「おかえりなさい……」
「……ん」

仕事から帰るとまたあの少女が私を出迎える。
一体いつからこんな屈折した日常が続いているのだろう?
自分の唯一の居場所であるにも関わらず、ある種の倒錯した空気が私を包んでいた。





銀貨の恋

Written by Eiji Takashima





転勤の辞令が出たのは約半年前のことだ。
本社の中間管理職から地方の営業所を任されることになった。
地位も上がり、それに付随して給料も約1.5倍にアップした。
それでも左遷だと言う声も、当時の同僚からあがった。
だが、社命に逆らうことは出来ない。
そもそも形式的には出世であるのだから、不平不満を言える立場にもなかった。

最愛の家族を残して独り旅立つ。
美しい妻と、まだ小さな娘と、それから産まれたばかりの息子。
妻に家を任せることに不安はなかったが、それでも家族と別れるのは辛かった。
空港での最後のひとときには、滅多に涙など見せない私もつい涙してしまった。

『家族と別れたくない』
でも、それは泣き言に過ぎない。
会社からこの人事も一時的なものだと聞かされている。
ほんの1年か2年の辛抱だ。
本格的な転勤ならば、私も家族を伴ったであろう。
男ならばそれなりに堪え忍ばねばならぬ時もある。
そう割り切って、私は赴任地に赴いた。



片田舎の営業所。
とは言っても、それなりに栄えた工業中心の街。
立ち並ぶ煙突からの煙で常にもやがかかっており、薄暗い印象を与えた。
歓楽街もあまり上品なものとは言えず、専ら工場労働者が仕事帰りにくだを巻く、安っぽい酒場が軒を連ねていた。

薄汚れた街。
自然とは対照的な、人工の街。
自分や家族には相応しい場所ではないと判断し、必要以上に関わらないようにしようと決めた。
仮の住居も営業所に近いと言うのが売りの安アパート。
それでも清潔さだけは重視した部屋を選んだ。
仕事が終わるとまっすぐにアパートに帰り、食事と入浴を済ませて早めに就寝する。
まさに道楽も何もない、仕事だけの生活だった。



しかし、世の中には付き合いと言うものも存在する。
予想に反して同僚には恵まれた私だったが、彼らに私と同様の生活を押し付けるのは酷だった。
所詮私はここではかりそめの存在。
この街に生きる彼らとは違う立場だ。
だから、快く思わなくても仕事帰りに誘われれば付き合いで酒を飲んだ。
専ら酒を楽しむのは部下達の方で、私は下世話な話に相づちを打ちながら舌を湿らす程度だった。
彼らは私のことを悪く思ってはいないが、それでもある程度資金源として期待している。
しかしそれは上司としては致し方ないことなので、私も割り切って誘いに応じ、多めに金を払っていた。

妻と子供達がいる手前、女遊びだけは断ることが出来たのは、私にとっても救いだっただろう。
酒を飲んだ後、恋人のいない若い部下はそのまま遊郭に足を運ぶことも多かった。
そんな時は笑って別れ、冷たい自分の部屋に帰る。
だが、見知らぬ女の肌の温もりよりも、誰もいないアパートのベッドの冷たさの方が、私にとっては心地よかった。
自分にとっての温もりは遠くで私の帰りを待つ家族であり、それ以外のものは必要ではなかったのだ。



しかし、この街では機械人形として生きようとした私でも、時には気まぐれも起こる。
珍しく飲まされた酒の席の帰り、私が路地裏の片隅で物乞いをする少女を見掛けた時のことだ。

「…………」

うつむいたきり、何も喋らない。
しかし、膝の前に置かれた缶が、物乞いをしている証だった。
それは好奇心と呼べるような立派なものではないだろう。
だが、まだ年端も行かぬ少女の憔悴し切った頬とその瞳に惹かれ、懐の中から先程の釣り銭を放った。

「…………」

一枚の銀貨が音を立てて缶の中へと納まる。
そこで少女が銀貨を手に取って礼を言い、頭を下げればそれで終わりのはずだった。
しかし、少女の目は缶の中を見ようともせず、ただ呆然としていた。
物乞いが金を恵まれて黙っているのは、物乞いとしての仁義にも反する。
私はその娘の態度が気に障って、ひとこと声をかけた。

「……金を取らないのか?」
「………」

返事はない。
ただ、微かに動いたような気がした。

「要らないなら、返してもらうぞ。必要のない奴に金を恵む程、私も酔狂じゃない」

金の入った缶に近付くと、腰を屈めて拾おうとする。
しかし、指先が銀貨に触れた瞬間、少女のか細い声が私の耳に届いた。

「なにを……したらよろしいのですか?」

一瞬耳を疑った。
物乞いは金を恵まれても、その見返りに何かを与えたりはしない。
与えるものが何もないからこその物乞いであり、精々恵んだ相手に優越感を味わわせるだけだった。
しかし、彼女は自分が何かしなければならないと思っている。
私は咄嗟に、これはこの街特有の、女を買うシステムなのではないかと思った。

「済まない、何も知らなかったのだ。私はお前を買う気などないし、その金は好きに使ってくれるといい」

純粋に、少女が哀れだった。
この若さで自分の身を売って生計を立てているのだろう。
しかもたった銀貨一枚でも身体を許そうとしているのだ。
今の私にとって、銀貨など釣り銭程度のものだ。
それがこの少女の肉体を一晩自由にすることと等価だというのは、悲しすぎる話だった。

「でも……」
「気にすることはない。お前にとってこの銀貨は貴重でも、私にとってはそうではない。取っておけ」
「…………」

私の言葉で娘はゆるゆると手を伸ばし、銀貨を手にするとぎゅっと握り締めた。
この街の物価から言って、銀貨が一枚あればパンをかご一杯買ってもお釣が来るだろう。
明らかに、少女にとっては大金だった。
私は金を恵んでやった者の常として、それなりの満足感と共に踵を返した。
些細な善行だが、これで少女は当分救われる。
まだ大人の女と言うよりも子供と言った方がしっくり来るような少女を、屈強な男が組み敷いている姿を想像しただけで私には鳥肌が立った。
アルコールの力も手伝って、いつもは冷静沈着な私らしくもなく、世の不条理を嘆きながら私は自分のアパートに帰った。
しかし――

「……どういうつもりだ?」

薄汚れた姿。
栄養不足のせいで覚束ない足取り。
こけた頬に青みがかった唇。
気がつくと、背後にあの少女の姿があった。

「…………」
「黙っていてはわからない。どういうつもりで私の後に着いてきた、お前?」

険のある声。
子供のような女を買う男だと思われたことに腹が立った。
だが、少女はまるで叱られた犬のようにうつむいたまま黙っている。

「お前のような娘にここに居られても迷惑だ。それとも何か? 私ならもっとお前に出すとでも思ったのか?」
「…………」

青褪めた顔は変わらない。
首を横に振るでもなく、意思表示の色を全く見せようとはしなかった。
流石の私もいい加減に切れて、強い口調で少女をたしなめる。

「いい加減にしないか! さっさと自分のねぐらに帰れっ!」

少女はビクッと身を震わせた。
叱責されても動じないとまでは行かないようだ。
だが、それでも動こうとしない。
私はそれ以上に、この娘が私に目を見せようとしないことに憤りを感じ、顎を掴んで上に向けた。

「こっちを見ろ!」

……はっとした。
年端も行かぬ少女なのに、薄汚れた最下層の女郎のはずなのに、不思議な美しさを感じてしまったからだ。
そして少女も黙っていたそれまでの態度とは裏腹に、その藍の瞳は私をキッとまっすぐに見つめていた。

「ど、どういうつもりだ……?」
「……銀貨…………」
「えっ? 銀貨がどうした?」
「銀貨なんて、初めていただいたもので……」
「そんなことか」

少女の言葉に少し拍子抜けさせられた。
瞳はもっと複雑な何かを訴えているように見えたのに、口から出た台詞はどうでもよさそうなものだった。

「先程も言ったが気にするな。取っておけ」
「でも……」

少女は顎を自由にされても、まだ私を見上げている。
人間としての自尊心のカケラもなさそうな、私の一番嫌いな態度だった。

「受け取れないんだったらその辺に放り投げておけ。お前以外の誰かが拾うだろう。わかったな?」
「…………出来ません」
「じゃあ、自分のものにしておけ。簡単なことだろう?」

いい加減うんざりして、私はアパートの中に入ろうとした。
しかし――

「……どうして私の邪魔をする?」
「ご、ごめんなさい。でも……」

少女は咄嗟に私のコートの袖を掴んでいた。
汚れた手は私のコートを汚したが、それ以上に聞き分けのないこの娘に腹が立った。

「でもじゃない! いい加減にしないと警察を呼ぶぞ!」
「!!!」

警察という単語は効いた。
まるでヘビに睨まれたカエルのように身動きできなくなってしまった。
だが、それでも少女は手を離さない。

「……お前は私に何を望んでいるんだ? はっきり言ったらどうだ?」
「……わたしを一晩抱いてください」
「それがお前の仕事だからな。しかしお前を抱けば私は妻と家族を裏切ることになる。この私がどちらを優先させるか、お前にでも判るはずだ」
「でも……」
「でも、何だ?」
「このまま銀貨なんて持ち帰ったら、絶対に盗んだと思われます……」

ようやく事情が飲み込めた。
確かにこの薄汚れた少女に銀貨など不相応だ。
間違いなく盗んだ金だと思われ、有無を言わさず警察に突き出されることだろう。
そもそも物乞いや女郎など、街を管理する側にとっては悪と言ってもいい。
たとえ彼女が無罪であったとしても、まともな扱いをされるとは到底思えない。
悪い想像をすれば、不良警官にぼろぼろになるまで強姦されて放り出されると言う可能性もなくはない。
自分の善意が却って少女を苦しめるのは、いいこととは言えなかった。

「……なるほどな。お前の不安はもっともだ。しかし私はお前の身の安全のためにお前を抱くつもりはないし、あいにくと銅貨の持ち合わせはない」
「そう、ですか……」
「まあ、それでもお前をこのまま手ぶらで帰すのは忍びない。部屋にまだ手をつけていないパンがあるから、それを恵んでやろう」

私は自分でもこれが正しい解決法だと思い、アパートの鍵を開け、中へと入った。

「ええと、パンはっと……」
「そのかごの中にあります」
「そ、そうか。じゃあ……って、何故お前が中に入る?」

気がつくと、少女も私と一緒に中に入っていた。

「ドアを、閉め忘れていたもので……」
「元々閉めるつもりなんてなかった! さっとパンを取ってお前に渡すつもりだったんだ!」
「……それは済みませんでした……」

少女は小さく頭を下げる。
だが、彼女の指摘にも一理ある。
私はついかっとなってしまった自分を恥じ、それ以上何も言わずにパンを手に取るとそのまま差し出した。

「これをやろう。それから銀貨は自分で大切に持っていろ。別の客に抱かれた時に一緒に持ち帰れば誰も疑問は抱かないだろうからな」
「……はい」

半ば押し付けられるようにして、少女は私の手からパンを受け取った。

「これでもう用はないはずだ。さ、お前ももうお帰り」

少しだけ大人げなかったことを反省し、私は最後に優しく促した。
だが、少女は一向に帰ろうとする様子を見せない。

「……まだ、何か用なのか?」
「…………」
「いい加減にしてくれ。私は明日も仕事なんだ。もう眠らなければならない」
「わたしを……」
「ん? 何だ?」
「わたしを、抱いてください。そうでないと……」
「お断りだ!」
「で、でも……」
「どうしても男に抱かれたければその辺の奴にただで抱かせればいい! 私がそいつの分の代金を払ったと思えばそれでいいだろう!?」
「……わたしは……あなたに抱かれたいんです……」

正直、女の気持ちなんてわからない。
私が金持ちだと踏んでこのまま愛人にでもして欲しいのか、どうせそんなところだろうと思えた。
実際あのように通りすがりの男に身体を与えても、所詮は数日分の糧を購うことが出来る程度だ。
それよりも誰か決まった男の愛人となれば――だが、それを断るために警察を呼ぶのは、私には躊躇われた。

「わかった。さっきの銀貨でお前を一晩買おう。それで満足したか?」
「……はい。有り難う御座います」
「なら、靴を脱いで――」

そこで口を閉ざす。
少女の足には靴などなかったのだ。

「す、済まない。取り敢えず今、タオルを濡らして持ってくるからそれで足を拭け」
「…………」

私は慌てて洗面所に向かうとタオルの山から一本抜き取り、水に浸してからきつく絞った。
戻ってくると娘はさっきから少しも動いた様子もなく、私の帰りを待っていた。

「これで拭け。自分でも出来るだろう?」
「はい」

少女は濡れタオルを受け取ると、足を拭こうともせずそれをじっと見つめていた。

「どうした?」
「あ、あの……」
「何だ?」
「腰を下ろしてもよろしいでしょうか? 座らないと、あの……」
「そ、そうだったな。好きにしろ」
「済みません……」

少女は私の了承を得て、玄関先に腰を下ろした。
恐らく座ればそこも汚してしまうことだろう。
しかし、足の裏を拭かずに歩き回られるよりもマシだった。

ゆっくりと、少女が自分の足を拭いていく。
みるみるうちに純白だったタオルが黒くなり、それに反比例して薄汚れていた少女の足が元の白さを取り戻していった。

「……綺麗な足だな」

ぼそっと呟く。
だが、少女は何も聞こえなかったかのように、黙って足を拭き続けた。



「……終わりました」
「そうか。そのタオルは――」
「後で洗濯させていただきます」
「あ、ああ」

少女が足を拭き終え、そのタオルを受け取ろうとしたが、あまりの汚さに躊躇われた。
この結果から、このまま足だけ綺麗にしても仕方ないと思い、私の後に着いてくる少女に入浴を勧めた。

「お前、風呂に入って身体を洗って来い。いいな?」
「はい……」
「ん、どうした?」
「あ、あの、わたしが、あなたの、その――」
「無用だ! 風呂場はそこだから、とっとと済ませて来い!」

ピシャリと言い放つ。
少女は一瞬ビクッと身体をすくませ、私を上目遣いで確認しながら、命じられるがままに風呂場へと小走りで駆けていった。



「ふぅ……」

遠くからシャワーの音が聞こえる。
酔いは殆ど覚めていたが、妙な気分だった。

「あの娘、勘違いしているな……」

私は少女を一晩買うと言ったが、抱くつもりは一切なかった。
一体どこで覚えたのか、風呂で私に何らかのサービスをするつもりだったようだが、それこそ余計なお世話だ。

「それにしても、疲れた……」

ごろっとベッドの上に横になる。
質素なベッドだが、清潔さを重んじる私らしくシーツだけは洗い立ての真っ白なものだった。
疲れが抜けていくと同時に、肉体が体力の回復を求めて眠りに入ろうとする。
夜も更けた今、私はそのいざないに逆らうことは出来なかった。



「……ん、んん……」

陽射しの感触。
私の寝起きは人よりもいい方らしい。
レースのカーテン越しの朝日と小鳥の囀りで、いつもと同じ時間に目を覚ました。
が、いくら目覚めがいいとは言ってもすぐに完全覚醒する訳ではない。
半分寝ぼけながら、傍らに眠る妻の身体を引き寄せた。

「そろそろ起きろ。朝だぞ……ん!?」

感触が違う。
滑らかな肌触りは一緒だったが、妻に全裸で就寝する習慣はない。
それに……今ここに妻は居ないのだ。

「おい、ちょっと待て!」

がばっと布団を剥ぐ。
そこには……全裸の自分と、同じく全裸の少女が居た。
妻とは似ても似つかぬ小柄でほっそりとした身体。
胸も豊満とは程遠く、まさに膨らみ始めたばかりの薄さだった。

「おい、お前、起きろ!」

私は事態を把握し、慌てて隣で寝ていた少女を叩き起こした。

「……んんっ……」
「目を覚ませ! おい!」
「んっ……あ、お、おはようございます……」
「おはようございますじゃないだろう! これはどういうことなんだ!?」
「え、あの、ええと……」

私と比べて少女は寝起きがよくないらしい。
ぼんやりした顔で目を擦りながら、眠気を取ろうとしていた。

「目が覚めたか?」
「あ、はい……」
「では再び訊ねる。これはどういうことなんだ?」
「あ、あの、これは、お風呂から出ましたらあなたは既にお休みでしたので……」
「それはいい。ここは私の家だし、自由にする権利がある」
「では……」
「私は服を着ていたはずだ。しかもお前が裸で隣に寝ている。その理由を聞いているんだ」

私は強い口調で言う。
もしかしたら自分はとんでもないことをやらかしてしまったのではという思いが、私を必要以上に興奮させていた。

「す、済みません、あの、その……」
「私には妻も子供もいる。もしお前が私に――」
「な、なにもしていませんっ! わ、わたしはただっ、そ、添い寝をさせていただいただけで……」
「……そうか。それならいい」

脅える全裸の少女と怒鳴り声を上げる男の図。
この状態に気がつくと、私は自分の理不尽さを悟った。
私はこの娘に何も言っていなかったし、客観的に見れば私が娘の身体を金で買い、娘は金で私に身体を売ったのだ。
だから娘が私にとった行動はごく自然なもので、私が責める謂れはない。

「あ、あの……」
「用が済んだらさっさと帰ってくれ。もう朝だし、私は仕事に行かなければならない」
「そ、それは……」
「私はお前を一晩銀貨一枚で買った。裸で一緒に寝たし、もう充分だろう?」
「わたしなんて……銀貨一枚では高すぎます」

少女はどうやら不服らしい。
が、昨日の経緯を思い出した。
この娘はこのまま私の囲い者になりたいのだ。
何とか言い含めて帰らせたいところだったが、私も朝は忙しい。
面倒なことになって遅刻しては、部下への示しがつかなかった。

「いいだろう、好きにするがいい。但し、私はお前を信用していない。わかるな?」
「はい」
「お前をここに残していけば、大した物がないとは言え持ち逃げされる恐れもある」
「なら……わたしを柱にでも縛り付けておいてください。そうすればあなたが帰ってくるまで、わたしは何も出来ませんから」

少女が淀みなく言った申し出は、普通に考えればとんでもないものだった。
しかし、出社時間まで時間は刻一刻と迫っている。
もうどうでもよくなった私は、手近にあった紐を手に取ると、少女に確認した。

「いいのか?」
「……はい」
「では、手を出せ」

少女は大人しく私に従う。
私は少女を後ろ手にきつく縛り上げると、紐の反対側を適当に柱に結んでおいた。
無理矢理外そうと思えば外れそうにも見えたが、そもそも人を縛ったことなどないし、今は念入りにする時間もない。
私はこの少女のことなど適当に済ませておいて、すぐさま自分の身支度を整え始めた。
手早く着替えを済ませ、一口だけパンを頬張る。
飲み込むのに牛乳を飲もうとしたその時、大人しく存在を表明していなかった少女が声を上げた。

「あ、あのっ!」
「ん、何だ?」

邪魔に思いながらも振り返った私だったが、その時初めてこの光景の異様さに気がついた。
全裸で縛り上げられて身動きの取れない少女。
それは温かい家庭とは相反するものだった。
私が唖然としながら口の中の物を飲み込んでいると、少女は私に訴えかけてくる。

「あの、済みませんが、わたしがいただいたパン……」
「あっ……」

そう、私がいない間、少女は食事を摂ることすら出来ないのだ。
私は慌てて少女の肉付きの悪い太股の上にパンを置くと、更にコップ一杯の水も提供した。

「済まない、気がつかなかった。食べにくいと思うが、身体を曲げて食べてくれ」
「あ、有り難う御座います。それから……」
「まだ何か?」
「は、裸だと寒いのでわたしの服を……」
「わかった。今すぐ持ってくる」

少女の行動を制限しておきながら、そのために生じる不具合について少しも考えようとしなかった自分を恥じる。
私は言われるがままに彼女の衣服を取りに行くと――

「こ、これは……」

あの時着ていた服は、洗って浴室に干してあった。
それ自体は何も問題はない。
しかし、夜中に洗って朝になって乾いているはずもなく、まだ湿ったままだった。

「あ、あのっ、平気ですからっ! しばらくすれば体温で乾くと思いますし!」

私がすぐに戻ってこない理由を察したのか、少女は浴室に消えた私に向かって大きく呼びかけた。
しかし、いくらなんでもそんな無茶はさせられない。
私は手ぶらで戻ってくると、ベッドの上から毛布を引っ掴み、有無を言わさず少女の上にかぶせた。

「こっちの方がいいだろう? っと、パンは毛布の上に置くから」
「あ、あの……」

もう時間もない。
私は毛布の中に手を突っ込んで太股を探ると、パンを取って毛布の上に置き直した。

「これでいいはずだ。他には何かないか?」
「は、はい」
「ならもう時間もないし私は行く。鍵はかかってるが、大きな声は出すなよ」
「はい、わかりました」

そして全て済ませた私は、鞄を手にしてアパートを出た。
いつもよりも少し遅れている。
遅刻こそしないものの、部下よりも遅く来るのはあまりいい気分じゃなかった。



いいことなのか悪いことなのか、最近仕事は忙しい。
だからこそ、ストレスも溜まるし気晴らしもしたくなる。
定時を過ぎ、有無を言わさず残業が始まると、集中力の少ない若い連中は帰りに飲みに行く話を始めた。
私はそんな部下達を軽くたしなめながら、その日初めて、ようやく仕事以外のことに思考を傾けた。

「あ……」

思い出す、部屋で待たせている少女の姿。
朝はかなり急いでいたため深く考えなかったが、今にして思うとかなり危険な状態だ。
少女を丸一日全裸で柱に縛り付けておくなど、正気の沙汰ではない。
気もそぞろになった私は仕事にも集中出来なくなり、適当に切りをつけて会社を後にした。



「……あ、おかえりなさい……」
「只今帰った」

ぞんざいに挨拶を返すと、急いで少女の元に向かう。
私が部屋の灯りをつけると、暗闇だった場所に少女の姿が浮かび上がった。
そこで私は想像だにしなかった異様な光景に驚く。

「お、おい、お前……」

毛布はかけてやったはずだった。
しかし、その毛布は遠くに蹴飛ばされており、寒々しく裸体を晒していた。
更にそれだけではなく、少女の周辺の床が濡れている。
私は理由を尋ねようと近寄ると、彼女は大きな声で叫んだ。

「ご、ごめんなさいっ、わたしっ!」
「ど、どうしたんだ、急に? 別にコップの水をこぼしたからって――」

私はそこで台詞を飲み込む。
朝、少女に与えたコップ一杯の水は、少しも変わった様子がない。
こぼしたどころか、飲んですらいないのだ。
とすると――

「が、我慢したんですが、堪え切れなくなってしまって……」
「お、お前……」

こぼした水だと思ったそれは、少女のおしっこだった。
しかし考えてみれば是非もない。
排泄について考慮しなかった私が悪いのであり、自然の摂理に逆らおうとして逆らい切れなかったこの少女に罪はなかった。

「も、毛布を汚してはと思い、なんとか足で遠くにやったんですが、それが精一杯で……」
「…………」
「ご、ごめんなさいっ!」

少女は不自由な体勢ながらも、首を大きく動かして私に謝罪した。

「……いや、謝るのは私の方だ。済まなかった」

そして少女に歩み寄ると、彼女の汚物で濡れた床も気にせずに、私は紐を解いて自由にしてやった。

「あ、あの、靴下が……」
「替えはある。気にするな」
「でも……」
「気にするなら、お前が洗え。汚した床の掃除もだ。いいな?」
「は、はいっ!」

少女は私の言葉を聞いて、元気よく立ち上がると全裸のまま雑巾を取りに走った。
私はそんな彼女の後ろ姿を見て、複雑な気分にさせられる。
楽な部屋着に着替えながら、少女が戻るのを待っている自分の姿がそこにはあった。



「あ、あの、お食事は……」

既に危険な雰囲気は少しもなくなっていた。
少女の洗濯した服も既に乾き、今はそれを身に着けている。

「そうだな、適当に何か作ろう。肉と野菜と、それから卵とベーコンがある」
「で、ではわたしが……」
「……好きにしろ」

私は料理が得意な方ではない。
妻の作る料理を世界一だと思い、それ以上のものは望まない。
この街に来た時も、食材は週に一度まとめ買いして適当に味をつけて食べていた。
取り敢えず腹が膨れればよかったし、帰りの遅い時は外で食事を済ませることも多かった。

「あ、あの、好き嫌いとかは……」
「嫌いなものを買い置きしておく馬鹿がどこにいる?」
「そ、そうですよね。済みません」
「…………」

しかし、一日経過して、ようやくこの少女の本来の姿が見えてきた。
初めて遭遇した時は何も喋らぬ寡黙な少女だったが、割と気安い性格を見せ始めた。
少し抜けたところがあるようだが、それ以外は問題なく、私もぼんやりと少女が料理を作る様子を眺めていた。



「で、出来ました。お口に合うかどうか……」

しばらくして、私の前に素朴な家庭料理が出された。
こんな家庭料理に飢えていたこともあって、湯気の立ち上るそれは如何にも美味しそうに見えた。

「では、いただきます」

スプーンを取る。
口に運ぶ。

「ど、どうですか?」
「美味い」
「よ、よかった……」

味は普通だが、作り立てなのと空腹だったのが重なって、美味しく食べることが出来た。
別に高いクオリティを要求している訳でもないし、折角の好意を嫌がらせで返す必要もない。
私は感じたままの感想を述べ、黙々と平らげていった。

「ごちそうさま」
「で、では片付けますね」
「ああ、済まない」

そしてまた、少女は台所に立つ。
台所仕事をしている女性を見ているだけで、相手が子供のような容姿であっても落ち着くのは不思議な話だ。
しかし、仕事ばかりの殺伐とした毎日において、こういった潤いを自然と求めるのは仕方のないことで、私は自分を責めることもなく彼女の後ろ姿を眺めていた。

「ん?」

だが、あることにふと気がついて私は声を上げた。

「そう言えばお前……自分の分はどうした?」
「えっ?」

少女は手を止め、振り返る。
軽く手を振ってついた水気を切り、その後自分の服で拭った。

「お前の夕食だ。私ばかり食べていて気がつかなかったが、自分の分はいつ食べるんだ?」
「あ、ええと、わたしのは……」

口篭もって視線を逸らす。
彼女の視線の先には、食べかけのパンがあった。

「あれを食べるつもりか?」
「は、はい。後で……」
「情けないことを。別に私はお前を虐げようと思ってここに置いているのではない」
「でも……」
「私にそういう趣味はない! この目の届く範囲では却って不愉快だ!」

私はそう言い放つと、立ち上がって新しい手付かずのパンを取り、彼女の隣に立った。

「あ、あの……」
「もう夜も遅い。それに私は料理が得意な方ではないからな」

包丁を手にしてパンに切れ目を入れる。
塩気の効いたハムのブロックを大雑把にスライスし、レタスと一緒に挟み込んだ。

「これなら栄養の上でも問題はないだろう。今日はパンを少しかじっただけなんだし、これくらいは食べるんだ。いいな?」
「…………」
「どうした、ハムは嫌いか?」
「い、いえ……」
「別に気にすることはない。インテリアに気を配るようなものだと考えればいい」
「はい……」

少女はかなり躊躇っていたが、私の冷たい言葉に少し気が楽になったのか、おずおずと差し出された簡素なサンドイッチを受け取った。

「水も全く飲んでいなかったんだろう? これも飲め」

私は更にコップに牛乳を注ぐと、テーブルの上に置いた。
私が留守の時は自由にさせてやれない以上、目の届く時にはそれなりに過剰な栄養を摂取してやらないと拙い。
敢えて個人的な優しさを与えないようにしようと意識して、そう考えていた。



遅い食事は済んだ。
後は風呂に入って寝るだけだ。
私も残業続きで疲れている。
この少女の相手をしている余裕もなかった。

「風呂に入って寝る。お前も適当にしろ」

素っ気無くそう言って、私は浴室に向かった。

「え、あ、あのっ!」

少女はおろおろする。
が、私はそれを無視して風呂の準備をすることにした。
このアパートを選んだ理由の一つに、まともな風呂が完備されていたというのがある。
私は蛇口を捻り、浴槽をお湯で満たし始めると、いっぱいになるまでそこで腰を下ろしていることにした。
これが私の日課でもあり、お湯の音を聞いているだけで何故か心が休まった。

「…………」
「あ、あの、お背中――」
「不要だ。先に寝ろ」

振り返りもせずに冷たく言う。
すると少女は私の背中に告げた。

「で、ではベッドの支度をして来ます……」

そして去ろうとする。
私には彼女のその台詞が少し勘に障った。
今までの違和感が不満となって、ここで噴出したのかもしれない。
ともかく私は振り返ると、少女に向かって厳しく問い質した。

「待て、お前はメイドか何かのつもりか!?」

別に彼女の行為を否定している訳ではない。
しかし、彼女は小さいとは言え女郎だ。
女郎がメイドのように炊事をし、ベッドメイクまでしようとする。
このままだと私はこの娘に自分の小間使いとしての地位を与えてしまいそうな気がしていた。
確かに彼女は女郎だろうとメイドだろうと、自分を生活させてくれるならば何でもいいはずだ。
しかし、私はそんな彼女の策に乗せられるのが嫌だった。

「い、いえ、そんなつもりは……」
「なら、そんなことはしなくてもいい。わかったな? するな」
「……わかりました」

小さくうな垂れて、少女は私の前から消えた。
自分で考えてみても無茶な発言だが、これも皆あの少女を追い出すため。
そう自分に言い聞かせながら、私は冷たく振る舞っていた。



しばらくして湯も満ち、私は服を脱ぐと湯船に浸かった。

「ふぅ……」

妙なことになって心労の種をひとつ抱え込んだが、風呂だけではそれを感じさせなかった。
大きく息をつくと鼻先まで顔を湯船に沈める。
ざばっと湯が溢れたが、それがひとつの贅沢でもあり、心地よかった。

「あ、あの、失礼します……」
「お、おいっ!」

だが、のんびりしていたところに闖入客。
例の少女が私の前に姿を現した。

「お背中、お流しします……」
「さっきいいと言っただろう!」

少女の裸体から顔を背けて叫ぶ。
だが、珍しく怯まずに歩み寄ってきた。

「わたしはメイドじゃありませんから。あなたに女として買われた以上、相応のことをさせていただきます」
「…………」

理屈では彼女に分がある。
ベッドメイクをするなと言った理由が、彼女がメイドではないからというのならば、女郎が女郎の仕事をするのにそれを拒む謂れはない。
少女も私の動揺を異論なしと理解したのか、黙って手桶で身体に湯を浴びせると、そのまま湯船の中に入ろうとした。

「…………」
「……す、好きにしてくださって構いません。わたしはじっとしてますから……」

声が震えていた。
少女がどのような経験を積んできたか、私には知る術がない。
しかし、明らかに男を迎え入れるには無理のある身体つきだ。
男という存在自体に恐怖を感じ、それでも男を求めねばならない。
それが少女の悲しい性だった。

「……無理はするな」
「む、無理なんてしていません」
「嘘を言うな、震えている癖に」
「なら、震えないようにしてください。お願いします」
「…………」

少女の覚悟はそれなりのようだった。
ここで自分の存在意義を喪失させれば、もう明日からはここにいられなくなる。
悲壮な思いが、彼女を強くしていた。

「……私の負けだ。済まない」
「えっ?」
「私は妻を愛している。妻以外の女を、たとえ遊びでさえ抱くつもりはない」
「…………」
「お前を追い詰めたのは私のせいだ。許せ」
「そんな……」
「頼むから出てくれ。そしてベッドメイクをしてくれ。頼む」
「……わかりました。出ます」

少女は私に諭されて、静かに湯船から出た。
私は寂しげなその背中に向かって告げる。

「タオルは適当に使え。それ以外にも必要に駆られたらアパートのものは好きに使って構わない」
「……わかりました」
「それから……もう一度謝る。済まなかった」

少女は最後にそっと、一度だけ振り返ってくれた。
ほっとするような、そんな笑顔。
言葉はなかったが、私の気持ちは通じたように思えた。



風呂から上がると、少女が私を待っていた。
自分で探したのか、手にはバスタオルの他に下着とパジャマ。
どうも許可されて調子に乗っているらしい。

「おい、お前……」
「失礼します」

有無を言わさず私の身体にバスタオルを宛がってきた。
私は咄嗟に抵抗したが、無駄な努力だと悟り、大人しくしていた。

「……有り難う御座います」
「…………」

これは逆らわなかったことへの礼なのだろう。
私は沈黙で返したが、不思議な心地だった。
しかし、少女の手が下半身に伸びた時は、流石の私も声を上げた。

「お、おいっ、そこは――」
「わかってます」
「な、なにがわかって――」

何もわかってなどいない。
少女は執拗に私の局部を拭い、必要以上に水気を取った。

「も、もういいからやめ――」

しかし、私も生物学上は男だ。
感情的なもの以外にも本能というものが存在し、少女の物理的な接触に抵抗し得る絶対的な力を欠いていた。
少女の顔がバスタオルに隠れ、感触がざらついたタオル地からぬめりとしたものに変わった時、私は情けなくも声を上げてしまった。

「くっ!」

既にバスタオルは床に落ちていた。
少女は私の腰に手を回して逃げられないようにしながら、小さな口で私を捕らえた。
そして尻を愛撫しながら舌で念入りに唾液を絡ませる。
充分に唾液を塗し滑りがよくなったのを確認すると、少女は唇をすぼめて顔を前後に動かし始めた。

「んっ、んっ、んんっ……」

少女は鼻で声を上げる。
つい少女の口内に没頭しそうになる私と同様、彼女も私を感じさせることに集中していた。
あまりに小さい口のため、激しい動きをすると時折歯がかする。
だがそれ以上にきつい締め付けと温かい感触に、私は妻の身体を思い出していた。

「くっ、ううっ……」

声が出る。
私は目を細め、快楽に溺れそうになった。
受け身だけでなく自分でもそれを引き出そうと思い、ぼんやりした思考で頭を掴んで激しく揺さ振ろうとした。
が――手の感触で気がついた。
これは私の妻ではない。
小さな頭、長い黒髪、そして藍色の瞳……全てが違う。
私は正気に戻ると、自分に奉仕している娘の身体を突き飛ばした。

「やめろっ!」

崩れ落ちる少女。
唾液に汚れた口は、ぽかんと開いたままになっていた。

「ど、ど、どういうつもりなんだ、お前は!? 今すぐここから出て行けっ!!」
「…………」

呆然として身動きひとつしない少女。
そんな少女の眼前には、彼女の唾液に濡れて赤黒く光る自分があった。
それは温かく柔らかな少女の肉を求めて脈動している。
あまりに嫌らしいその光景を嫌悪し、私は逃げるように再び浴室に戻った。



身体を湯で温め直して浴室を出た時、そこに少女の姿はなかった。
私は恐らく少女の手によって畳まれたのであろうバスタオルを取って身体を拭くと、置いてあった下着とパジャマを身に着け、ベッドへと向かった。

「…………」

寝室にはまだ少女の姿があった。
うつむいたまま、私の裁きを待っている。
私の見ていないところで出て行くことは、流石に出来なかったのだろう。

「……どうした?」
「…………」

幾分冷静さを取り戻した私。
少女にもそれなりの考えがあり、こうしたのだということも理解出来る。
しかし、これはいいきっかけでもあった。

「出て行けと言ったのを聞いていなかったのか?」
「……いいえ」
「なら何故まだここにいる?」
「謝りたいと……思って……」
「そうか。確かにお前は私に謝罪すべきことをした」
「…………」

少女は黙っている。
苦しそうな顔をしていたが、涙は見せなかった。

「どうした? 謝らないのか?」
「……ごめんなさい」
「これで気は済んだか?」
「…………」
「まあ、そんなことはどうでもいい。私はお前の謝罪を聞いた。次はお前が出ていく番だ」

冷たく最後通告をする。
だが、少女は応えずにか細い声で私に訊ねた。

「……どうしたら、わたしを許してくれますか?」
「お前が出ていく、それだけだ」
「…………」
「どうした?」
「では、言い方を変えます。どうしたら、わたしを抱いてくれますか?」

少女は顔を上げ、藍の瞳で私を見つめてはっきりと言った。

「……何があっても、私はお前を抱くことはない。私が抱くのは愛する妻だけだ」
「……そう、ですか……」
「だからここにはお前を必要とするものは何もない。お前はお前を求める相手を探した方がいい。その方が幸せだ」

それは事実だった。
私が少女を頑なに拒んでいる以上、いくら金があろうと彼女が幸せになれるはずがない。
それが、私が少女に注いでやれる最大限の愛情だった。
だが、少女は私の言葉に屈することなく、はっきりと言い返そうとする。

「……あなたの言うこと、わたしにもわかります」
「なら、問題はあるまい。違うか?」
「でも……わたしが求めているのは幸せじゃない。わたしが求めているのは、あなただから……」

私には、それ以上返す言葉が見つからなかった。



やっぱり私には、女というものが理解出来なかった。
私がこの少女と出遭ってからまだ丸一日しか経過していない。
なのに何故彼女は私を愛しているようなことを口にするのだろう?

たった一枚の銀貨。
私が彼女に与えられるのは優しさでもなければ同情でもなく、ただそれだけだった。
それが恋に変わるなんて信じようとする方が間違っている。
私はそう結論づけると、当初の考えの通り、この少女は私の金が目当ての娘なのだと思うことにした。
それが一番、自然な回答だった。

「……寝る」

おもむろにそれだけ言うと、私は少女に背を向け、ベッドの中に入った。
更にベッドの中でも壁に向かって丸くなる。

「…………」

少女からの返事はない。
ただ、衣擦れの音だけが響いた。
ベッドに何者かが入り込んでくる感触。
私は固く目を閉じ、何も考えないように努めた。



再び朝が訪れた。
しかし、ベッドの中に少女の姿はない。
気配は台所になり、彼女は恐らく朝食の支度をしていると思われた。

「……おはよう」

小さく挨拶をする。
どうも少女がここにいることを許可しているようで、少し気まずかった。
が、少女は質素なスカートをなびかせてくるりと振り返ると、昨晩の悶着などなかったように、元気に挨拶を返した。

「おはようございます!」
「あ、ああ……」
「嫌いなものとか、特にありませんよね?」
「だから昨日も言ったろう。嫌いなものを買い置きする馬鹿がどこにいる?」
「あっ、そうでした」

恥ずかしそうに笑っている。
どうも調子が狂う。
少女が求めているのはこんな日常なのかもしれないが、私は求めてなどいない。
妻のいないこの街で求めているのは常に無感情であり、明るい日常など私にとっては悪だった。

私は少女の作った朝食を一緒に摂り、少女の手を借りて着替えをした。
しかしその間には私からかけられる労りの言葉は一切なく、少女の発言は空回りしていた。
そして後は会社に行くだけになったその時、私はようやく口を開いた。

「……スカートを脱げ」
「えっ?」
「いいからさっさと脱ぐんだ!」

声がきつくなる。
今からいきなり抱かれるとは少女も流石に思わない。
昨日のこともあって、驚きを露にしながらも、私の言葉に黙って従った。

「……脱ぎました」
「下着も脱げ」
「は、はい」
「よし。ではこっちに来い!」

私は少女の手からまだ温もりの残るスカートと下着を奪い取ると、そのまま強引に手を取って浴室へと連れていった。
下半身だけ裸にされた少女は、大人しく私に引かれていく。
少女のまだ生え揃わぬ様子が彼女のまだ男を相手にするには若すぎる年齢を証明しており、アンバランスな卑猥さを醸し出していた。

「ここなら問題はないな」
「……はい」

少女も私の意図するところを察したのか、小さくうなずいて両手を後ろに回し、背中を向けてきた。
昨日よりも時間的余裕もあったので、私は念入りに少女の手首を縛ると、今度は水道の蛇口に結び付けた。

「食事は今持ってくる。喉が渇いたら風呂の水を飲め。いいな?」
「……はい」

昨日の失敗を考慮しているとは言え、より冷酷な扱いだった。
だが、少女は文句も言わず、ただ黙って唇を噛み締めている。
今の状態では致し方ない処置で、少女自身もよく理解していたのだ。
これを拒めばここにはいられない。
悲しい二者択一だった。



仕事が忙しいのはある意味私にとって救いだった。
無駄な時間が出来ればついアパートに置いてきた少女のことを考えてしまう。
非人道的な扱いをしていることに心を痛めてはいたが、彼女の存在をあのように位置づけている以上、これはしなければならないことだった。
だが、肉付きの薄いお尻でずっと冷たいタイルの上に座らせておくことを思うと、胸がぞっと寒くなった。
私は最低限の残業をこなすと、同僚に適当に言い訳をして急いで帰宅した。

「只今帰った」
「お、おかえりなさい……」

少女は私を笑顔で出迎えたが、それにはかなりの無理があった。
板張りの部屋よりもタイルの上と言うのは想像していた以上に過酷だったようだ。
少女の顔は青褪め、唇は紫色になっていた。
与えた食事は昨日よりも遥かにまともなものだったが、それはあまり功を奏した様子もなく、半分ほど残されていた。

「待っていろ、今すぐ風呂を用意してやるから」
「あ、有り難う御座います……」

少女はらしくもない私の申し出を拒まなかった。
恐らく自分にその必要を感じているからに違いない。
実際、縛めを解いて自由にしてやっても、すぐに動き出すことはなく、ぶるぶると震えていた。

「……寒かったか?」
「い、いえ、そんなことは……」
「嘘を言うな。自分の様子を見てみろ」

素っ気無くそう促す一方で、私は風呂桶の栓を抜き、水を全部流す。
私は流れ出てきた水をさっと避ける。
が、少女にその体力はなく、タイルの上にへたり込んだままだった。

「強がるからだ。ほら」
「あっ!」

少女の膝の裏に腕を回して持ち上げる。
押し寄せてきた水が少女を水浸しにする寸前に、何とか回避することに成功した。

「軽いな、お前」
「そ、そんなことよりも、服が汚れて……」

少女は自らの失禁を気にしているらしい。
確かに風呂場で下半身を裸にしておいたのはそういう意図があった。
だが、私は気にも留めずに少女に言う。

「どうせすぐ風呂に入るんだ。それに服は汚れても洗えるからな」
「……私が、お洗濯させていただきます……」
「お前の責任だからな。好きにしろ」
「はい、好きにします」

ようやく少女が笑顔を見せた。
思わず惹かれそうになってしまう、純な瞳だ。
私は自制心を振り絞って頭を左右に振ると、全てを忘れようとした。



風呂はすぐに熱いお湯でいっぱいになった。
私の腕の中にいたおかげで少女の震えは止まったが、ずっと同じ体勢でいさせられたことで、思うように身体が動かせない様子だった。

「風呂、独りでも平気か?」
「……はい」
「そうか。なら……」

腕に抱えたまま、巧く調整して爪先からお湯の中に入れる。
足だけ湯船に浸からせた後は、服を上にずらして全身を沈めた。

「あ、有り難う御座います……」
「気にするな。では、服は出たところに置いておく」
「はい」

湯船に沈んだ少女の裸体が目の毒だったが、私は敢えて視界に入れないようにし、脱がせた服を手に浴室を後にした。

「さてと……」

少女が風呂に入っている間にさっと楽な服装に着替える。
そしてそのまま夕食の支度に取り掛かった。
昨晩少女に作ってもらったメニューと大して変わらぬ料理。
そもそも買い置きしていた食材に限りがあるため、凝ったものは用意できないのだ。
その代わり手早く用意することが出来る。
少女が風呂を出る頃には、もう食べ始める準備が整っていた。

「あ……」
「何を驚く? 先に食べるぞ」
「あ、はい」

頭の先から湯気を立てている少女を尻目に、私は食べ始めた。
少女も慌てて席に着くと、自分に用意された食事を摂った。

「あ、あの……」
「何だ?」
「す、済みませんでした。迷惑をかけたばかりか食事まで……」
「気にするな。手が空いたから作っただけだ」
「でも……」
「いいから黙って食え。お前が後片付けをしている間、私は風呂に入ってくる」
「あ、はい」

先に食事を終えた私は、少女の食事風景を眺めることもなく、とっとと席を立って浴室に向かった。



「…………」

湯船に浸かっても、妙な気分だった。
特別な香料を使っている訳ではないのに、女は女特有の匂いを発する。
あの少女も女になり始めて自然に身につけたのか、微妙な甘い残り香を浴室全体に残していた。

昨日のような失敗を犯してはならない。
特にあの娘は明らかに私の失敗を待ち望んでいるのだ。
だが、眠らせておいた男が女の香りで目覚めようとしている。
それは私にとって、危険極まりないことだった。

「失礼します……」

予期していた通り、少女がやってきた。
昨日叱責を受けても尚、裸で私の前にやってくる。

「洗い物は終えたのか?」
「はい」
「ベッドメイクは?」
「終わりました」
「後は……」
「お背中、流します……」

私にはもう、拒む理由が見つからなかった。

「……物好きな奴だ」

負け惜しみとも取れる減らず口を叩くと、私は前を隠しながら湯船を出た。
変に抵抗するよりも、大人しく背中を流させた方がマシだと思えたからだ。

私は少女に背中を委ねるとじっとした。

「痛かったら、言ってくださいね」
「ああ」

泡立てたスポンジで私の背中を擦る。
あまり馴れていないのか、手つきはたどたどしく、お世辞にも上手とは言えなかった。

「……あまり、気持ちよくはないな」
「……ご、ごめんなさい、わたし、下手で……」
「気にするな」

気にはしていなかった。
これは私の欲求を満たすというよりも、少女の気持ちを満足させるためだけの行為で、私としてはどうでもよかった。
だが、私の率直な意見は多少なりとも少女を傷つけたらしい。
すぐに感触が別のものへと変化したのだ。

「お、おい、お前……」
「変なことはしませんから。だから安心して下さい」
「そ、そう言われても……」

なんと少女は自分の身体を使って洗い始めたのだ。
彼女も胸が薄いとは言え、それなりに男とは違った身体をしている。
柔らかな感触に私は動揺を隠せなかった。

「背中を流されることくらい、奥様を裏切らないことにはならないと思います……」
「……そ、そういう問題じゃない」
「それに……偶然何かが起こっても、わたしは気にしませんから……」
「私が気にする」
「わたしは……あなた自身には触れませんから。だから……」
「…………」

それ以上、会話はなかった。
少女はひたすら背中から自分の肉体を使って私を愛撫し、小さく漏らした私のうめき声で全ては終わった。
手桶を使って私に湯を浴びせると、何事もなかったかのように流され消えた。

「……わたしも温まってよろしいですか?」
「…………」

もう沈黙でしか返せない。
少女は私の後からするりと湯船に入り、ちょこんと上に乗った。
小さな身体は私の腕の中にすっぽりと収まる。
狭い浴槽の中で触れた柔らかい少女の肌は、私の男を再び呼び覚ますのに充分過ぎる程だった。

「…………」
「…………」

だが、私は何も言わない。
少女も一言も発しない。
私は少女の小さなお尻を押し上げてしまっていたが、彼女は身じろぎひとつせず、私の上に乗っていた。
危険な時はしばらく続き、何事もなく終わりを迎えた。



「……さっきは済まなかった」

浴室を出て、私は少女に謝罪した。
だが、彼女は何についての謝罪なのか明確に理解しながらも、ひとことも言葉を発しなかった。
そしてそれが救いであることは、お互いの共通認識だった。



少女にバスタオルで身体を拭かれ、寝間着に着替える。
私が寝室に赴くと、彼女は裸のまま私の後に着いてきた。

「……どうしてだ?」
「服がありませんから」
「いつもの服で寝てはいけないのか?」
「それではあなたを汚します」
「……好きにしろ」
「はい」

結局また、私は少女を拒めなかった。
私は昨日と同様に壁に向かって丸くなり、少女は私を追ってベッドに潜り込む。

「…………」

その日はなかなか寝付けなかった。
私の匂いしかしなかったベッドが、たった一晩で違う人間の匂いを残している。
それは紛れもなく、この少女の香りだった。
意識してなのか無意識なのか、今もこうして私の背中に擦り寄ってくる。
このまま身体を反転させて、きつく抱き締めてやりたい欲求に駆られながら、私はなかなか寝付けぬ夜を過ごした。



また今日も朝が来た。
昨日と同じく、少女はもうベッドからは消えていた。
呑気に鼻歌を歌いながら朝食の準備をしている。

「……おはよう」
「おはようございます!」
「朝から元気だな」
「ええ」

眠そうな私に笑顔で返す。
さも若奥様然とした態度が気になったが、余計なことを言う気力がなかった。

「あ、あの……」
「何だ?」

朝食を摂っている最中、少女がおずおずと話しかけてきた。

「きょ、今日は、その……」
「はっきり言え」
「はい。あの、お風呂場は勘弁して欲しいんですが……」
「当然だ」
「えっ?」

素っ気無い私の返答に、少女は驚きの声を上げる。
だが、私は気にせず口の中の物を噛み下しながら説明してやった。

「余計な手間を取らせるだけだからな」
「そ、それは……」
「今日は変える。だからさっさと食べろ」
「は、はい!」

そして食事を終え、少女の手を借りながら出社準備を整えた。
後はアパートを出るだけになると、少女は不安そうな目で私を見つめてきた。

「あ、あの、今日は……」
「取り敢えず下を脱げ」
「はい」

少女は言われるがままにスカートと下着を脱ぎ、私に差し出す。
この時だけは冷酷に振る舞わなければならないのが辛いが、感情を殺してそれを受け取った。

「両手を後ろに回して背中を向けろ」
「は、はい」

少女は言われた通りにした。
今まで気にも留めていなかったが、この二日間の拘束で、少女の手首にはうっすらと痣が残っていた。
私はそれを見て哀れに思ったが、今までと同じようにきつく縛り上げた。

「これで終わりだ」

そう言って少女に正面を向かせる。
今までとは比べ物にもならない扱いに少女は驚いていたが、一切何も口にしなかった。

「取り敢えずトイレのドアは開けておくから、自由に用は足せるはずだ。食事と飲み物はテーブルの上に置いておく。難儀かもしれないが我慢してくれ」
「……はい」
「そうやって手を使えなくしておけば、玄関のドアを開けることは不可能だろうしな。だから自由にしてくれ」
「……有り難う御座います」

少女の礼の言葉は耳にしたが、それについては何も言わずに、私はそのままアパートを出て会社に向かった。
少女に情けをかけている自分の姿がよくわかる。
慕ってくれるこの少女にこれ以上想いを寄せては危険だということも。
しかし、自分の感情を押し殺す目的のために彼女を惨い目に遭わせることにはもう耐えられそうもなかった。

心が錯綜している。
今日は午前中から仕事が手につかなかった。



どうにも耐え兼ねて、私は昼休みを利用して会社を抜け出した。
一目少女の様子を見ようとしたのだが、それなりの理由を作る必要もあった。
だから私はなくなりかけていた食材を多めに市場で買い込み、ついでに少女に似合いそうな簡素な洋服を買った。
まるでデート直前の少年のように心を沸き立たせながら、私は少女の待つアパートへと急いだ。
しかし、そこで見た光景は、私の想像とは違っていたのだ。

「あ……」
「お、おかえりなさい……」

少女の縛めは解けていた。
ただそれだけのことで、彼女は座って大人しくしていた。
しかし、脱がしたはずのスカートは身に着けられており、至って快適そうな様子だった。

「きょ、今日は会社を抜けて買い出しに行ってきた」
「そ、そうですか……」

ぎこちない会話。
お互いに目を見て喋っていない。

「と、取り敢えずこれ、仕舞っておいてくれ」
「は、はい」

少女は震える私の手から、食材が詰まった袋を受け取る。
私はこれ以上見ていられなくて、押し付けるようにするとアパートを飛び出した。

「くそっ……」

別に彼女は何のやましいこともしていない。
ただ、私のしたことを裏切った。
私が彼女に与えた枷は確かに酷いものだったかもしれない。
しかし、お互いに理解した上でのことだった。
不釣り合いな二人が共存するためには特別なルールが必要だったし、それが確かなものを約束してくれた。
だが、それが無意味なものだと判った今――もう、少女をあのアパートに置いておくことは出来なくなってしまった。



喪失感を紛らわすように私は仕事に没頭した。
まるでこの街に来たばかりの頃のような働きぶりだった。
全てを忘れ、仕事に打ち込む。
今の私にはそれが必要だった。
昨日とは打って変わって残業をし、一番最後まで営業所に残っていた。
そして日付も変わろうとした頃、ようやくあのアパートに帰る。
唯一の安らぎの場所も、今ではそうでなくなっていた。

「…………」

部屋は薄暗かった。
私は昼間の件で、少女はもうここを出ていったのだと思った。
しかし、それはただの願望にしか過ぎなかったことを、私はすぐに思い知らされることになる。

「お、おいっ、お前っ!」
「お、お帰りなさい……」

空気が違っていた。
暗闇の中、血臭が混じる。

「お洋服、有り難う御座いました……」
「おいっ! おいっ、しっかりしろ!」

私が見た少女は、昼間渡した荷物の中に一緒にされていた服を抱き締めていた。
だが、それだけではない。
彼女は……そう、両脚の腱を、自らの手で切っていたのだ。

「どういうつもりだ!? おいっ!」
「こ、こうすれば……あなたが私を縛らなくても済むと思って……」
「馬鹿野郎!!」
「ご、ごめんなさい、わたし……」
「あれは勝手に解けたんだ。そうだろう!?」
「い、いえ、違うんです……」
「とにかくそんなことはどうでもいい! 医者を!!」

慌てて医者を呼びに行こうとする。
しかし、少女の手がそれを食い止めた。

「待って……」
「おいっ!」
「お願いですから、ひとつだけ、わたしのわがままを……」
「何だ、早く言え!」
「名前、呼んでください。一度きりでいいので……」
「わかった、呼んでや――」

そこで言葉が詰まった。
私は愚かにも、この少女の名前を知らなかったのだ。

「お前、名前は?」
「……忘れました。でも、わたしはこれでもうあなたのものです。今ここで、わたしに名前を下さい……」

少女は哀願する。
大量に失血したせいで、その頬はいつも以上に青褪めていた。
ここにいたい、ただそれだけのために少女は死ぬ思いをして自分の自由を自らの手で断ったのだ。
その想いは、突き付けられた事実はあまりに強大で、今更躊躇うことなど出来なかった。
私は少女の想いを受け、彼女に自分の決めた名を与えた。

「銀貨の出逢いだからシルバーに似たシルヴィ。これからお前はシルヴィだ。いいな?」
「は、はい……素敵な名前、有り難う御座います……」
「それから――」

私は感激に涙ぐむシルヴィについと顔を近づけ、そっとくちづけをした。

「これが私の答えだ、シルヴィ」
「は、はいっ」





こうして私とシルヴィは不思議な形で結ばれた。
妻と子供を遠方に残してはいるが、それを理由に彼女を拒むことはやめた。
自らの腱を切った少女はかろうじて一命を取り留め、不自由な身体ながらも忙しい私に尽くしてくれる。

シルヴィに子供が出来たとわかったのはしばらくしてからのことだ。
私は二人の子供をきちんと育てようと心に決めている。
まだ私のこの街での生活は終わる兆しすら見えない。
しかし――私は少しだけ、この街が好きになった。



Fin


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