赤い月


夜空の月が血の色に染まる時、そは凶兆の証なり
人々は逃げ惑い、犬は遠吠えをあげる
生き物のようにどろりとした生暖かい風が吹き、疫病の嵐が吹き荒れる・・・・



私はそこまで読むと、ため息をひとつついて本を閉じた・・・

本の題名は「赤い月」。この前何気なく図書館で借りた本。
このところいろいろあって、この本をずっと手を付けていなかった。
そして今日、はじめてページをめくった。

そもそも、この本を借りたのは、碇君の言葉だった。

「綾波って、月が似合うよね。」

私はこの言葉で「月」というものに興味を持った・・・・

夜空に浮かぶ月。
青白く輝きを放つ月。
碇君が、私に似合うと言ってくれた、月・・・・

私はそれまで全く気にも止めていなかった月というものを、はじめて意識する
ようになった。

碇君は、何を見て私と月を結び付けたのだろう・・・?

私はそれが分かれば、もっと碇君と一つになれるような気がしていた。
そして、毎晩のように、独り家にいる時は、月を眺めに外に出ていった。
しかし、いくら見ても私には何もわからなかった・・・・

そして今日、この本を読んでいる。
赤い月。不吉な月。
なぜか偶然にも、今日の月はまさに本で表したがごとく、血の色に染まってい
た。

私はわざわざ外へは見に行かなかったが、この家にある唯一の窓、換気のため
だけに付けられたかのような、小さな汚れた窓・・・・
その窓に、真っ赤な月が顔を覗かせていた。
私はつい、それにひきつけられて、赤い月の見える窓に近づく。
そして、今までほとんど開かれたことの無かったその窓を、ゆっくりと開く・・・

私はその月を見ると、急に恐ろしいまでの不安に駆られて、両腕で自分の身体
をかき抱いた。何が私をそうさせたのか、果たして本のせいなのかは分からな
かったが、私は独り、震えていた。

碇君に会いたい・・・そして私を抱きしめて欲しい・・・・

急にそんな感情が私の中に湧き上がって来た。
しかし、碇君はここにはいない。ここにいるのは、私ただひとり。

そうあきらめかけながら、全てを忘れるために眠りにつこうとすると、ひとつ
のものが目に入った。それは自分からは使ったことのない、携帯電話だった。

碇君の携帯電話の電話番号は、以前聞いた事があった。私はいつの日か碇君に
かけられる日が来ると思って、その番号を頭の中に仕舞い込んでいた。それは
かなり前の出来事だったが、私には忘れることの出来ない番号だった。

思わず私はその携帯電話を手に取る。
しかし、碇君にかけることは出来なかった。
碇君の迷惑になるから。
私が電話すれば、碇君が困るだけだから。
そして、私が一度かけてしまうと、もうかけずにはいれなくなってしまうだろ
うから・・・・・

しかし、不安を掻き立てる夜に、一人でいるのはたまらなく辛かった。
私はそれまで、そう感じたことは一度も無かった。
そう、私のそれまでの人生は空虚なものだったから・・・・

でも、今の私は違う。
それは碇君のおかげ。
私は碇君のおかげで、人の感情を持つことが出来た。
そして、私はそれを持つようになって、いろいろな喜びを覚えた。
碇君に声をかけてもらうこと。
碇君に微笑みかけてもらうこと。
そして、碇君に抱きしめてもらうこと・・・・

でも、私の得たものは、そんな気持ちのいいものだけではなかった。
碇君が他の人を見る時に感じる、嫉妬。
碇君が私に声をかけてくれない時に感じる、不安。
そして、私が碇君と離れて一人でいる時に感じる、寂しさ・・・・

特に、毎晩私が感じなければならない寂しさは、言葉に言い表せないものがあ
った。私は碇君のことを想い、私の側にいないことを寂しく思う。
それは私にはどうにもならないものなだけに、一層切なく、辛いものに感じた。

そして私はとうとう、碇君のもとに、電話をかけてしまった。

プルルルル、プルルルル・・・・

私は不安に駆られて、碇君が出るのも待たずに電話を切ってしまった。

もし、碇君が出なかったらどうしよう。
碇君が迷惑に思ったらどうしよう。
碇君が、あの人と一緒にいるところだったらどうしよう・・・・

私は碇君といつも一緒にいるあの人、赤い髪の女のことを思い浮かべた。
碇君は明らかにあの女に好意を持っている。それは私にも分かる。
そして、最近碇君はあの女にひかれつつある。それも私には分かる。
碇君と同じ屋根の下で暮らすだけでうらやましいというのに、碇君の心まで奪
って行こうとするなんて・・・・
私は碇君しか見てないのに、碇君は私だけを見てくれるというわけではない。
私の心はばらばらになっていた。
碇君のことを考えるだけで、頭がどうにかなってしまう。
それは心地よい時もあったが、たいていは苦しいものだった。
洞木さん、あの人はそれを「恋の苦しみ」と言っていた。
恋?それは何?でも、今の私には、なんとなく分かるような気がする。
人はみな、それを感じているのだろうか?
それを感じていて、平気なのだろうか?
私には我慢できない。この、身体を焼き尽くすような苦しみには・・・・

私はこらえかねて、再び電話を取る。そして碇君のところに・・・・

プルルルル、プルルルル・・・・

碇君の声が聞きたい。
碇君を感じたい。
碇君とひとつになりたい・・・・

『はいもしもし、碇ですが。』

碇君!!
碇君の声が、私のもとに届く。
私は碇君の声を聞いたとたんに、何も言えなくなってしまった。

『もしもし?どなたですか?』
「・・・・」
『おかしいなあ?いたずらかなあ?』

碇君が電話を切ってしまう!!
そして私はまた独りになるの!?

私はそれが恐くて、ただ一言、電話の向こうの碇君に叫んだ。

「い・・・碇君!!」
『あ、綾波!?綾波なの!?』

碇君は私に気付いた!!
私のたった一言の言葉だけで!!

私は喜びのあまり、思わず碇君に言葉を返していた。

「い、碇君・・・?」
『綾波?綾波なんだろ?』
「うん・・・・」
『どうしたの、こんな時間に?』
「ごめんなさい、碇君・・・・」
『いや、別にいいんだけどさ・・・綾波が電話をかけてくるなんてはじめてだ
から、ちょっとどうしたのかな、と思って。』
「・・・碇君の声が、聞きたくなったから・・・・」
『そっか。じゃあ、少し話でもしようか。』
「うん・・・」
『・・・・』
「・・・・」
『綾波・・・?』
「何、碇君・・・?」
『今、何してたの?』
「月・・・」
『え!?』
「・・・月を見てたの。そうしたら、何だか不安になって・・・・」
『今日の月は何だか真っ赤で気味悪いからね。』
「うん・・・で、そうしたら、急に碇君の声が聞きたくなって・・・・・」
『そうだったんだ・・・・』
「ごめんなさい。どうしても、耐え切れなくなって・・・・」
『いいんだよ、気にしなくても。』
「・・・本当・・・・?」
『うん。そんな事で、綾波の不安が拭い去られるのなら、いつでも僕に電話し
てきてよ。僕は一向に構わないから。』
「碇君・・・・」
『こんな月を見るのは、ひとりでなくてもそうなるもんだよ。だから、綾波の
気持ちも、僕にはわかるよ。』
「ありがとう、碇君・・・・」
『月のことは忘れて、もっと楽しい話をしようよ。』
「うん・・・・」
『綾波も、元気だしてさ。』
「・・・・また今度、こんな月の夜には・・・碇君に電話してもいい?」
『いいよ、綾波・・・・』
「ありがとう、碇君・・・・」

こうして、私は碇君としばらく電話で話をした。
私は碇君に電話をかけて、本当によかったと思った。
碇君は私のわがままに付き合ってくれて、やっぱり私の碇君だった。
そしてもう、私は赤い月が恐くなくなった。
だって、赤い月の出る夜は、碇君に電話をかけてもいい日になったのだから・・・・

(終わり)


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