「お嬢様。お目覚めの時間でございます」

 コクン

「それでは食堂の方にて朝食を用意してございますのでお早めにおいでくださいませ」

 コクン

 


 そうして長瀬は部屋を後にした。
 その部屋に残ったのは天蓋付きの豪華なダブルベッドと、奇麗で清潔な壁飾りと、たくさんのぬいぐるみ達と...

 シルクの寝間着を身に包み、白兎の縫ぐるみを抱え込むように抱いていた寂しそうな瞳を湛える幼い少女だった。

 彼女は見るからに大人しく清純で、そして弱さを秘めていた。あるいはそれは外見だけの事であるのかもしれないが少なくとも『ここ』にいる少女に輝きは無い。
 まるで西欧の名匠の手によってこの世に産み出された精巧にして可憐なる人形のような、そんな気配すらある。

 少女はしばらく長瀬の閉めた重厚な木の扉へ視線を張り付かせていた。そこになるか居るでもないのに決してそこから目を離そうとはしない。それは少し薄暗い室内であったために傍目からみればやはり『造り物』にしか見えない。

 それはいつまでもいつまでも続くかのようにも。

 

 

 しかしそれは劇的な変化を起こす。
 微かに聞こえた長瀬の声によって終わりを告げたのだ。

 たった一言。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


 たったその一言。

 

 その言葉を聞いた途端に少女の瞳が輝きを帯びた。
 それは表記し難いものがある。今まで焦点の定まらないように何者か他人には見えない何かを見つめ続けていたその黒い瞳が長瀬の言葉を引鉄にして一瞬に光が灯った。
 炎とは違い、光とも違う。それでも命に満ちた輝き。

 慌ててベットから身を起こそうとして羽毛に足を絡め取られて前へつんのめってしまっても、顔を打ち付けてしまって鼻の頭がヒリヒリしていても、それまで大事に抱えていた白兎を放り出しても

 ...それでも少女は父親の顔を見たかった。

 

 早く...
 早く!

 

 早くお父様をみたい!!
 お父様と話をしたい!!
 お父様に触れて欲しい!!!

 

 

 しかし...

「はっ、すぐに会社の方に行かれるのですか?お食事は...はい、承知致しました。そのように取り計らいます。...いってらっしゃいませ」



 少女の足は部屋を出ることなくただ、立ち竦んでいた。まるで彫像のように身動き一つせず。
 しばらくして床に投げたされた白兎を再び右腕で優しく抱えると、再び天蓋付きのベッドへと戻っていく。

 そうして、その瞳からは輝きがゆっくりと失われていくのである。

 それが彼女『来栖川芹香』の日常の一片だった。





「長瀬」

「これは綾香お嬢様。なにか私めに御用ですか?」


 長瀬が主人の部屋の用事を済ませ一階へ戻るべく階段を下っているその時、すこし釣り目の少女が彼の前に立ちはだかった。
 と言ってもその身長差と段差から綾香は長瀬の顔を遥か上方に見上げる形にある。
 それでも綾香は良く透った声を長瀬にぶつけた。

「御姉様はどうしていらっしゃるの?」

「芹香お嬢様はまだお部屋にいらっしゃるようですが」

 

 綾香の視線は鋭く老いの見える長瀬の身体を貫き続けている。
 長瀬はそれから逃げるでもなく抗するでもなく黙って受け止めていた。

 沈黙が始まる。
 薄暗い来栖川の屋敷は時々息が詰る時がある。


 今がそうだ。


 来栖川の二人の令嬢。姉の芹香、妹の綾香。
 長瀬がこの二人が苦手であった。
 来栖川の家に来てから20年が経とうとしている。あの時黒かった髪も今ではすっかり白くなってしまった。皺も深く刻まれ、この命ももう先が無い。

 

 自分は孔子にはなれないなと改めて実感する瞬間でもある。
 未だに自分の一端すら悟る事が出来ない。情けない事だが自分が何故今ここで主人の娘に白刃の視線を向けられているのか、未だに解からないのだから。

「...長瀬」

「はい、何でございましょう」

「長瀬は何の為にここにいるの?」


 しばらく沈黙が二人を包む。
 重苦しく、それでいて逃げられない沈黙。

「...」

「どうなの?長瀬」

「...私めは来栖川家の皆様のお世話をする為に...」


 そうしてはっとした。
 目の前の綾香の表情が正に劇的に変化したのだ。

 寂しそうに、そして責めるように長瀬に訴えかけるようなその綾香の姿。

「...もう良いわ」

 

 それだけ言って綾香は身を翻し自分の部屋へと去っていく。残された長瀬は自分でも解からないままに後悔に苛まれる事となった。
 巨大なだけでがらんとした屋敷の中、人の息吹きすら感じることの難しい空間。その中で長瀬もまたその感性を麻痺させつつあったのだろうか?

 

 彼の脳裏に一人の少女の姿が浮かぶ。
 艶やかな黒髪、長瀬の腰までもない身長、いつもパジャマ姿でウサギのぬいぐるみを抱えているその瞳はどことなく寂しい。

 

 

 芹香は一風変わった少女だった。
 来栖川家の長女という事もあり、不自由の無い生活を送っていた。少なくとも大人達はそう考えていた。芹香の周りにはぬいぐるみや洋服などありとあらゆる物が集められ、あらゆる物が買い与えられた。

 しかし、芹香自身がどう思っているのか、両親は本当のところを知る機会に恵まれなかった。


 芹香は内気な性格でもあり、あまり多くを語らない。さらに常にマイペースでいる事と来栖川家令嬢というために、どうしても他人から一線を引かれてしまう。

 

 気が付いたときにはもう遅かった。

 来栖川芹香の声は誰にも届かなくなってしまった。
 ただ機械のように頷いたり首を振るだけ。それが彼女の意思表示の総て。

 長瀬の心の中には確実に一つの気持ちがゆたっている。

 

『気持ち悪い娘だ』

 

 ただでさえ愛情の通っていない来栖川一族を良く思っていないのに、さらには血すら通っていないように喜怒哀楽を表さない人形のごとき娘が目の前に厳然と存在している。
 その気味悪さたるや長瀬の許容するところではなかった。

 しかしこれは『仕事』だ。来栖川家の世話一切を取り仕切るという執事としての…ビジネス。
 そう割り切った。

 そう。これはビジネスなんだ。自分が生きていくために仕方がなくやっていることだ。
 「あんなことがなければ」自分はもっと別な人生を歩んでいたはずなのに…

 記憶の奥底に、その想いとは別のものが漂っていることに気が付きながらも、長瀬はただ自分の境遇を呪う。かつての約束もまたおぼろげになって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…な……せり…あや…を…た…む…」

 

 

 

 

 

 

 


 結局誰もわかってくれない。
 私の事はいいとしても、どうして誰もお姉ちゃんのことをわかってくれないんだろう?
 あんなに優しかったお姉ちゃんを暗闇へと閉じ込めた大人たち。
 それが綾香には許せなかった。

 彼女にとって芹香は自慢の姉だった。
 なぜなら物心のつく前から彼女は姉の暖かさに包まれていたのだから。

 彼女にとって姉という存在は「神聖」そのものだった。
 姉こそが自分の存在を支えてくれているものだった。
 姉が自分をあらゆるものから護ってくれている。しかし、それゆえに姉は総てに心を閉ざそうとしていた。
 それが綾香にとっての唯一といっても良いほどの心配事。
 けれど大人たちはあまりにも自分勝手過ぎた。目の前のことにしか目が向いていなかった。
 芹香の存在なんて無視していた。

 

 誰も…
 誰もお姉ちゃんの事なんて目に入っていないんだ…

 だったら
 私が…

 それは幼いころから決めていた事。

 

「お姉ちゃん」

 ……

「大丈夫?」

 ……

「私がついてるからね。いつもいつも…私が一緒だから…だからそんな顔しないで。お姉ちゃんのそんな顔見たら私も悲しくなっちゃうから」

 ……コクン

「クスッ…うん、お姉ちゃんの笑顔キレイだよ。大丈夫、それにいつかお姉ちゃんのことを見てくれるヒトがきっと現れるから、ね」

 ふるふる……

「そんな事ないって、ね。私が言うんだから…それまでは私がお姉ちゃんの騎士の代わり」

 ……

「お姉ちゃん、優しすぎるんだよ。もっと言いたい事表に出したほうが良いと思う。でなきゃいつかお姉ちゃん壊れちゃうよっっ!受け入れるばっかりでいつかパーンって割れちゃうんだからっっ」

 ……

「笑わないでよ…もう、これでもお姉ちゃんのこと心配してるんだからね。ホントに…ホントに……心配してるんだから……」

 なでなで

「……」

 なでなで

「…もうっ、そうやっていつもごまかすんだから…」

 なでなで…

 

 

 

 無感情な屋敷の空虚な部屋にただ一つ小さな灯りが燈る。小さいけれど暖かい炎が。
 それが二人にとっての家族の暖かさだった。







 ふと夜眼を覚ますと年代物の古時計が時を刻む音と庭の明かりがカーテン越しに薄く差す以外に何も感じない。
 あるのはただ静けさだけ。
 何もかもが造りものめいた、冷たい世界。

「……」

 広くて、広すぎて、より孤独を感じる空間。
 眠れなくて、眠れなくなって、羊を数えているうちにいつしか自分の心臓の鼓動を数えてしまう。

 

 七時に起床。
 八時に朝食。
 九時から昼食まで昨日の復習。
 一時から三時まで英会話。
 そこから五時まで自由時間。
 夕食の七時まで家庭教師が来る。
 夕食が終われば入浴し九時には就寝。

 毎日毎日…毎日毎日……

 

 機械人形のように総てを無事にこなしていく。
 それが生きる目的のように。
 外に出る機会は制限されて、時々車の窓から眺める風景だけが『外の世界』だった。
 しかしそれは充分過ぎる「痛み」になった。

 

 自分と同じ年ぐらいの子が男性と女性のの大人に連れられて楽しそうに歩いている姿。
 それが一体どういう関係であるのか、いくら芹香であっても見当がつく。
 その度に自身を振り返る。

 私は「私」ではいけないのかな?
 私は「人形」でなきゃいけないのかな?
 私は…好きなことをしちゃいけないのかな?

 けど誰にも相談できない。
 父も母も家に帰ってくることは珍しいし、ここで働いている人たちも私が好きでいるわけじゃない。
 心が許せるのは妹だけ。それが救いだった。
 ……でもだんだん自分の心が閉じていくような気がする。この家のように自分の体温が冷たくなっていくような、そんな気が。

 ただ、総てを抱え込みながら
 ゆっくりと時が過ぎて行くのを黙って感じ続ける一生。
 それでもいい、と芹香は思う。

 どうしてとか、なぜだとか、そういうことを思う以前に、それが自然だと、感じている。
 薄暗い部屋の中の天蓋のついたベッドの上でウサギのぬいぐるみを抱えながらうずくまるように座っている芹香の心は、暗闇へと誘われて行く………

 

 

 

◇     ◆     ◇

 

 

 

 

「綾香お嬢様?なんといわれましたか?」

 綾香から発せられた突然の言葉に長瀬は驚きを隠せずにいた。
 冗談かとも思ったが、綾香の瞳は偽りのそれではないことは見ただけで判った。
 真剣で、それでいて切迫したその輝き。

 

「だから私に武道を教えて欲しいの」

「どうして私なんかに…」

「昔合気道をやっていたって聞いたから」

「その後の事は聞かれておられるのですか?どうして私が今ここにいるのかとか」

「いいえ。全部は知らないわ。ただ…怪我をして続けられなくなったって……でも私に教える事は出来るでしょ!?」

 長瀬には理解できなかった。
 どうしてそこまで一生懸命になれるのか?
 何がこの一人の少女の背中を押しているのか……

「なぜ武道をやりたいと願うのです?」

 心のうちを読まれないように穏やかな口調で綾香に問う。
 知りたいという欲求が表に出ないように、必死になって感情を押し殺しながらふとどうしてこんなに知りたいのだろうという想いが脳裏によぎる。

 そんな長瀬の心を知ってか知らずか綾香は俯き加減にしながら口を真一文字に結んでいる。
 長めの黒髪が両側から端正な顔を包み込んでしまい、表情までは掴み取り損ねた。
 沈黙こそが答えなのだと、長瀬は理解した。
 それはそうだろう。私は目の前の少女にも、今は部屋にいるだろうもう一人の少女にも『他人』として接してきたのだから。

 

「わかりました。それほどまでに願うのであれば私もお手伝いさせていただきましょう。私の出来る限りですが」

 

 とりあえずこう返事する以外に何も見出せなくなっていた。
 幼い少女の言うことだ。
 いずれ近いうちに飽きて投げ出すだろう。幼いころの決心などというものは、砂によって作り出された彫像のように脆く崩れやすいものだ。
 それまでの間、付き合うことにしよう。

 そう、長瀬は心に決めた。
 自分だけの思いこみによって。
 綾香の心のうちなど見通したかのように錯覚して。

 

「それじゃあ今から特訓して欲しいの」

「今からですか?そんなに焦らなくとも武道は逃げはしませんよ。それよりも今日はゆっくりと休んで、明日からはじめる事にしましょう」

 長瀬は諭すように綾香をなだめた。
 幼い子供特有の『我慢の出来ない』それだと思っていた。

 確かに綾香は我慢できなかったのだ。
 長瀬の考えるものとは別の意味で……

「今日からでなきゃダメなのよ……早く、早くしないと……」

 

 

『早くしないとお姉ちゃんが……』

 

 

 しかし長瀬は折れなかった。
 突然の運動は身体に想像以上の影響をもたらす。
 ゆっくりと身体を温める必要があった。
 その為には今からでは日が暮れてしまう。

「綾香お嬢様。それ以上この長瀬を困らせないでください。もう時間が遅すぎます。明日からは朝からお付き合いいたしますから、どうか今日のところはゆっくりとお休みください。明日に備えて…」

 それでも綾香は納得していない様子で長瀬を見つめている。
 長瀬もまたそれに怯む事無く整然と綾香を見下ろしていた。

 これ以上何も変化は無かった。
 結局綾香は後ろ髪を引かれる思いで自分の部屋へと帰っていく。
 その後姿を長瀬はただ見つめていた。
 どうしてそんなに一生懸命になれるのか?
 何が彼女を突き動かしたのか?

 長瀬には何もわからなかった。

 

 

 

 

◇     ◆     ◇

 

 

 

 

 

 夢を見た。
 昔の夢だ。

 四方から歓声が上がる。
 いろんな声が入り混じって自分の胴着を激しく叩いた。
 正面には自分よりも三回りは大きい筋肉質で角刈りの男が岩山の様にそびえている。
 その眼光はおそらくこの自分の身体を貫いているのだろう。
 ゆっくりと大きく空気を吸い込み、一拍置いてから肺から吐き出す。
 そして、正面を見据えた。


 審判の息遣いが脳を刺激する。
 発せられる声を今か今かと待っていた。

『はじめっっ』

 同時に歓声が会場を包み込んでゆく……




「今日も勝ったね、おめでとう」

「ああ、どうにかね」

「君の実力だよ。もう少し自分に自信をもったほうが良いと思うけどな」

「そんなことはない。この国は広いし、世界はもっと広い。俺なんかが敵わない相手なんていくらでもいるさ」

 

 そう言って柔らかな笑みを浮かべる。
 その青年と知り合ったのは大学に入ってからだ。
 徐々に学内の雰囲気がキナくさくなりつつある中にあって、その青年だけは無縁であるらしく、穏やかな空気に包まれていた。
 そんな彼と自分が友という絆で結ばれている事に、時々不思議なものを感じてしまうこともあったりする。

 

「そうなのかな?君は誰よりも強いように僕には思えるけど」

「強くなんかないさ。もっと腕を磨かないと、井の中の蛙だけにはなりたくないんだ」

「……力だけが強さじゃないと、思うけれど…」

「でも強くなければ試合には勝てない」

 

 その言葉に彼は何も答えなかった。




 あれから…
 もう38年……


 自分はここにいる。

 一度は捨てた武道を、今教えようとしている。

 

 

 

 

◇     ◆     ◇

 

 

 

 

 

「おはようございます、芹香お嬢様」

 コクン。

 

 相変わらず芹香は言葉を発しない。
 ただその愛らしい頭を動かすだけ。

 

「朝食の用意が出来ておりますので、広間の方へおいでくださいませ」

 コクン。

 

 小さいころから変わる事無く今日に至る。
 長瀬もこれが普通なのだと考えてから既に久しく、この状況にも慣れてしまった。
 必要最低限の事だけを伝え、そして返事を求める。返事も「Yes」か「No」かで良いように文言も多少の工夫を加えた。

 

「今日は来客がある予定がございます。それに伴って晩餐会が催される予定ですのでご準備頂きますようお願いいたします」

 ………

 

 今日もいつものように用件だけを伝え、返事を待った。
 しかし、今日は今までとは違った。
 芹香の頭は上下にも左右にも動かずに、じっと長瀬の顔を見つめている。

 

「いかがされたのですか?芹香お嬢様」

 ………

「身体の具合でも悪いのですか?でしたら医師に見てもらいま…」

 その言葉を遮るように芹香の首は左右に振られる。
 肩よりも長い髪が中にたなびいた。
 じっと見つめる芹香の瞳はいつもよりもずっと深い漆黒で私を捕らえて離さない。

 しかしどうしてそんな態度に出たのか私には判らなかった。
 うめくような言葉を投げかける。

「では何か都合の悪い事でもあるのですか?」

 …………

 声が聞こえた。
 それはとても小さくて意識を集中させないと聞き取れないほどのものだった。
 一瞬どこから発せられたのか、或いは気のせいだったのかと思ったが、芹香の切迫したその表情から彼女のものだと判った。
 耳を形の良い彼女の唇の近くに運ひ、その言葉を待つ。

 

「…今日は…お父様とお母様は……来てくれるの?」

 

 思わず頭を上げて幼い芹香の顔を見遣った。
 その表情は今にも泣き出しそうな、どこにでもいる一人の少女の顔だった。


 衝撃を受けた。
 今まで50年以上生きてきて、これほどまでの驚愕は無かった。
 目の前にいる芹香も、世間にいる普通の少女たちと同じなのだと、今ごろになって思い知らされたのだ。

 芹香の表情は自分の問いに対する答えを求めている。
 しかしそれに対する明確な答えを長瀬は持ち合わせていなかった。
 長瀬自身も芹香の両親がその晩餐会に出席するかどうか掴みかねていた。今のところ出席の方向で動いているようだが、ついどう転ぶか判らない。

 

「今のところ御見えになる予定です」

 

 そうとしか答えられなかった。
 そして、その言葉を聞いた芹香の表情を見て、ひどく胸を締め付けられた。

 微笑んだのだ。

 今まで一度として表情を見せなかった、芹香が。
 それ以上の幸せがないかのように、心から。

 長瀬はもう、何も言えなかった。
 一刻も早くその場から立ち去りたかった。
 それが一時の逃げであるのをわかった上で、そうせずにはいられなかった。

 

 

◇     ◆     ◇

 

 

 

「今日晩餐会があるって本当?」

 組手の練習を終えて休憩している時に、綾香は白い肌に浮かぶ玉のような汗をぬぐいながら長瀬に尋ねた。
 すぐに飽きるだろうと鷹を括っていた長瀬だったが、綾香の想像以上の頑張りと、その中に煌く輝きを見つけて以来、熱心に指導するようになっていた。
 その成果はわずか3週間という短期間の間であっても如実に現れ始めている。

 そんな中での突然の質問に長瀬は戸惑った。
 既に頭に白いものが目立つようになっている年齢であるにも関わらず、動揺を隠せずにいた。
 それは今朝の芹香と目の前にいる綾香の姿が重なったせいでもある。

 

「ええ、本当ですよ」

「…そう……お姉ちゃんは何か言っていた?」

 

 一瞬考え込んでからおもむろに口を開いた綾香の表情は何時に無く真剣だった。
 その姿に気圧される。

 

「旦那様と奥様が御見えになるのかどうかを心配されていましたが…」

「……そう」

 

 それっきり綾香はその事について何も言わなかった。
 次に発した言葉は練習の再開を促すものだった。
 何かに急かされるように、綾香は長瀬の背中を押した。






 その日の夜の事を長瀬は忘れる事が出来なかった。
 晩餐会の会場に佇む芹香の姿。
 淡いピンクのドレスを身にまとって、綺麗に着飾っている。
 それは長瀬が見た事がないほどに美しさを漂わせていた。

 しかしその表情は悲しみにうちひしがれていた。
 今にも泣き出しそうに、瞳を潤ませて口を真一文字に結んでいる。
 そんな芹香に綾香が駆け寄っていく。
 綾香も赤いワンピースを見事に着こなしているが、芹香ほどに思いつめての事ではないことは誰にもわかる。
 露わになっている芹香の肩に思わず手が伸びる。


「お姉ちゃん」

 しかし芹香の頭は項垂れたままピクリとも動かない。

「そんなに落ち込まなくたって……今日はお姉ちゃんの誕生日だってパパたちもわかってるよ。ただ都合が付かなかっただけで、明日になればきっと来てくれるから…ね、元気出してよ……お願いだから」

 励ましに行った綾香のほうが泣き出してしまい、長瀬は慌てて二人の元に駆け寄った。
 辺りには大勢の客たちがその光景に唖然としている。一部からはひそひそとした話し声ももれ聞こえるようになっている。
 これ以上好奇の目に晒すのは、偲び難かった。

「お嬢様方、今のところはお部屋のほうにお戻りになったほうが……」

 なだめるように綾香の肩を叩こうとした時、目の前を黒いものが横切った。
 気が付けば今まで俯いていた綾香の顔が目の前にある。
 それは、悲しみと怒りがごちゃ混ぜになったような激しい表情だ。

 綾香は激昂した。

 

「どうして?どうしてこうなるの?お姉ちゃんはパパにもママにも、誰にも祝ってもらえないの?望んでも、誰にも叶えてもらえないの?…ただ一緒にいたいって、そう思う事もいけないの?ねぇ長瀬っっ、答えてよっっっ!!」

 

 涙を流しながら、それでも訴えかける綾香を前に、長瀬はただたじろぎ一、二歩後ずさった。
 何も言えるわけがない。
 執事でしかない私に。

 所詮自分は雇われ人に過ぎない。

 そんな自分に一体何ができるというのか?




 なおも詰め寄ろうとする綾香を不意に芹香が引きとめた。
 何も言わず、相変わらず俯いたままだったが、その右手は綾香のワンピースの端を掴んでいる。

「お姉ちゃん」

 ふるふる。

 

 綾香の言葉に首を振って答える。
 芹香が何を言いたいのか、何を思っているのか、それは判らない。
 けれどこれ以上綾香と長瀬がいがみ合うのは見たくないのだという事はいたいほどに判った。

「ごめんね、お姉ちゃん」

 その言葉にもう一度首を横にふるふると振る。







 しかし、その日の夜。
 部屋に帰った芹香は翌日になってもその扉を開こうとはしなかった。

 いくら呼んでも返事どころか反応すらない。
 部屋への押し扉は何かで固定されているらしく、びくともしない。
 芹香をそのように…重い家具などを扉の前へ運ばせるほどの…仕向けたものはなんであるのか、理解できたのはたった二人であり、その二人すら何も出来ずにただ立ちすくむだけだった。

 

 

 

 

◇     ◆     ◇

 

 

 夢を見た。
 病院らしきベッドの傍に自分は立っていた。
 そこには一人の男が横たわっている。
 まだ若いその身体からはいくつものチューブが機械に向かって生えている。

「大丈夫か?」

 自分はそう問いかける。
 すると弱々しい声が空気を震わせた。

「ふふっ、人間って思ったよりも弱いものなんだよ。あっないほどに壊れてしまう。……僕も例外じゃないさ」

「何を言ってる。そんな弱気では治るものも治らんぞ」

「自分の死期は自分で解ってるつもりさ。もう、そんなに長くは持たない。……君にお願いがあるんだけど、良いかな?」

「なんだ。できるだけのことはやってやる。…だから、もうダメだとかそんなことは言わないでくれ」

 

 男はゆっくりとぜんまい仕掛けのように笑みを浮かべた。

「ありがとう。……僕の孫たちを……芹香と綾香のことを……頼むよ」

「……俺に何が出来る?怪我で動かなくなったこの身体じゃ守ってやる事は出来ないんだ。一体どうやって…」

「守らなくても…いい。ただ、見守ってやって欲しい…二人が無事に育ってさえくれれば…」

「…判った。判ったから…な…だから…」

「……良かった……」

「……」

「ながせ…せりか、と、あやかを、たのむ」

 

 

 男はその二日後に息を引き取った。

 

 出ると思っていた涙は、とうとう出なかった。
 初めて涙が出たのは葬式で男の遺影を見たときだった。









 自分は今まで何をしていたのだろう。
 そうだ、そうだった。
 今まで忘れていた。
 何が『雇われ人』だ、何が関係ないだ。
 自分で自分が情けなくなった。

 そして、今暗い部屋の中に閉じこもっている少女の事に思いを馳せる。
 もし、今ここで彼女を救わなければ、きっと取り返しのつかないことになる。
 これ以上あの無垢な心を傷つけてはいけない。

 そう、ようやく決心した。

 

 

◇     ◆     ◇

 

 

 その部屋はまさに闇に包まれていた。
 電気もつけず、カーテンは閉じられ、少女は天蓋のついたベッドの上で掛け布団をかぶっていた。
 暗闇の中の暗闇で少女は扉を閉じようとしている。

 ただ『おめでとう』って言って欲しかっただけだったのに。
 ただ傍にいて欲しかっただけなのに。

 それも許されない世界。



 目も耳も総てを塞いでいた。
 だから知る余地もなかった。
 ベランダの窓がゆっくりと開いて、人影が入り込んだのを。

 その影はしばらくベットの方を見つめていた。
 ただ、ただ、じっと見つめていた。
 身動きもしないその膨らみへ、歩を進める。


「芹香お嬢様」

 その人影はそう音を発した。
 一瞬びくりとして、芹香は掛け布団の端から隠れ見るかのように視線をやった。
 そこに居たのは黒みがかった見慣れた執事の姿があった。

「芹香お嬢様」

 しかし何も答えない。
 どうして彼がここに居るのか、それすらも判らない。

 

「寂しゅうございましたでしょう。悲しゅうございましたでしょう……それにすら気付かずに、私はお嬢様を見捨てつづけていたのですね。なんとお詫びしていいのか…」

 

 いつも寡黙であったはずの執事の口から次々と言葉が紡がれ、芹香を取り巻いていく。

 

「小さい時から、それこそ物心つく前からお世話をさせていただいているのに、他人の事だと心の壁を築き、お嬢様の苦しんでいる姿を見なかったのです。お嬢様の御優しい心を知っているのにそれが傷つくのを見逃した。きっと万死に値する事でしょう」

 

 芹香は驚いた。
 あの長瀬が泣いているのだ。
 思わず掴んでいた掛け布団の端を離してしまった。
 布団がベッドに落ちて山を作る。

 長瀬の視線に吸い込まれていく様に身を乗り出す。

 

「…お嬢様」

 

 一拍の呼吸がいつもより長く感じた。

 

 

「昔、私も総てに絶望した事があります。それまで続けていたのもがあっけなく崩れ去って、まるで何も残らないように、そう思えたのです。けれどそんな私を窘めてくれた人がいます。誰だと思いますか?」

 長瀬の突然の問いに芹香はただ首を傾げた。
 諭すように長瀬は続けた。

「お嬢様の御祖父様に当たる方です。私は学生のころに友誼を交わしておりました。…その恩を返す為にここにおりました。それさえ済ましてしまえば、いつかここを去ろうとも。けれども、もうそんな事はどうでもいいのです。芹香お嬢様、どうかそんなお姿をお見せにならないでください。お嬢様の苦しまれておられる姿など見たくないのです」

 長瀬の力強い手が芹香の身体を優しく包み込んだ。

「お嬢様、もしもまだ遅くないのなら、私が何時までもお傍におります。私がお守りいたします。お嬢様が悲しまれないように……」

 ………

 

 長瀬の耳元で芹香の唇が綻ぶ。

「…ほんとうに?」

「ええ、本当ですとも。いつでもこの私が芹香お嬢様のお傍におります。もう寂しい事などもうないのです。ですから、…微笑んでください」

「…長瀬…さん…」

「……違います、昔の長瀬はもういなくなりました。ここにいるのは…そう、セバスチャンです」

「セバスチャン?」

「ええ、そうです。このセバスチャン、全身全霊を込めてお嬢様をお守りいたします……その前に…」

 小さな身体を包み込んでいたその両手を離すと、後ろに隠していたものを芹香に差し出した。

 

 

 

「お誕生日おめでとうございます」

 

 

 

 その時。
 芹香は初めて『嬉しい』と感じた。
 嬉しくて、とても嬉しくて、涙が頬を伝った。

 

 

 

 

◇     ◆     ◇

 

 

 

 

 

「お嬢様ぁ、そちらに行かれては危険ですぞぉ〜」

 

 遠くで長瀬の声が響いている。
 芹香の隣には綾香が手を繋いで笑っていた。

 

「良かった、お姉ちゃん笑ってくれて」

 ……

「でも声が小さいのは相変わらずだね」

 しゅん…

「ちがうよっ、悪いなんて言ってないよっっ…でもさ…」

 …なでなで

「もうっ、お姉ちゃんってば……」

 なでなで

「……ねぇ、お姉ちゃん……今はお姉ちゃんの傍にはセバスチャンしかいないけど、きっとそのうちお姉ちゃんの傍にいてくれる人が現れると思うんだ。お姉ちゃんの全部を受け止めてくれる人、お姉ちゃんをやさしく包み込んでくれる人……」

 ……

「いつか、きっとお姉ちゃんも判るよ……この気持ち…」

 

 

 

 

 その後。
 綾香の言葉を真に受けて、オカルトを使って両親を呼び戻す事に成功して以来、魔術にはまってしまうという紆余曲折を経ながら……

 

 

 

 

 『彼』に出会うのは10年後のこと。

 

 

 

−Ende−




素晴らしい作品を下さった作者の螺旋迷宮さんに感想を是非。
螺旋迷宮さんのHPはここ:SPIRAL LABYRINTH

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