕を組む。
「まあいいか。あれも、いい年だし」
 よく分からない結論を得て、再びハタキが動き出す。
 掃除自体は毎日されているので、ほこりは殆ど上がらない。   

 いつ来るのかすらも分からない相手を想い、彼の居室を整える。
 人によってはあまりにも無意味な行為に思えるだろう。       
 ただの自己満足で、相手の気持ちも考慮していないと。
 それでも梓は、心を込めてこの部屋を掃除し続けている。 
 彼が戻ってくる日のために。
「……来ると、思ってるの」
 主語のない、楓の質問。
 しかし梓は、その意味を理解したかのように首を振った。
「分からない。だけど、これは私としても止められないのよ」
「どうして」
「それが分からないから、こうしてるのかもね。それとあいつには、多少の恩もあるし」
 儚い表情、遠い目付き。
 過ぎ去った、幼かった自分達を振り返るような。
 だがその時起きたある出来事のせいか、楓はまた胸元を押さえつけた。

 しばらくしてようやく我に返った梓が、鋭い眼差しを妹へと向ける。
 すでに楓も、胸元の手は下ろしている。
「大体みんなが掃除しないから、私がやってるっていう理由もあるんだけど」
「あ、そう」
 さりげなくその場を離れようとする楓。
 しかし襟首を素早く掴まれ、即座に引き戻された。
「せっかく来たんだし、あんたは畳拭いて」
「綺麗じゃない」
「それでも拭くの」
 足元のバケツを指さす梓。
 楓も、ため息混じりにぞうきんを絞りだした。
「絞り方が甘い。内側にではなく、外側へひねるようにして」
 所属が体育会系なので、ノリがそっちに行くらしい。
「両膝を浮かし、手は肩幅よりやや狭く。腰を入れ、一気に進む」
 梓の指示を聞き流し、畳の目に沿って小さく手を動かす楓。
 いかにも日本女性を思わせる、しとやかな動きではある。

「……何してるの」
 部屋に入って来るや、可愛らしい顔を曇らせる青いキャミソール姿の初音。
 そこには膝を崩し顔を伏せて畳を拭く楓と、仁王立ちして彼女を見下ろす梓の姿があった。
「梓お姉ちゃん。そういうの、よくないよ」
 悲しげに、次姉を見上げる末妹。
 その手は労るようにして、楓の背中をさすっている。
「ち、違うんだって。私はただ、掃除をさせてだけなんだから」
「うーん」
「あなたね、姉の話を信じられないっていうの」
 まなじりを上げ、初音に迫る梓。
 気圧されたように顎を引いた彼女は、それでももう一人の姉へ視線を注いでいる。
「楓お姉ちゃん、大丈夫?」
「ええ。ありがとう、初音」
「だから……。もう、いい」
 背を丸め一人畳を拭き出す梓だったが、その顔が再び初音へと向けられる。
「そういえば、何しに来たの」
「えと。楓お姉ちゃんに、勉強を見てもらおうと思って」
 その言葉に、再び瞳に炎が宿る。
「何、それ。どうして、梓お姉ちゃんっていう名前は出てこないの」
「そ、それは、その」
 救いを求めるように、楓を見やる初音。 
 楓は周り回って、梓を見据える。
 無言で、しかし何よりも雄弁に物語っている澄んだ眼差しで。
「わ、私には分からないっていうのっ?」
「何も言ってないわ」
「う、くっ」
 拳を握りしめ、小刻みに震え出す梓。
 しかし楓はそんな物どこ吹く風で、燃え盛るような視線を受け流している。
「ご、ごめん。じゃあ、梓お姉ちゃんにも見てもらおうかな」 
 責任を感じたのか、初音が上目遣いでおずおずと申し出る。
 小さな体をさらに小さくして、申し訳なさそうに指を組み合わせながら。
「やめてよ、私がいじめてるみたいじゃない」
「ご、ごめん」
「いいから。それで、勉強って何」
「微分積分なんだけど」
 突然、「あー」と声を上げる梓。
「ごめん、私買い物行かないと。楓、ちゃんと初音の面倒見てやってよ」
「買い物は、昨日済ませたんじゃなかった?」
 冷静な楓の問い掛けに、大きな咳払いが覆い被さる。
「今日はサンマの特売があるのよ。秋といったらサンマ。目に青葉、山ほととぎす、秋サンマ」
「初鰹、じゃなかった?」 
 多少遠慮がちな初音の質問にも、小刻みな咳払いが重なっていく。
「とにかく、家事は私に任せてちょうだい。私はあなた達が一生懸命勉強してくれさえすれば、もうそれで満足だから。ええ、私はどうだっていいの。あなた達さえ幸せなら」
「あ、梓お姉ちゃん」
 手を揉みしぼり、大きな目を潤ませんばかりにする初音。
 しかし楓はそんな小芝居に騙されないとばかりに、醒めた瞳で梓を見つめている。
「な、なによ」
「別に」
「ほら、ここはいいから二人は勉強してきて。ほら、ほら」
 二人の背を押し、和室から追い出す梓。
 その背中で、障子が音を立て閉められる。    
「と、とりあえず、私の部屋へ行こうか」
「ええ」


 数学のドリルと参考書が閉じられ、計算式やグラフの書き込まれたルーズリーフが丁寧に重ねられていく。
 机の上には四姉妹の映ったフォトスタンドと、筆記用具を入れるアルミケースなどがあり、友達からのメモ書きなどが正面の壁に貼られている。
 また可愛らしい動物の小物なども幾つか置かれていて、この部屋の持ち主の性格を現している。
「ありがとう。大体分かった」
「そう」
 春の木漏れ日のような初音の笑顔に、素っ気なく応える楓。
 初音はそれを気にした様子もなく、プリクラ写真の貼られた携帯を手に取った。
 映っているのは彼女達四姉妹。 
 それぞれが、それぞれの性格を示す表情で映っている。 
 例えば千鶴は違う方向を見ているし、梓はどちらかといえばはにかみ気味。
 初音は朗らかな笑みで、楓は真顔でカメラを見据えている。
「これは」
 風の音のようにささやく楓。
 華奢で短い初音の指が滑った先には、彼女と従兄弟の二人きりで写ったプリクラ写真がある。
 ただ楓が尋ねたのはそれではなく、机の本棚からわずかに見えている白い封筒だ。
「お兄ちゃんに、手紙出そうと思って」
 微かに頬を染め、封筒を手に取る初音。
 宛先には彼の名前と住所、そして少し珍しい記念切手が貼られている。
「手紙」
「うん。電話だとお金掛かっちゃうし、これだと写真も送れるから」
「そうね」
 関心なさげに答えた楓は、微かに顔を伏せ前髪でその瞳を隠した。
「インターネットでも始めて、メールをやりとりした方が早いかな」
「千鶴姉さんに、頼んでみたら」
「うん。あ、でもお兄ちゃんがパソコン持ってないと駄目か」
 眉をひそめ、可愛らしく悩む初音。
 友達のメモ書きが貼られた正面の壁。
 その中央に、一枚きりの写真がある。
 初音と、彼女の従兄弟の。

 彼がこの家を去る時、それぞれの姉妹と一枚ずつ撮った写真。
 千鶴や梓は飾りこそしないものの、大事に保管されているはずだ。
 勿論楓も、彼との写真を持っている。
「大学は、転校なんてないもんね」
「ええ」
「でもお兄ちゃん、こっちに引っ越してこないかな」 
 子供のような考え。
 彼女らしい願いともいえるが、それが叶うのは少なくとも彼が卒業する二年後になるだろう。
「楓お姉ちゃんは、どう思う?」 
 唐突な、何を尋ねているか掴みにくい質問。
 初音は遠い目で、彼の写真を見つめたままである。
「彼には、彼の生き方があるわ。みんなの都合で、それを変えていいとは思わない」
 厳し過ぎるとも言える、楓の答え。
 初音の尋ねた真意に合っているのか定かではないが、彼女自身の意見は語られた。
 またそれが彼女の真意かどうかも、定かはでない。
 楓の答えは「みんな」という曖昧なもので、「私達」にはなっていなかったのだから。
「でも私は、お兄ちゃんと一緒に暮らしたいな。別に叔父ちゃんの代わりとかそういう意味じゃなくて」
「分かってる」
 素早く肯定する楓。 
 その手が初音の柔らかな髪を撫で、ふと止まる。

 彼がもっとも優しく、暖かな視線を送り続けたのは千鶴。
 それは初恋と呼べる幼い日々から、今まで続く事だ。 
 また彼がその身を挺し、自らの危険を顧みず救ったのは梓。
 気の置けない、男女を越えた間柄とも言える。
 素直に彼への想いを表現するのは、初音。
 そして過去世にて、彼と結ばれたのも。
 
 現代において、理由はともかく彼を避け続けていた。
 また過去世では、彼と結ばれる事無く非業の別れを告げたのは。
 
 それぞれが彼との、絆めいたつながりを持っている。    
 現在、幼い日々、過去世。
 だが、その中で彼とのつながりを否定されたのは誰なのか。 
 その結果、誰が幸福を得たのか。

 
 前髪に楓の瞳は隠れている。
 また前を向いている初音は、携帯で従兄弟からのメールを見て悦にいっている。
 彼女の頭に手を置き、身じろぎしない楓。
 秋風が部屋の中を過ぎ、季節はずれの風鈴の音色が響く。
 永劫とも言える一瞬の時。
 過去と今とが交錯したかのような。
 鬼の血は、生命の散華を求める。
 それが例え、自らの妹であろうとも。
 楓の手は初音の頭を滑り、彼女の顔へと降りていく……。

 
 微かに上がる、驚きの声。 
 だがそれは、すぐに安らぎの表情へ取って代わる。
「大丈夫。きっと、あなたが思っているようになるわ」
 優しく初音の頬を撫でる楓の手。
 慈しむように、愛おしむように。
「うん」
 初音はそれに自分の手を重ね、微かに頷いた。
 根拠のない、ただの慰めかもしれない。
 何の意味も持たない、その場しのぎの言葉かもしれない。
 それでも初音は、慕わしい笑みで姉を強く見つめた。
 そして楓もまた。
 場所を越え、時をも越えた姉妹は……。


 秋の風が、蝋燭の灯火を微かに揺らす。
 仏壇に供えられる、やや早い梨。
 その向こうには遺影があり、壮年の男性が穏やかに微笑んでいる。
 位牌に書かれた戒名は、勿論彼の名が入っている。
 姿勢を正して、その前に正座する楓。
 線香の残り香が、彼女のショートヘアを通り過ぎていく。
 蝋燭も燃え尽きる寸前で、芯の燃える音が小さく聞こえる。
 ただ、それ以外の動きや音はない。
 楓自身、身じろぎ一つせず仏壇と向き合っている。
 灯火が大きく揺れ、白い煙が立ち上る。
 同時に、彼女が仏間にいた時間の経過をも告げていた。
 それでも楓は、仏壇の前から動かない。
 姿勢を正したまま、遺影を見続けている。
 いや。果たして遺影を見ているかどうかも、定かではない。
 しかしその瞳に力はあり、まっすぐに正面を見据えているのは確かだ。



「……ここに、何があるという訳でもないわ」
 澄み切った、自分の意志を伝えるはっきりとした口調。
 しなやかに立ち上がり、仏壇へ背を向ける。
 周りの全てを透過させるような、限りなく透明な佇まい。
 もうここに、彼女を繋ぎ止める物は何もないのだろう。
 そして楓は、振り返る事無く仏間を後にした……。    



 
 
     四姉妹



 楓が居間へ入ると、それまで騒がしく言い合っていた二人の姉が彼女を見上げた。
 食事用の座卓の上には、鋭い刃を光らせる剪定用の大きなハサミが置いてある。
 それを間に置き、睨み合う千鶴と梓。
 初音は彼女達から離れて、壁際で小さくなっている。
「不器用なんだから、やらなければいいんだよ」
「今さら言っても仕方ないでしょ。それに、結構上手く行ったじゃない。ねえ、楓」
 威圧感のある笑みで振られた楓は、それとなく廊下へ戻ろうとした。
「あれの、どこが上手いんだ。小学生の工作の方が、まだましだよ。なあ、楓」
 肩にのし掛かってくるような親しみを込めた口調に、楓はさらに下がる。
「どう思う、楓お姉ちゃん」
 二人に意見を求められ相当困っていたのか、すがるような視線を送ってくる初音。
「……さあ。私、植木には詳しくないから」
 無難な逃げをする楓。
 しかしそれが睨み合っていた両者に、思わぬ作用をもたらす。
「そ、そうよ。私はプロじゃないし、素人にしたらあれでもそう悪く無いのよ。きっと」
「そ、そう言われてみれば、そうかな。うん。千鶴姉も、よく頑張った」 
 どうやら二人とも、落としどころを捜していたようだ。
 隅で小さくなっていた初音も、表情をほころばせて姉達の傍へとやってくる。
「でも危ないから、これからは植木屋さんに頼んだ方がいいと思うよ」
「ええ、そうするわ」 
 心の底からと付け加えてもいいくらいの、千鶴の呟き。
 梓が何が言いたげに瞳を動かしたが、初音の目配せにあって直ぐさま適当に頷いた。
「あーあ。なんか、夕ご飯作るの面倒になってきたな」
「じゃあ、私が作りましょうか」
 居間の空気が一瞬にして重くなり、妹全員の顔に翳りが帯びる。
「ち、千鶴姉は一仕事して疲れてるし、それは悪いよ」
「そうそう。千鶴お姉ちゃんはいつも大変だから、休みの日くらいはゆっくりしてて」
 千鶴にまとわりつき、その肩や腕を揉み始める梓と初音。
 彼女もまんざらでも無さそうに、その身を任せている。
「優しい妹達を持って、私は幸せだわ」
 しなを作り、わざとらしく目元を押さえる千鶴。
 それを見て、梓が一言口を挟む。
「後は、旦那が見つかればもっと幸せだよね」
「光陰矢の如しと言ってね。明日は我が身なのよ」
「ふふ」
「ふふふ」
 不気味な笑い声を発し、不敵に見つめ合う両者。  
 再び表情を曇らせた初音が、それとなく楓に助けを求めようとする。
「……どっちもどっちじゃない」
 小さな、しかし居間にいる者にははっきりと聞こえるささやき。
 当の本人は、振り返りもせず廊下へと歩いていく。
「待った」
 素早く前へ回り込み、彼女を押し戻す梓。
 千鶴は恨みがましい顔で、その足にしがみついている。
「あんたね。醒めたキャラでなんでも済まされると思ったら、大間違いよ」
「そうよ。楓ちゃん、私の何が問題だというの」
 怒る姉と、いじける姉。
 さすがに困惑した顔で、楓は初音に視線を向けた。
「お姉ちゃん達、もう止めようよ。楓お姉ちゃん、困ってるじゃない」
 優しく助け船を出す、人のいい初音。
「あら、あなた。楓の肩は持てても、私達の味方にはなれないって言うの」
「そうよ。初音ちゃん、私だってあなたのお姉ちゃんなのよ」
 その矛先を彼女へ向ける、二人の姉。
 追い込まれるのが苦手な初音は、「ええ?」と声を漏らして肩をすぼめた。
 この世の不幸を一人で背負った顔になり、さらに背中を丸めていく。

「……初音を責めるなら、私を責めて」
 そんな妹の肩を抱き、姉達を見上げる楓。
 これ以上は一歩も引かないと言う、厳しい顔で。
「か、楓お姉ちゃん」   
「大丈夫。何があっても、私はあなたを守るから。たった一人の、妹なんだもの」
「う、うんっ」 
 その胸にひしと抱きつく初音。
 楓も優しく、彼女の背中に手を回す。
「……あのね、元はといえば楓が」
「梓」
「はいはい。あーあ。本当に、今日はもう何もやりたくない」
 大きく伸びをして、畳に寝転がる梓。
 千鶴はくすりと笑い、横に広がった彼女の髪をそっと整えた。
「だったら、たまには外食でもしようかしら」
「本当?」
 大きな目を輝かせ、千鶴の腕を取る初音。
「ええ。お寿司か、レストランか。あなた達で、行き先を決めておいてね」
「うんっ」
 元気よく頷く初音の頭を撫で、千鶴は居間を後にした。
「ねえ、どこへ行く?」
「それよりも、今からお腹空かせておかないと。初音、走るわよっ」
「うん、分かったっ」
 梓と初音も、慌ただしく今を飛び出ていく。
 一転して静まりかえる居間。
 そこにいるのは、膝を横に崩して座っている楓だけだ。
 そして彼女も立ち上がり、廊下へと足を向ける。
 ふと振り返る楓。
 誰もいない、何もない居間。
 でも彼女の表情に、寂しさはない。
 先程仏間で見せた、一切を振り払うような佇まいも。
 自らの姉妹達を慕わしく思うような、優しい微笑みの他は。   
 彼女がこれから共に生きていく、姉妹達への笑顔しか……。


 何となく不格好になった庭の緑を眺めつつ、縁側へ腰を下ろす。
 昼下がりの日差しは、心に染みいるような暖かさを運んでいる。
 秋の風に揺れ、高い位置にある葉々が微かな音を立てる。
 その風が頬を過ぎ、耳元の髪を流していく。

 過去は変える事が出来ず、また今という時の流れも止められない。
 鬼という血、柏木という名、そして血縁。
 楓は何も語らない。 
 だけどその澄んだ眼差しは、力強く空を見上げていた。
 過去も、今も越えて。
 未来を見つめるかのように。
 そしてその手が、痕を残す胸に当てられる事は無かった……。