拝啓、兄君さま。
早春の風が心地良く吹き抜ける昨今、如何お過ごしでしょうか?
わたくしは日々、兄君さまのため、精進しております。
春歌は兄君さまの、良き妹でありますでしょうか?
実は最近少し、不安に思うことも……。
つきましては、今度相談に乗っていただけませんか?
兄君さまの良きお返事、春歌はお待ち申し上げております。




拝啓、兄君さま。

第一話 揺れる髪、そして
Written by Eiji Takashima





「これでよし、っと……」

ぱたんと携帯端末を閉じる。
鈴凛ちゃんお手製のそれは、如何にも女の子向けのデザインで、使っていてどうも気恥ずかしい。

「でもまあ、用途も限られてるしな」

こういうものは、今までにも使っていなかった訳じゃない。
でも、正直この手の友達が多い訳でもないし、ネットワークのみの付き合いというのにも、ちょっとだけ不安があった。

「ま、それはそれで疲れるんだけど」

今は専ら、妹達とのコミュニケーションの道具になっている。
鈴凛ちゃんはそのつもりで僕達に配ってくれたんだから、それも当然なんだろう。
でも、同じ屋根の下に生活してるんだから、わざわざ電子メールでやりとりしなくてもいいと思わないか?
今の時代、口では言えないことがいっぱいあるからって、僕達は家族なんだしさ……。



こうして、ファンシーな携帯端末は一応活躍していた。
妹達の間でどういうやり取りがされているかはわからないけど、僕に来るメールは取るに足りないものばかりだ。
こっそり僕と遊ぶ約束を取りつけようとしてたりするから、妹達にとっては満更不必要なものじゃないのかもしれない。
でも、それは口に出来ない事柄って言うよりも、他の子に聞かれたくないって言うだけの話で、僕はそんなに深刻には受け止めていなかった。

「ってことは、これが初めてかな……?」

春歌ちゃんから届いたメールは、少しだけ緊張感を帯びていた。
いつもと同じ、彼女らしい丁寧な文面。
でも、相談を持ちかけられることは、これが初めてだった。

「よしっ、ここはひとつ、兄らしく親身になって話を聞いてやろうか」

返事はもう出した。
後は、春歌ちゃんを待つだけ。
メールでの相談もいいけど、直接顔を合わせて話さないと伝わらないこともある。
同じ屋根の下に住んでるのに、画面に流れる文字だけのコミュニケーションじゃ味気ない。
僕の、大切な妹達。
僕に出来ることなんてホントに限られてるけど、限られているからこそ、してあげられることは何でもしてあげたい。
妹にとっての兄の存在意義なんて、これくらいでしか示せないしな……。



『あの、兄君さま……』

遠慮がちなノックの後、細いけれどよく通る春歌ちゃんの声が、ドアの向こうから聞こえてきた。

「あ、春歌ちゃん? いいよ、入って」
『では、夜分遅くに失礼致します……』

そして、ゆっくりとドアが開かれて行く。
春歌ちゃんは部屋の中に身体を滑り込ませると、丁寧にまた、ドアを閉めた。

「突然なことで申し訳ありません、兄君さま……」

春歌ちゃんは深々と頭を下げる。
結った髪がふわりと揺れて、僕に向かって挨拶していた。

「いいって、そんな気にしなくって」
「ですが……」
「それよりも、まだ着物なの?」

僕は笑って告げる。
春歌ちゃんがこういうタイプなのは僕もよく知ってるし、そこが彼女のいいところだと思う。
でも、僕達は兄妹なんだし、今更他人行儀なやり取りをする必要なんてない。
少なくとも、僕は春歌ちゃんとはもうちょっと砕けた付き合いを欲していた。

「ええ、勿論ですわ。兄君さまにわたくしなどの相談を聞いていただけるのですから、いくら深更とは申せ、正装するのは当然ですもの」

きっぱりと言い切るところが春歌ちゃんらしい。
でも、これで少しは話が進むだろう。
その点では、僕の目的は達成された。

「うん、わかった。真面目な春歌ちゃんらしいね」
「そんな、兄君さま……」
「まあ、それよりそこに座って。飲み物も、用意しておいたからさ」
「はい、お気遣い有り難う御座います、兄君さま」

座布団と冷たい麦茶。
これは僕が自分でこっそりと用意したものだ。
白雪ちゃんか可憐ちゃんにお願いしてもよかったんだけど、これは僕と春歌ちゃんとの秘密なんだから、あまり他の妹達には知られないようにしたかった。

「じゃあ、話を聞こうか……」
「……はい」

腰を下ろして、軽く口を湿らせて。
なかなか本題に入ろうとしない春歌ちゃんに優しく促す。

「別に、無理にとは言わないからね。今日は話したくなかったら、お茶を飲んで終わりにしたって……」
「いえっ、折角お時間を割いていただいたのに、そう言う訳には……」
「そう?」
「はいっ!」

拳を握り締めて熱く主張している。
でも、今回の話はそれとは別で、やはり言いにくいものなんだろう。
だからこそ、春歌ちゃんもわざわざ僕にお願いしてきたんだろうし……。

「兄君さま、実は……」
「うん?」
「わたくし、知りたいことがあるんです……」

そう、真剣に語っていた。
春歌ちゃんは博識で、僕が知らないことなんかも沢山ある。
それに、読書好きな彼女は、本を使って自分で調べると言うこともよく知っている。
だから、そんな彼女がわざわざ僕に聞きたいことがあるなんて、ちょっと想像も出来なかった。

「知りたいこと?」
「はい」
「僕に?」
「ええ、わたくしの周囲ではきっと兄君さまにしか、お答え出来ないと思いまして……」
「そ、そう……」

春歌ちゃんの期待は大きい。
僕だけにしか、と言う以上、もし僕が答えられなかったら、彼女を激しく失望させてしまうに違いない。
兄の面子にかけて、ここは最上の回答を示してあげたかった。

「で、その、知りたいことって……?」
「はい、その……」

言いにくそうに俯く。
心なしか、ほんのり頬も朱に染まっていた。

「と、殿方のことを……」
「へ?」
「で、ですから、殿方のことですっ。殿方のことは、他の皆さんに聞く訳にも行きませんし、わたくしにとって、一番身近な殿方は、兄君さまですから」

確かに、これなら僕にしか答えられないと考えるかもしれない。
でも、殿方のことと言っても、範囲はかなり広いだろう。
春歌ちゃんがどの辺を僕に聞きたいのか、それを思うと少しだけ不安になった。

「わ、わかった。でも……」
「ご、ごめんなさい、兄君さま。変なことをお聞きしてしまって」
「いや、別にそれはいいんだけど……」
「宜しいんですか?」
「えっ?」
「嬉しいですわ、兄君さまが快諾して下さって……流石は春歌の兄君さまですわっ」

何だか勝手に話が進行している。
が、まあ、この手のことは、妹達に囲まれてもう慣れっこだ。
春歌ちゃんに限らず、妹にお願いされれば嫌とは言えない自分だし、話が早いと言えばそれまでだろう。

「ま、まあ、それはいいとして、殿方のことって? もっと具体的に……」
「ですから、わたくしの知らないこと、全部ですわ。色々と、興味があるんです」
「そっか……わかったよ、春歌ちゃん。僕の目を通してでしかないけど、色々と話してあげるよ」
「有り難う御座いますっ!」

そして、また大きくお辞儀した。
その拍子に揺れる、結った髪。
僕は少し、気にしすぎていたかもしれない。
春歌ちゃんは別に特別なことを求めていた訳じゃなく、ただ僕の話を聞きたかっただけなんだ。
大勢の妹がいて、僕はそのひとりひとりに同じだけの愛情を注いでいたつもりだったけど、妹達から見れば、等分されている僕の想いはカケラでしかなく、きっと物足りないんだろう。
だからこそ、電子メールがあって、ちょっとした抜け駆けがあって。
でも、突き詰めて考えるとそれは決して抜け駆けじゃなく、兄と言う存在を楽しむひとつのスパイスになっている。
そのことに思い至ると、僕は気を落ち着けて、春歌ちゃんに色々話して聞かせ始めた。



「――なるほど、色々参考になります」
「うんうん」

どのくらい、時間が経っただろうか?
僕は時間を忘れて、春歌ちゃんに色んなことを話して聞かせた。
彼女はいつものようにオーバーアクションで僕に返して、僕は笑ってそれを受け流す。
それは本当に楽しいひとときだった。
だからこそ、夜更けなのに眠さも忘れて話し込んだ。
きっと春歌ちゃんのもやもやも、これで晴れるに違いない。
僕は、そう確信していた。

「ところで、兄君さま?」
「なに、春歌ちゃん? もうそろそろお開きにする?」
「いえ、そう言う訳ではなく……」
「遠慮せず、言ってご覧よ。僕達は兄妹なんだしさ……」
「そう、ですよね……」

気のせいか、春歌ちゃんの表情が一瞬曇った。
でも、それも瞬間のこと。
すぐに明るい笑顔に変わって、春歌ちゃんは僕にこう切り出した。

「あのっ、最後にひとつだけ、兄君さまにお伺いしたいことがあるんです!」
「あ、うん。いいよ、何でも聞いて」

僕は今までの流れで即答した。
春歌ちゃんには重大でも、僕にとってはどうせまた取るに足りないことなんだろう。
そう、安易に思い込んでいた。

「殿方の、身体のことについてです……」
「……え?」

一瞬、反応が遅れた。
身体?
どういうことなのか、すぐには伝わらない。

「ですから、身体のことです。女性の身体のことなら、お風呂で他の皆さんに見せていただくなりすれば宜しいのですけれど……」
「あ、ああ……」
「でも、殿方の身体につきましては……」

それは当然だ。
でも、当然かもしれないけど、それをそのまま受け止める訳には行かなかった。

「そ、それはそうかもしれないけどっ、でも春歌ちゃん!」
「駄目、ですか……?」

一気に気落ちする。
それはひょっとしたら、見せかけなのかもしれない。
これが咲耶ちゃんだったら、僕をからかうなと言うことが出来る。
でも、相手は春歌ちゃんだった。
きっとこれも冗談じゃなく、本気の発言なんだろう。
そう思うと、僕は彼女の願いを、無下にすることは出来なかった。

「駄目ってことはないけど、でも、こういうのっておかしいだろう?」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」

そんな当たり前過ぎることを、わざわざ説明してやらなくちゃいけないんだろうか?
でも、ここでいい加減にしては駄目だということくらい、僕にもわかっている。
今は、冷静になってしっかりと言い聞かせる必要があった。

「そういうのは、大切なものなんだよ、春歌ちゃん。春歌ちゃんだって、僕が同じことを君に言ったら嫌だろう?」
「そんなことはありませんわ。わたくし、兄君さまのためにでしたら……」
「あ、いやいやいや、そういうことじゃなくて!」

これでは埒が明かない。
でも、解決策も、すぐには思い当たらなかった。

「こういうことは、兄君さまにしかお願いすることが出来ないんです。お願いです、兄君さま……」
「で、でも……」
「宜しいではありませんか。これがわたくしとは無縁の殿方でしたら、恥ずかしくてお頼み出来ません。でも、兄君さまとわたくしとは、兄妹ですし」

春歌ちゃんは笑って言っている。
もしかしたら、深い意味はないのかもしれない。

「ですから、一緒にお風呂に入っているとでもお思い下されば」
「そ、そうかな……?」
「ええ、そういうものですよ、兄君さまっ!」

笑顔は変わらない。
春歌ちゃんにとって、兄の身体はたとえ異性のものであっても、それ以上に兄の一部と言うことで親しいものなんだろう。
僕は別に、春歌ちゃんには同じことを求めたりはしない。
それは、間違いなく僕が彼女を女性の身体として意識してしまうからだ。
でも、春歌ちゃんが僕の身体を男の身体として意識しないのだったら……答えは単純だ。僕がただ、我慢すればいい。

「わかったよ、春歌ちゃん……」
「有り難う御座います、兄君さま!」

また、髪が揺れる。
嫌味のない石鹸のような匂いが僕に届く。
きっと同じように、彼女の気持ちにも曇りはないんだろう。
客観的に考えれば、これは非常によくないことだ。
でも、春歌ちゃんの立場になって考えてみればそうでもない。

「春歌ちゃんにもそのうち、好きな人が出来るかもしれないしね」
「……ええ」

うちの妹達は、みんな僕にべったりだ。
でも、それじゃいけないと思う。
男は何も僕一人だけじゃない。
それはとても大事なことだった。
だから、これを機に、春歌ちゃんも他の男の子に目を向けてくれるなら……多少のことは、僕も目をつぶらないとな。

「じゃあ……」
「あ、わたくしにさせて下さい。これも勉強ですわ」

胸のボタンに手をかけようとすると、春歌ちゃんがそっと手を重ねて来る。

「あ、うん……」
「ごめんなさい、我が侭申しまして……」

春歌ちゃんの言葉に従って手を下に降ろす。
小さく謝りながらも、彼女の細い指先はシャツのボタンにかけられていた。

「で、では、失礼致します……」

上から順番に、ひとつずつボタンが外されて行く。
春歌ちゃん程ではないにしても、僕も寝巻きではなくそれなりに普通の格好をしている。
今にして思うと、それは正しかったのかもしれない。

「そのうち……」

ボタンを外しながら、春歌ちゃんが呟く。

「うん?」
「そのうち、わたくしにもこのような日が、訪れるのでしょうか?」

視線は僕のシャツの上にあった。
言葉を紡ぐ間も、丁寧にボタンを外して行く。

「そうだね……」
「こんな風に……いつもドキドキするものなのでしょうか?」
「さぁ? それはわからないな。こういうのも、馴れるものなのかもしれないし」

僕にはそんな経験なんてない。
今の春歌ちゃんのように擬似的なものでも、だ。
でも、感じる想いなんて人それぞれで、僕が何を言っても、意味なんてないんだろう。
だからこそ、こうする必要がある。
僕はそう信じていた。

「わたくしは……」
「いいよ、何でも言って」
「兄君さま、わたくしは……この胸のドキドキ、嫌いじゃありません……」

そう言う春歌ちゃんの頬は赤い。
胸のドキドキも、言葉だけのものじゃないんだろう。

「きっと、きっとそのうち……」
「うん……」

言葉にならない想いもある。
感じることを全て言葉に表せなくたっていい。
まだ見ぬ未来に想いを馳せる春歌ちゃんの姿は、僕の目に清々しく映った。

「これが、兄君さまの……」

ボタンを外し終えて、そっと胸元が開かれる。
男にとって、上半身にはそんなに思い入れはない。
でも、女の子にとってはまた別なんだろう。

「触れても……宜しいですか?」

そっと顔を上げて。
上目遣いで僕に訊ねてくる。
改めて春歌ちゃんの顔を見て、上気している様子がよくわかった。

「いいよ……」
「では、お言葉に甘えさせていただきます……」

丁寧な返事の後、指先が僕の胸に向かう。
微かに震えながらの様子が、僕に春歌ちゃんの緊張を伝える。
それが移ったのか、僕も身を強張らせて彼女を待った。

「…………」

まるで宝物にでも触れるような春歌ちゃん。
僕は黙って彼女を見守る。
すうっと指先でなぞったかと思うと、今度は掌全体を僕の胸に押し当てた。

「兄君さまも……ドキドキしてます……」
「あ、うん……」
「わたくしと同じです……」

そっと目を細める。
本来なら、ドキドキしない方がいい。
でも、同じだと言うことは嬉しいことだ。
きっと春歌ちゃんも、同じ気持ちなんだろう。

「あと、逞しいんですね……」
「そう? 別に、鍛えてる訳じゃないけど」
「でも、わたくしとは全然違いますわ」
「まあね。これが春歌ちゃんの知りたかったことなんじゃないの?」
「それもそうですけど……」

そう言いながら、掌を滑らせる。
これだけではない、と言いたいようだ。

「腕も、宜しいですか?」
「いいよ、今更だし」
「では、失礼して……」

脱がし易いように、腕を伸ばしてあげる。
春歌ちゃんは静かに、袖を抜き取った。
そして脱がしたシャツはその場で丁寧に畳み始める。

「あ、別に畳まなくても……」
「いえ、そう言う訳にはっ」
「そ、そう?」
「はいっ。そんな手間でもありませんし、させて下さい」

これもひとつの勉強なんだろう。
僕はこれ以上、余計なことは言わないようにした。

「男物と女物では、若干違うんですよ、兄君さま……」

僕のシャツを畳みながら、春歌ちゃんはそんなことを言う。

「いつもとサイズが違うと、勝手も違うんですね……」
「そう、かな?」
「ええ」

洗濯関係は、いつも妹達に任せっぱなしだ。
だから当然女物の服なんて畳んだことはない。
自分の服すら今は畳んでもらっているから、比較も何もあったもんじゃないかもしれないけど。

「でも、春歌ちゃんは、僕の服、畳んだことあるんじゃない?」
「ええ。ですけどあまりありませんわ。兄君さまの洗濯物は、いつも取り合いになっていますから」
「そ、そう……」

どうやらそういうことらしい。
あまり我が侭を言わない春歌ちゃんのことだから、他の妹達にいつも譲ってしまうんだろう。
この事実を知ると尚更、今だけは彼女の我が侭を聞いてあげようという気持ちになった。

「夢、とは申しませんけど……」
「うん?」
「わたくし、少しだけ、幸せです……」

満面の笑みとは言えない、穏やかな笑顔。
でも、僕はこの笑顔を大事にしたい。

「そっか……」
「今度また、お願いしても構いませんか?」
「そんなことくらい、いくらでも」
「よかった……」

胸のところで両手を合わせて喜んでいる。
僕にとっては取るに足りないことでも、妹達にはそうでないことが沢山ある。
これも、そのうちのひとつだ。
発見する度に僕は驚き、そして納得させられる。
今日は春歌ちゃんの今まで知らなかった一面を見ることが出来た。
これからももっともっと、僕は妹達のことを知って行きたい。

「あの、兄君さま……」
「なに?」
「少しだけ、目を瞑っていただけませんか?」
「えっ?」
「別に、変なことは致しません。少し、恥ずかしいので……」
「あ、ああ……」

言われた通り、僕はそっと目を閉じる。
視界が閉ざされると、ドキドキは更に増して行く。

「兄君さま……」

僕の胸に何かが触れた。
これは春歌ちゃんだろうけど……。

「あ、あの……」
「今、頬を寄せています。くすぐったいですか?」
「い、いや……」

頬と、そして髪の毛と。
くすぐったいかと問われればそうかもしれないけど、今はくすぐったくないことにしておいた。

「目、開けてもいいかな?」
「ええ……」

胸のところから返事が返る。
僕は春歌ちゃんの許しを得て、目を開いた。

「春歌ちゃん……」

僕の胸に、頬を寄せている。
春歌ちゃんの言葉の通りだった。
でも、言葉以上のものを、僕は感じている。
春歌ちゃんはいいと言ったけど、僕は目を閉じたままの方がよかったのかもしれない。

「腕、回します……」
「うん……」

行き場をなくしていた腕が、僕の背中に回される。
春歌ちゃんの視線は僕に向いていなかったけど、心は僕に向いていた。

「兄君さまも……お願い出来ますか?」
「あ、うん……」
「有り難う御座います……」

僕も、春歌ちゃんの背中に腕を回す。
妹全員、一度は抱き締めたことくらいある。
でも、今の感触はそれとは全く別のもので、僕のドキドキはどんどん加速して行った。

「兄君さまの心臓の音……」
「ご、ごめん、うるさい?」
「いいえ、そんなことありませんわ。元気のいいドキドキで、わたくしも嬉しいです」

そう言われると、何だか気恥ずかしい。
でも、喜んでもらえることは純粋に嬉しくて、僕は軽く目を細めた。



「あの……」
「うん?」

少しだけこうしていて。
顔の見えない春歌ちゃんが僕に切り出す。

「強く、抱き締めて欲しいんです……」
「えっ?」
「駄目、でしょうか、兄君さま?」
「い、いや、そんなことはないけど……」
「わたくしも、兄君さまのこと、抱き締めます。強く、強く、精一杯、わたくしに出来る限り……」

そう言って、春歌ちゃんは回していた腕の力を強めた。
とは言っても、言葉のままの全力じゃない。
でも、抱き締めるなら、これ以上は無理なんだろう。
誰かを抱き締めることって、多分、そういうことなんだと思う。

「春歌ちゃん……」

僕も、僕の出来る限りで彼女を抱き締めた。
多分、ちょっと強すぎるくらい。
でも、春歌ちゃんはこれを求めてるんだろう。

「苦しかったら言ってね。結構、力入れてるから」
「は、はい……」

少しだけ、苦しそうな声。
でも、苦しいとは言わない。
何となく、春歌ちゃんは絶対に自分から苦しいなんて言わないだろうと感じていた。

「兄君さまも……苦しくなったら……」
「うん……」

これがきっと、彼女のサイン。
苦しくなくとも、僕がそう言えばおしまいになる。
そんなさり気ない気遣いが、僕は嬉しかった。



「春歌ちゃん、もう……」
「はい……」

暫し抱き締め合って、頃合を見て僕は春歌ちゃんに告げた。
でも、返事はあっても緩められる気配はない。

「春歌ちゃん?」
「……はい、ごめんなさい、兄君さま……」

しぶしぶと、背中に回された腕が解かれた。
僕も力を緩めて春歌ちゃんを放す。

「ごめんね、気持ちはわかるけど……」
「いえ……」

春歌ちゃんの言葉は少ない。
でも、ここで必死に謝られるよりよかった。

「もう、これで気は済んだ?」
「…………」
「春歌ちゃん?」

返事はない。
視線も、さり気なく逸らされている。

「もう、夜も遅いし……」
「わ、わたくしはっ!」
「ん?」
「わたくしは、別に、時間なんて……」

春歌ちゃんも、わからない訳じゃない。
それとは別次元の何かがあることもまた、よくわかっている。
でも、彼女はそれを素直に口に出せないで、辛そうに唇を噛みながら俯いていた。

「別に……いいんじゃないかな?」
「……兄君さま?」
「今日だけは我が侭、聞いてあげるよ。だから、遠慮なんてしないで」

僕と二人きりになっても、春歌ちゃんは我が侭が言えなかった。
多分、他の妹達の我が侭っぷりを見て、いつも羨ましく思っていたんだろう。
でも、彼女の性格がそれを許さない。
それなら、僕の方から春歌ちゃんの我が侭を求めるしかない。
なんたって、僕は春歌ちゃんの、自慢の兄なんだから……。

「あ、兄君さま、わたくし……」
「妹は、兄貴に甘えるもんだよ。違う?」
「い、いえ……」
「別に僕は、迷惑になんて思わないから……」

きっと、これが春歌ちゃんの悩みなんだろう。
彼女には自分で作った枷が沢山あって、それが彼女自身を縛っている。
それは至って普通のことで、誰しも多かれ少なかれそういうところがあって、そして、自分を律することの出来る彼女を、僕は純粋に偉いと思っていた。
春歌ちゃん自身も、そんな自分を愛しているし、誇りにも思っている。
でも、時にはそれを煩わしく感じることもあるはず。
そんな時は、僕が彼女の枷を外してあげればいい。
それが春歌ちゃんにとって、僕の兄としての存在意義なんだろう。

「兄君さまっ!」

枷がひとつ、消えて行く。

「わたくし、わたくしっ!」

そして、僕はそれを優しく受け止める。
これくらい、僕にとっては我が侭のうちには入らない。
でも、これが春歌ちゃんの我が侭だった。

「春歌ちゃん……」

春歌ちゃんは全力で僕にぶつかって来る。
もしかしたら、泣いているかもしれない。
でも、それを問うのは野暮な話で、今はただ抱き締めてあげればいい。



「あ、あの……」

しばらくして、昂ぶりも治まったのか、僕の胸元で小さく声が響いた。

「うん?」
「申し訳ありませんでした、その、少し、興奮してしまいまして……」
「いいよ、別に。春歌ちゃんの新しい一面が見られたしね」
「あ、兄君さまっ!」

がばっと顔を上げる。
驚いた春歌ちゃんの顔には、少しだけ涙の跡があった。

「うんうん、笑っていた方がいいよ、そんな風にね」
「え、あっ……」

涙の後には笑いが。
それが理想だった。

「もう、気は済んだ?」
「え、ええと……」

二度目の問い。
でも、さっきのものとは違う。

「あ、あの……もう少しだけ……我が侭、申し上げても構いませんか?」
「いいよ、いくらでも。僕に出来ることならね」

至って自然に、笑って答えてあげる。
自然に振る舞うことが、春歌ちゃんの緊張を解きほぐすはずだ。

「有り難う御座います、兄君さまっ!」

ぺこりと頭を下げてくる。
そしてまた、髪の毛が揺れる。
滑稽ではないけれど、微笑ましい光景だ。

「あの……でしたら次は……」
「うん?」
「そのっ、下を……」
「下?」
「は、はいっ!」

声が裏返っている。
自分の申し出がどういうことなのか、理解して言っている証だ。

「その、春歌ちゃん、それってどういうことだか……」
「も、勿論です、兄君さま」
「だったら……」
「駄目、ですか?」

上目遣いで訊ねてくる。
我が侭を言っても構わないと言ったのは僕の方だけど、こればかりはちょっと返答に困った。

「それは……」
「駄目、ですよね。当然だと思います。申し上げたわたくしが愚かでした。兄君さま、どうかお忘れになって……」
「いや……」
「えっ?」

驚く顔。
僕はそんな春歌ちゃんの目を見つめて、はっきりと言った。

「一緒にお風呂に入ってるつもりにでも……そういうことなんだろ?」
「あ……」
「我慢するよ、春歌ちゃんのために」
「兄君さま……」

兄はただ、妹のために。
それも大事に想ってるなら尚更だ。
ちょっとくらい恥ずかしくたって、我慢すればどうってことはない。
今はそれよりも大事に思えることがある。
それと比べれば、些細なことだった。

「あの……本当に宜しいんですか?」
「兄に二言はないよ」
「でも……」
「それとも春歌ちゃんは、僕のことが信じられない?」
「そ、そんなことはっ!」
「だったら気にしない。ねっ?」

くすりと笑って見せる。
これからのことを思えば笑ってなどいられないはずなのに、不思議と笑顔がこぼれた。

「わたくし……兄君さまの妹でいられて……幸せです……」
「うん……」

もう、涙は要らない。
それがたとえ嬉し涙であっても、やっぱり妹にはいつも笑顔でいて欲しい。

「有り難う御座います、兄君さま……」

そう、こんな笑顔。
僕はこの笑顔が見たかったんだ。
妹の笑顔を守るためなら、僕はどんなことでも耐えてみよう。
春歌ちゃんの目尻にそっと指を伸ばしながら、僕はそう思っていた。



「そ、その……兄君さま、失礼致します……」
「う、うん……」

震える指先が近付いてくる。
僕は心を鎮めるため、目を閉じることにした。

「では……」

ベルトの音。
ジッパーを下げる音。
それは耳慣れた音なのに、ドキドキは一向に静まる気配を見せず、激しさを増して行く。

「あの、腰を……上げていただけますか?」

無言で腰を上げる。
見えていなくても、春歌ちゃんの手でジーンズが脱がされていく様子がよく伝わってきた。

「全部、その……」

今更だ。
僕は観念して、再度腰を上げた。

「これが……兄君さまの……」

完全に解放された。
春歌ちゃんの嘆声を耳にして、僕はそっと瞼を上げた。

「あ……」

春歌ちゃんが見つめている。
きっとそれは、初めて目にするものなんだろう。

「ごめん、ちょっと、その……」

妹に反応した訳じゃない。
でも、興奮は確かに伝わっていた。

「い、いえ……」

そう答えながらも、春歌ちゃんは目を奪われている。

「あの、そんなに見ないで……」
「ご、ごめんなさいっ、兄君さまっ!」

ぱっと顔を上げる。
瞬間、僕と春歌ちゃんの目が合った。

「あの……」
「兄君さま……」

何故か、見つめ合う。
見られている方が恥ずかしいはずなのに、こっちの方がドキドキするのはどういうことなんだろう?

「わたくしの我が侭、聞いて下さって有り難う御座います……」
「うん……」
「春歌は兄君さまのためなら、死んでも構いません……」
「気持ちだけ、有り難く受けさせてもらうよ。本当に春歌ちゃんに死なれちゃ悲しいしね」
「はいっ!」

そして、笑顔で終わる。
見つめ合った後は……僕はただ、我慢していればいい。

「あの、兄君さま、これ……」

つんつんと突ついてくる。
その度に、僕はぴくんと震えた。

「あ、済みません。あの……」
「いいよ、触っても。気になるんだろう?」
「はいっ」

恐る恐る指先が触れる。
見た目は醜悪なもので、でも、それは僕の身体の一部で。
そうでなければ、春歌ちゃんは目を背けていたかもしれない。

「うっ……」

優しく握られる。
柔らかな掌の感触で、僕は大きさを増した。

「あ、大きく……」
「ごめん」
「いえ……」

春歌ちゃんがくすりと笑う。
馴れれば面白いものでしかないんだろう。

「あの、兄君さま?」
「な、なに?」
「その、わたくし、知識としては存じ上げているのですが……」

そう言って、きゅっと握り締める。
その拍子に、更に硬度を増した。

「は、春歌ちゃん!?」
「殿方は興奮されると……その……出る、んですよね……?」
「そ、そうだけど……」
「拝見しても、構いませんか?」

真摯な瞳がそこにあった。
それは単なる知的好奇心だけなのかそうでないのか、僕にはわからない。
でも、僕の全ては春歌ちゃんに握られていて、拒むのも今更だった。

「好きに……」
「はい?」
「好きにして……いいから……」
「はいっ!」

許しを得て、春歌ちゃんはまた僕に笑顔を見せる。
それは邪念などどこにもなくて、そんな彼女の純粋さが羨ましくすら思えてしまう。

「ですけど、その……わたくし、どうすれば宜しいのですか?」
「えっ?」
「で、ですから、兄君さまに、そのっ……」

知識とは言っても、学校で習う程度のことでしかないんだろう。
僕はクスッと笑うと、春歌ちゃんに教えてあげた。

「握ったまま、上下に動かしてみて。そうすれば、そのうち出るからさ」
「は、はいっ、畏まりましたっ!」

緊張して僕に応える。
その初々しさが心地良い。
そんな余裕をかましていられる状態じゃないのに、何故か心穏やかだった。

「で、ではっ、失礼してっ」
「うん」

意気込んで袖までまくって、春歌ちゃんは僕に向かい合った。
改めて、僕のものを掌で包み込むと、言われた通りに上下に動かし始めた。

「クッ……」
「あ、痛かったですか?」
「そ、そうじゃないよ、気にせず続けて」
「は、はいっ」

妹の前で声を出すなんて情けない。
でも、これからそれ以上に情けなくなることになる。
他人には見られたくない、僕の一面だった。

「あ、あのっ、兄君さまっ?」
「な、なに、春歌ちゃん?」

手を動かしながら、僕を見て訊ねてくる。
余裕のない僕は、若干虚ろな瞳で応えた。

「あのっ、何だかそのっ、申し訳なくて……」
「気にしないで。しょうがないことだから」
「でもっ、こうして改めて考えてみると、わたくし、兄君さまにとんでもない辱めを……」

こんな状況にまでなってから言わないで欲しい。
全ては手遅れだった。

「で、ですので、そのっ……兄君さま、聞いてらっしゃいますか?」
「き、聞いてるよ。続けて」
「はいっ」

何故か春歌ちゃんは手の動きを速める。
僕が言ったのはそういうことじゃないのに……。

「ですからっ、わたくしも、兄君さまにっ!」
「えっ?」
「よくよく考えてみれば、これは不公平なことだと思うんです。ですからっ!」

そう言って、春歌ちゃんは空いていた左手を、自分の胸元に持ってくる。
そして襟に人差し指を掛けると、そのまますっと下に降ろした。

「は、春歌ちゃん?」
「わ、わたくしにも、恥ずかしく……」
「べ、別にいいって、そんなの」
「よくありませんっ!」

そう、春歌ちゃんはこういう性格だった。
多分、僕が何を言っても、こうなったら聞かないだろう。

「兄君さまも、好きになさって下さい。そのっ、あまり大きくはありませんが……」

開きかけた胸元。
春歌ちゃんは僕の手を取って引き寄せた。

「これも、勉強ですからっ……」

手が差し入れられる。
春歌ちゃんの膨らみが、直に伝わって来た。

「ご、ごめん……」
「謝らないで下さい。でないと……わたくしも、兄君さまに謝らなくてはいけませんから……」
「あ……」

普通に考えれば、僕達は悪いことをしていた。
だから、平等でなくてはいけない。
それは些細な問題だけど、春歌ちゃんにとっては大事な問題だった。

「好きになさって下さい。兄君さまも……わたくしで、女性の身体のことを学んで下されば……」

そう言って、春歌ちゃんは僕の手の上から自分の手を動かした。

「んんっ……」

小さな喘ぎ。
でも、それは喘ぎだった。

「はしたないとお思いにならないで下さいね、兄君さま……」
「あ、ああ」

妹は、ただの妹だと思っていた。
でも、ここにいる春歌ちゃんは、妹であり、そして女だった。
春歌ちゃんに限らず、みんなそれぞれ色んな顔を持っている。
それは当然のことなのに、僕は今までそのことに全く気付いていなかった。
僕は今、春歌ちゃんに男としての自分を見せている。
そして春歌ちゃんは代わりに僕に女としての自分を見せて……。

「…………」

口には出せなかった。
見せるべきではなかった、と。
でも、それはもう手遅れで、だからこそ、口に出したところで意味などなく、ただ春歌ちゃんを責める役にしか立たない。

「あのっ、兄君さま、おわかりになりましたか?」
「えっ?」

我に返る。
見ると、上気した顔がそこにはあった。

「こんな風にしていただければ、わたくしはそれで……」
「あ、うん……」
「お願いしますね、兄君さま」

そして手を戻す。
後には僕の手だけが残されていた。
春歌ちゃんは女としての自分を僕に委ねて、ただ、再び僕を責め始める。

「クッ……」

もう、言葉はない。
握り締める力はいつのまにか強いものに変わっていた。

「兄君さまっ!」

行動を見せない僕を叱咤する。
まだ、迷いはあった。
でも、今は迷いなど無駄以外の何物でもなく……そう、枷だった。

「……わかったよ、春歌ちゃん」

僕にも枷があった。
春歌ちゃんがそれに気付いていたかどうかはわからない。
でも、彼女の言葉は僕を桎梏から解き放つもので、僕はこれを求めていたのかもしれない。

「あっ、んんっ!」

温もりの中、僕は手を動かす。
僕と同じように、春歌ちゃんは素直に反応して切ない声を上げた。

「じ、実はわたくし、先程から……あんっ!」

既に、春歌ちゃんの先端は固く尖っていた。
声にも余裕の色はない。
手の動きにも、それは表れていた。

「うっ!」

荒々しくしごき上げられる。
春歌ちゃんらしくもない、無造作な扱い。
見上げると、彼女はぎゅっと目をつぶって、何かに耐えていた。

「は、春歌ちゃん?」
「やっ、聞かないで下さいっ!」

激しく首を左右に振る。
脚は崩され、ふくらはぎが見え隠れしていた。

「ごめんなさい、兄君さまっ、わたくしっ!」

どういうことなのか、聞かずともわかる。
でも、僕は春歌ちゃんを責めるつもりなんてなかった。

「お互い様、だよ、春歌ちゃん。クッ!」
「んああっ、兄君さまっ、早くっ!」

更に速度が増す。
春歌ちゃんはもう震えていた。

「ああっ、イヤっ! わたくしっ!」

固い先端を摘み上げる。
春歌ちゃんはこれ以上大きな声を上げないようにと、自分の指を咥えていた。

「んっ、んんっ、んふっっ!」

押し殺した喘ぎがリズミカルなものになって行く。
春歌ちゃんは脚をバタバタさせて、必死に堪えていた。

「春歌ちゃん、ぼ、僕、もう……」
「んっ、兄君さまっ、お願いしますっ!」

既に春歌ちゃんの指先は、僕の先走りで濡れていた。
でも、そんなことを確かめる余裕もなく、僕に求めている。

「ああっ、わたくし、もうっ、兄君さまっ、ダメっっ! 変に、変になってしまいますっ!」
「は、春歌ちゃんッッ!」
「あっ、イヤッ、あああっ、ああん、あっ、ああっ!!」

――そして、僕達はほぼ同時に、絶頂を迎えた。

「……んっ……はぁはぁ……」

僕も春歌ちゃんも、ぐったりとしていた。
初めて見る、女性の姿。
僕は相手が春歌ちゃんだと言うのに、妙な感慨に満たされていた。

「熱い……んですね、兄君さま……」
「え?」
「ほらっ」

見ると、春歌ちゃんは白いものを指先で弄んでいた。
が、それ以上に――

「ご、ごめん、僕っ!」

自分の出したものがどこに行くかなんて、少しも考えていなかった。
情けないことに僕が放ったものは、春歌ちゃんの顔から上半身一帯に、見事に飛び散っていた。

「謝らないで下さい、兄君さま。これは、わたくしが求めたことなんですから」

にこっと笑ってくれる。
でも、その整った顔は僕のもので彩られていた。

「で、でも……とにかく拭くよ!」
「いえ……」

春歌ちゃんは僕を遮って、また指先でそっとすくった。

「これが……兄君さまなのですね……」

不思議と春歌ちゃんは落ち着き払っていた。
無論、まだ半分肩で息をしている。
でも、さっきまでとは違った何かを感じさせるものがあった。

「ふふっ、他の皆さんが聞いたら、羨ましがられるかもしれませんね……」

そう言って、指先を口元に持って行く。
そしてちろっと舌を見せると、おもむろに舐めて見せた。

「苦いとは聞いていたのですけど……それほどでもありませんね……」

僕は唖然としながら、春歌ちゃんの様子を眺めている。
すると、彼女が僕に向かって問いかけてきた。

「兄君さま? どうかなされましたか?」
「えっ、いや、その……」
「兄君さまも、少しお試しになってみます?」
「あ、いやいやいや!」
「そうですか。残念ですわ」

春歌ちゃんはクスクス笑いながら、差し出してきた指先を引っ込める。
僕は彼女のことが、よくわからなくなって来ていた。

「あ、あのさ……」
「はい?」
「あの、何だか……その……」
「殿方のこと、ご教授いただき有り難う御座いました、兄君さま」

僕の言葉を遮ってそう言うと、丁寧にお辞儀をする。
また、僕の前で大きく髪の房が揺れた。

「春歌ちゃん……」

別に、何も変わってはいない。
そう、兄妹の絆は、変わるはずなんてなかった。

「兄君さまっ?」
「うん?」
「また、色々教えて下さいね。わたくし、まだまだ知りたいことが沢山あるんですっ」

変わらないもの。
変わらずにはいられないもの。
そんなものが色々あって、僕達は今を生きている。

「あと、ですね……」
「なに?」
「これはわたくしと兄君さま、二人だけの秘密ですよ。誰にもおっしゃらないで下さいね」

春歌ちゃんの笑顔がここにある。
僕はこの笑顔を、ずっと守り続けられるだろうか?

「わかってるって、春歌ちゃん」
「今宵のこと、わたくし、一生忘れませんわ」
「僕も……忘れられないな、これは……」

大切な思い出のひとつとして、僕は笑ってこのことを思い出す日が来るんだろうか?
少なくとも、僕はそうなることを願っている……。

「春歌は兄君さまのこと、お慕い申し上げております。ずっとずっと……」

重ねられた手。
温もりは、確かにここにあった。
そして僕は――

「春歌ちゃん……」

ただ、彼女の名を呼んだ。




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