――午後十一時二十三分、摂氏マイナス十一度。深夜の標茶町は、極寒の世界に包まれている。
「ううう……」
 微かに漏れ出るうめき声。深い溜息を吐けば肺も凍りそうな程の冷気が、いつもの減らず口すら奪っていた。
 頭に思い描いていたのはキラキラとしたダイヤモンドダストの幻想的な光景だろうか。テレビの映像越しに伝わる感動は、残念ながら本州人に真冬の北海道への危機意識を教えてはくれなかった。



降るはずのない

Written by Eiji Takashima




「ね、タンチョウが見たいな」
 初めて出来た彼女がふとそうねだってきたのは、十二月上旬の、とあるこたつの中での出来事だった。
「……お前、わっかりやすいなぁ」
 テレビでは今まさに、タンチョウの舞い踊る姿が映し出されてる最中だった。こんもりと厚着したレポーターが雲のような息を吐きながら、感動混じりのコメントを伝えている。
「ふふ、わかりにくい方がいい?」
 落ち着きのないニュース番組は早くも画面が切り替わり、賑やかに別の内容を表示している。それは足早に移りゆくこの平成のご時世を象徴しているようで……というより、この目の前の女の子の台詞に直結して、ついドキッとさせられてしまう。
「もう、そういうのは卒業したんでしょ?」
 小悪魔っぽい口調と視線で迫ってくる、この如何にも危なっかしそうな子が彼女になるに至っての経緯は、もう涙なしでは語れない。
 当人は全く認識していない様子だが、それはもう四六時中謎めいた言動に引っかき回され、精神的にも疲弊させられ通しだったのだ。ようやく結ばれた今となってはその必要もなくなったのかほぼなりを潜めたが、チャンスあらばまた元の恋愛ゲームに戻ってやろうと手ぐすね引いて待ち構えているのだから油断ならない。
「出来れば、そう願いたいと思ってるよ」
 心底うんざりした様子で軽く手を振って返す。でも、正直なところそこまでではない自分がいる。あの頃はあの頃で、いつも賑やかでドキドキしてて、落ち着きや安らぎこそないけれど毎日がノンストップバトルのようで楽しかった。
 とは言え、あの頃の二人に戻りたいなんて考えたことはない。恋人未満でふらふら不安定な関係よりは、やっぱり今の確かに結ばれた二人でいたいと願っていた。
「ん、そうだね。しぃも同感」
 『しぃ』と自らを呼ぶ、僕の彼女。初めて会った時から、その子供っぽい一人称を使い続けている。
 いつからそうしてるんだろって何度も考えたし、直接質問したことだってあるけど、決して教えてくれなかった。当人曰く「ミステリアスな美女を目指してる」とのことだ。それが性格にも影響しまくって実に厄介な結果を生んでいるのだが、それが生き様とまで言われては否定することなんて出来ない。
「で? どうするんだ?」
「どうするって……連れてってくれるの?」
 瞳をキラキラさせながら身を乗り出してくる。
 タンチョウを見たいと彼女が言ったから、溺愛状態の彼氏としては万難を排しても見せてあげたいと思う。もちろん、そんな素振りをちらっとでも見せようものなら調子に乗ってくる展開がはっきり見えるから、あっさりOKなんてしないけれど。
「まー、気分とスケジュール様の都合が揃えばな」
「なにそれ。はっきりしてくれないとしぃも予定組めないよ。年末で忙しいんだし」
「忙しいのはこっちも一緒だって。だからあんま期待しないで待っててくれよ。一応スケジュール調整してみるから」
 そう言いはしたけれど、予定はしっかり空いていた。
 初めて出来た、僕の彼女。初めて二人で過ごす年末年始――と言うと何ら感慨めいたものは生まれないけど、言い換えれば初めてのクリスマス。彼氏でも彼女でもないクリスマスだったら何度か経験したけれど、恋人の聖夜としては初めてだ。期待しないはずがない。
「しぃは北海道、行くの初めてなんだよねー」
「こいつ、もう北海道行き確定してるような物言いだな」
「だって連れてってくれるんでしょ、ゆう君?」
 ほらまたあの表情。あの頃どれだけ翻弄されたことか。回数こそ激減したけど、今でもここぞという時には繰り出してくる。そしてそれは僕にとって絶対不可避のクリティカルヒットなのだ。
「連れてってくれないとつねるよ」
「つねるってお前……うわ、やめろっ」
 こたつの中で、器用に足でつねってくる。足だからもちろん痛くないけど、それでも意図はちゃんと伝わる。
「ふふ、痛くないくせにー」
「ビックリしたんだよ!」
「ゆう君はMだもんねー、しかも真性」
「違うって!」
 言うに事欠いて人をMとは何事か。こっちがMなんじゃない、そっちがSなだけだろうが。
「それと……もういい大人なんだし、ゆう君って呼ぶのやめろよ」
「なんで? ゆう君ってカワイイじゃない」
「そんなこと言ってると、こっちも呼び方変えるぞ」
 『しぃ』と自らを呼ぶ、僕の彼女。周囲にも、そう呼ばれることを望んでいた。それは独り善がりな願望に留まらず周知徹底されていたから、案外本名を知らない人間も多いんじゃないかとすら思えるほどだ。
「それでもいいのか、中原椎南?」
 それが彼女のフルネーム。椎南曰く、あまり好きじゃないそうだ。でも、こっちは逆に椎南って名前を気に入ってる。むしろ、「しぃ」って愛称の方がしっくり来ないとずっと前から思っていたくらいだ。
「……よくない。ごめん」
 さっきまでの小悪魔チックな素振りが嘘のように、椎南はしゅんとなって小さく項垂れた。
 くるくると変わる椎南の表情が僕にとってクリティカルである以上に、この本名攻撃は致命的な効果を与えてしまう。そう認識していたはずなのに、つい使ってしまって、その直後にいつも深く後悔するんだ。
「わかってくれればいいんだよ、もういいから」
 そっと手を差し伸べると、頭を撫でてあげる。
「ん……」
 椎南は目を閉じて首を傾け、まるで猫みたいにして僕の手を受け止める。嬉しいのか気持ちいいのか、はたまたそのどっちもなのか。言葉はないから判別はつかないけど、でも必要な行為であるのは明白だった。
「こっちこそごめんな」
 彼氏彼女の関係より遥かに二人の付き合い自体は長かった。幼馴染みなんて揶揄する連中もいるくらいだけど、実際はそこまででもなく、お互いの子供時代については全くの無知だった。
「……これからも、ゆう君って呼んでいい?」
「お前なぁ、懲りるとかそういうのはないのか?」
 片目だけ開けて、こっちの様子を窺ってくる。落ち込みも早いが、それ以上に立ち直りも早いのが特徴だ。
「よくはないけど……まあ、黙認ってヤツだな」
 椎南はOKなのにこっちはNGという不公平な状況。でも、そうでないと拗ねて手がつけられなくなるのは経験上よく知っていた。
「ふふ、ゆう君もワルだね」
「誰のせいだと思ってるんだよ、まったく」
「もう、そんなに怒らないの。これは褒め言葉なんだから」
 そう言ってすぐ、またこたつの中の足がつねってきた。感覚は一緒だったけど、きっと意味合いは違う。さすがにそのくらいは理解できた。
「つねり返したら、怒るか?」
「気になるなら試してみるといいと思うよ」
「……いや、やめとく」
 反撃したら今度は何をされるかわからない。これも経験上よくわかっている。こっちはただ、なすがままになって椎南の攻撃を受け流すだけだ。
「タンチョウのダンス、楽しみだね?」
「……ああ」
 タンチョウの舞は求愛のダンス。でも、こたつの中のバトルはそんなロマンティックな物とは程遠い。
 北の大地に向かえば、少しはこいつもしおらしくなるんだろうか? 実験してみる意味でも、今度の北海道行きは有意義なものになりそうだった。



「ううう、寒い……」
 クリスマスシーズンの北海道。聖夜を迎える札幌の街は、日の高いうちからかなりの賑わいを見せていた。
 千歳空港でレンタカーを借りた後、せっかくだからと札幌観光をしたのは成功だったのかそれとも失敗だったのか。興奮状態と呼んでもいいくらいに膨張した期待と共に、僕たち二人は一路、タンチョウの飛来するという道東へと向かった。
 そこまでは、何の問題もないくらいに順風満帆だったのだが――
「タンチョウ、どこ……いないよ……」
 情報収集は万全だったはずなのに、肝心なことをスルーしていた。
 それは北海道の広さと、そして寒さだった。
「ごめん……」
 途中で寄り道したのも災いしてか、到着したのは真夜中だった。もちろんタンチョウの姿などどこにもない。札幌の賑やかさを見て軽く考えていたのもあって、宿を予約せずにいたのも更なる追い撃ちをかけている。
「ほら、もう車に戻ろう。中ならあったかいから」
 拗ねる椎南にそう促す。暖房の効いたレンタカーの中だけは、極寒のこの地における最後の聖地と言ってもよかった。
「楽しみにしてたのに……」
「わかってるって。ほら、売店でその帽子だって買ったんだもんな」
「一緒に踊れたらいいなって思ってたのに……」
 椎南は道中の売店でもこもこした帽子をゲットしていた。もこもこといっても防寒用ではなく、ぬいぐるみ状になっているだけの話だ。タンチョウをデザインしたと思しきデザインがなかなかに可愛い。
「ごめんな、せっかくのイブなのに……」
 タンチョウを見たいと言ったのは彼女だった。だから、叶えてあげたいと思った。
 でも、それだけじゃなく……タンチョウの求愛のダンスを見ながら二人だけでクリスマスイブを過ごせたらどれだけ素敵だろうって。そんな風に簡単に考えていたんだ。
「もういい、寒いし」
 素っ気なく返すと、椎南はつまらなそうに車の方に引き返した。普段はそんな気を遣わない癖に無意識にドアを開けてあげたのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。
「ふぁぁ、あったかあったか」
 車内のあったかさに、不機嫌なポーズを作っていた椎南もつい頬を緩ませる。
「お茶でも飲む? 冷たいけど」
「しぃはいらない。冷たいの飲んでも寒く感じるだけだし」
「近くに自販機あったらよかったんだけどなぁ」
 不夜城とも言える都内だったら自販機やコンビニで溢れていたというのに、タンチョウの飛来地、しかもあまり観光地化されていないところを選んだおかげで、辺りには人家の明かりもなく、あったかい缶コーヒーのある自販機すらなかった。
「どうする、釧路の方に戻るか? 途中に自販機くらいあったと思うし」
「別にいい。下手に動いてガス欠になられても困るし」
 ガソリンにはまだ余裕があったものの、広い北海道を動き回ったらどうなるか不安になるのも無理はない。札幌市街からここ標茶町に至るまでの道程で、北の大地の広さというものは痛感させられていたのだから。
「……もしかしてゆう君、へこんでる?」
「え?」
「いや、落ち込んでるように見えるから」
 気遣ってくれたのか、さっきまでの不平を隠して優しくこちらを覗ってくる。自分勝手で我が侭な言動ばかりの椎南だけど、決して傍若無人でもなければ人の気持ちが感じられない訳でもない。こうしてたまにだけど見せてくれる優しさが彼女の本質だってことを、僕はよく知っていた。そんな椎南だから、好きになって、彼女にしたいと強く望んだんだ。
「そりゃまあ……ね。今回の旅行の一切合切を任せとけって偉そうに言ったのはこっちだし」
 椎南を驚かせてあげたかった、ただそれだけだ。こんな素敵なイブを用意してくれるなんてって、喜んで欲しかったんだ。でも、残念ながら今回は明らかに裏目っている。
「タンチョウは明日見ればいいよ。今日だけしか来ないってことはないんだし」
「それはそうだけど……でも、今日見せたかったんだ」
 恋人同士になって初めてのクリスマスイブ。二人の十二月二十四日はこれから何度も巡ってくるけど、初めてなのは今回だけだ。そんな記念すべきイブの夜なのに、あったかい缶コーヒーすら買えずにレンタカーの中で縮こまって一夜を明かすなんて悲しすぎる。
「そっか……今夜はイブだもんね」
 椎南も忘れていたはずはないと思う。でも、努めて意識し過ぎないようにしていたのかも知れない。クリスマスという特別な日の力を必要としないくらい、二人の関係は確固たるものなんだと暗に主張している一面もあったのだろう。
「しぃはこういう日にプレゼントするの、ホントは好きじゃないんだけど――」
 そう言いながら、見覚えのある紙袋を取り出して、こっちに差し出してくる。
「はい、クリスマスプレゼントだよ。ゆう君が望んだのは、こういうのじゃないと思うけどね」
「これって……」
「実用品だよ。開けてみて」
 紙袋を受け取って、さっそく中身を確認してみる。そこにあったのは素っ気なくビニールに包まれたままの帽子。椎南とお揃いの、タンチョウの帽子だ。
「こんな夜だもんね。タンチョウがいなくてもしょうがないよ。だからほら……」
 椎南は勝手にビニールの包みを取ると、帽子を僕の頭に被せた。
「あは、やっぱりお似合いだ」
「や、やめろよ、からかうなって」
「しぃよりずっと似合ってると思うよ。まるでゆう君のためにあつらえたみたいだね」
 帽子を脱ごうとする僕を予見してか、先んじてぐいぐいと頭に押し込んでくる。それでなくても名目はクリスマスプレゼントなんだし、脱いだりなんかしたら椎南は烈火のごとく怒るだろう。
「ったく、いったいどういうつもりで……」
「タンチョウの鳴き声ってどんなのだったっけ? ガァガァ? くわくわ?」
 人の言葉を遮って、いきなり話題を転換してくる。相変わらず、唐突で突拍子もない椎南だ。
「急にそんなこと質問されたって……さすがに覚えてないなぁ」
「それもそうだよね。まあ、しぃもゆう君も人間なんだし、ここは人間語で行こうか」
 そう言うと、椎南は車のドアに手をかける。そして、一片の迷いもなく再び極寒の大地へと躍り出た。



「うう、やっぱり寒いねー」
 あまりの寒さにぼやきながらも、椎南は笑顔だった。
「寒いなら外に出なくたって……」
「だめだよ。車じゃ狭すぎるもん」
 そう言って、その場でくるりと一回転。肩にかけていたクリーム色のストールがふわりと広がる。
「ほらほら、こうするとタンチョウみたいでしょ?」
 ストールをタンチョウの翼に見立てているのか、テレビで見た動きを真似している。タンチョウのもこもこ帽子の効果もあってか、そう見えないこともない。
「よし、じゃあ僕も」
「そうこなくっちゃ」
 都合よく白だったダウンジャケットを羽織って、僕も大きく両手を広げる。そのまま腕をバタバタさせながら、不格好なタンチョウの舞を演じて見せた。
「ふふ、ちょっとへぼいよ、ゆう君の舞」
「しょうがないだろ、こっちはダウンジャケットなんだし」
 ごわごわしてる僕とは違って、椎南のストールは天女の羽衣のようにふわふわと踊って見える。
 体験したこともない氷点下の世界。肌もピリピリと痛むけど、だからこそ空気は澄み渡り、幻想的な夜の光景を生み出していた。
「しぃに合わせて。ほら、一緒に」
「わ、わかってるって」
 まるでつがいのタンチョウのように、寄り添って踊り続ける二人。
 冷気が肺の奥まで染み渡って、逆に感覚を麻痺させてきている。喋ると辛いから口数は少ないけど、漏れる白い吐息が言葉のように見えて、不思議と物足りなさは感じなかった。
「あのさ……今更なんだけどね、ゆう君に言いたいことがあったの」
 この距離でないと聞こえないほどの小さな声で、椎南が僕に伝えた。
「言いたいことって……大事なこと?」
「うん、すごく」
 今、この瞬間で大事なこと。漠然とした予感はあった。椎南が切り出さなくとも、こっちから話そうと思ってたくらいだ。
「それって……」
 どくんと心臓が鳴る。舞を合わせていたのを忘れて、一瞬動きを止めてしまう。
「しぃの……名前のことなんだけどね……」
 ――名前? まさかそう来るとは思わなかった。てっきり、二人の今後についてのことだとばかり思っていたのに。
「たぶん、ゆう君は誤解してると思うんだけど……しぃは『椎南』って名前、嫌ってる訳じゃないよ」
「え? それってどういう……」
「フルネームで呼ばれるのが好きじゃないだけ。中原には、悲しい思い出しかないから」
 悲しい思い出? そんなの初めて聞いた。確かに、椎南の子供時代のことは聞いたことなかったけど――
「知りたい?」
「……知りたい」
「知ってもいいことなんてないよ」
「わかってる。でも、椎南のことなら何でも知りたいんだ」
 心から好きになった彼女だから。全てを知った上で包み込んであげたい。いつも強気に見える椎南だけど、強いだけじゃないってことを僕はよく知っていた。
「話したら、泣いちゃうかも」
「それは困るなぁ」
「じゃあ、どうする?」
 その無垢な問いに、一瞬迷った。きっと今なら、どんなことだって椎南は話してくれそうな気がしていた。でも、それを話すことの代償がどのようなものになるのか想像すらつかない。
「そうだな……ならよしとくか。椎南を泣かせたくないし」
「うわ、あっさり断言したね。ちょっと意外」
「そうか?」
「だってゆう君、ずっと気にしてたでしょ? しぃ、気付いてたよ」
「それは……まあ、そうだけどさ」
 頑なに昔の自分を語ろうとしなかった椎南。僕はずっと知りたかったけど、一度も聞こうとしたことはなかった。
「でも、悲しい思い出なんて思い出さなくてもいいよ。僕はそう思う」
 椎南も、僕の子供時代を聞こうとしたことはなかった。それはきっと、語って聞かせたくないことがあるという椎名自身に当てはめて考えていたからなのだろう。
「椎南が中原に悲しい思い出しかないみたいに、僕もゆう君って呼ばれるの……祐二って名前には、悲しい思い出しかなかったから」
「あ……ごめん、それは……」
「いいって別に。でも、椎南に『ゆう君』って呼ばれ続けてたら、そんなに嫌いじゃなくなって来たし」
 祐二とストレートに呼ばれるのは今でも抵抗があった。でも『ゆう君』だったら。椎南が可愛いって言ってくれた『ゆう君』だったら、きっと好きになれると思った。
「でもさ、椎南の場合はなかなかそう簡単にもいかないか」
 軽口を叩くようないつもの口調で、あっさり言い切った。そして椎南のリアクションを待つことなく、両腕を大きく広げる。
「ほら、続き。動いてないと寒いだろ?」
「う、うん」
 戸惑いながらも、再び舞い始める二人。当初の目的も、今ではよく思い出せない。
 何のためにここでタンチョウの真似をしているのか。どうしてわざわざ北海道くんだりまで来たのか。そもそもクリスマスイブの夜に何をしようと思っていたのか。痺れるような冷気が全てを忘れさせていくかのようで――いや、そうじゃない。気持ちが、意思が、純化していっているだけだ。
「椎南はさ……自分の苗字が好きじゃないんだろ?」
「うん……」
「だったらさ……だったら……」
 もう、迷うことはない。今がその瞬間だと、全てが示していた。
「椎南は中原じゃなくなればいいよ。結婚しよう、僕と」
 タンチョウの舞は求愛のダンス。一度は結ばれた二人だけど、もっと深く繋がりたい。
「……く、くわぁ?」
「悪いけど、タンチョウの言葉じゃわからないよ」
「そ、そうだよね、ごめん。でも、いきなりだったからビックリしちゃって……」
 椎南は目を見開いて硬直している。さしもの椎南も、プロポーズされた瞬間ってのは気が動転するのか。
「それで、どうかな?」
「え、ええと……なんて言ったらいいのか……ごめんね、ゆう君。しぃ、口下手だから、その……」
 椎南が口下手だったら、世の中の九割の人間は口下手になってしまう。でも、そのくらい口達者な椎南がうまく言えなくなるくらいだから……その反応自体が、答えを示しているようなものだった。
「言葉に出来ないなら踊ってよ。ほら、こうやって一緒に……」
 そっと指先を取る。凍えるほど冷え切っていて、いつものぬくぬくな椎南とは程遠い。
「一緒に踊っても……いいのかな?」
「今ここでダンスを求めたのは、こっちなんだけど」
「そ、そうだよね。うん……」
 おずおずと踊り始める椎南。僕もそれに合わせてダンスを始める。
 タンチョウの求愛の舞だったはずなのに、いつしか形を変え、ヒトの求愛の舞へと移り変わっていく。でも、椎南は変化したステップに気付いた様子もなく、白い息を吐きながらくるくると舞ってくれた。
「ふふ、ゆう君のおよめさんかぁ……」
「ってことは、プロポーズはOKでいいの?」
「あ」
 明確な返事をする前に、その気になってしまった椎南。でも、そんなうっかりを見せてくれたところも嬉しい。
「ご、ごめんね、なんだか先走っちゃって」
「いいよ。むしろ嬉しいし」
「うわぁ、なんだか恥ずかしいな……でも、そんなことどうでもいいくらい嬉しいって言うか……」
 一旦踊りをやめ、感極まったように改めて僕の手を取る。触れ合った場所は体温を伝えあって、少しだけあたたかくなったように感じた。
「え、ええと、その……あれ、おかしいな? どうして……」
 緊張して強張っているけど、椎南は満面の笑顔。でも、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「嬉し泣きだなんて、しぃらしくないよね。あはは、ごめんね、これじゃ調子狂っちゃうよね」
 椎南は溢れそうになる涙を誤魔化そうと、慌てて拭き取ろうとする。
「だめだよ、拭いちゃ」
 僕はその手を放さなかった。逃がさないようにぎゅっと握り締める。その瞬間、つうっと滴が頬を伝って流れ落ちた。
「降るはずのない冬の北海道で降った雨だもん。もう少し、ちゃんと見せてよ」
 雨は雪へと変わってしまう、真冬の北海道。椎南が見せてくれた可愛い涙の雨も、すぐに凍ってしまいそうだった。
「そんな風にカッコつけて……ゆう君ずるいよ……」
 僕を非難しながらも、椎南は手を振りほどこうとはしない。反対にそっと握り返してくれた。
「やっぱり北海道だからすぐ雪になるのかな。ほら、もう凍り始めてる」
「そ、そうなんだ?」
「どれ、ちょっと味見〜っと……」
 両手を握ったまま顔を近づけて、凍りかけの椎南の涙を唇で掬った。
「ひゃっ、い、いきなりそんな……」
「だって、両手が塞がってるし」
 開き直ってそう言い切る。後で椎南にぽかぽかされるかもしれないけど、そんなことどうでもいいくらいにしてやったりだ。
「まったくもう、ゆう君のいじわる。そんなにしぃをいじめて楽しいの?」
「いじめてるつもりはないんだけどなぁ」
「Mのくせに、生意気なんだから」
 椎南的にはどうしても僕をMってことにしておきたいらしい。別にどっちでもいいけど、今の立ち位置だけは譲るつもりなんてない。
「それより……どうだった、しぃの涙?」
「どうだったって……うん、なんだか幸せな感じかな」
「そーいうんじゃなくて! 乙女の純情味なんだよ。もちろんあめ玉みたいにあま〜いんだよね?」
 頬を赤らめながら聞いてくる椎南。でも、残念ながらお望みの解答は提示できそうもない。
「いや、普通に味はないかな」
「えー」
「涙が飴みたいに甘かったら、絶対どこか身体おかしくしてるぞ」
「それって……糖尿ってこと?」
「まあ、糖尿病患者の涙が甘いかどうかは知らないけど」
 そもそも涙とおしっこをイコールで繋げたくない。どちらにせよ、椎南の涙は微かにしょっぱいかも知れない程度だった。
「そっか……やっぱり甘くないのか……」
「がっかりしたか?」
「ううん、ちっとも。味はわかんないけど、しぃの気持ちはあまあまだし」
「確かに気持ちはあまあまになったな」
 珍しく見せてくれた涙のおかげなのか、こうして触れ合っているからなのか、それともトラブルまみれの聖なる夜にプロポーズ出来たからなのか。きっとそのどれもが原因なんだろう。外気は氷点下だと言うのに、胸の中はとろけそうなほどに甘く、じんわりと幸せがこみ上げてくる。
「ゆう君は……しぃみたいな女の子でいいの?」
「椎南みたいな女の子がいいんだよ」
「ふふ、やっぱりゆう君はMだ」
「そうじゃなきゃ椎南が結婚してくれないなら、別にそれでいいよ」
「うわ、開き直った」
「そもそもプロポーズなんてこっぱずかしいこと、開き直ってないと出来ないだろ」
「う……それもそうだね」
 今更恥ずかしがっていてもしょうがない。これから先の未来を椎南と共に歩んで行きたいなら、もう前進あるのみだ。
「じゃあさ……ゆう君みたいに、しぃも開き直ることにするね」
 改めて、こっちを見据えるように椎南が直視してくる。身長差のせいで軽い上目遣いになって――これが僕の一番弱い角度だってことに気付いた。
「しぃを……ゆう君のおよめさんにしてください」
 ようやく、椎南の口から返事が聞けた。わかりきっていた答えだけど、実際に言葉として聞くと嬉しくてたまらなくなる。
「うん。じゃあこの瞬間から、椎南は僕のお嫁さんね」
「で、ゆう君はおむこさんだ」
「そういうこと」
「なんだかくすぐったい感じだね」
「くすぐったいの、嫌い?」
「ふふ、実は結構好きかも」
 緊張しまくっていた僕と椎南だけど、ようやくいつものように話せるようになった。それは同じように見えてもそこには大きな違いがある。これまでは、好き同士の男女で恋人で、特別だけどやっぱり他人でしかなかった。
 でも、もう違う。二人は夫婦になって――そして家族になったんだ。
「幸せになろうね、椎南」
「うんっ」
 手を取り合ったまま、これから歩みゆく未来を見るように、そっとひとつの星空を見上げる。
 澄み渡る冬空はひたすら高く、どこまでも広がっているように見えた。星たちがようやく気付いてくれたのかと訴えかけているみたいに一斉に瞬き始める。
「すごい星……こんなの東京じゃ絶対お目にかかれないよね」
「タンチョウは拝めなかったけど、この星空は最高だな」
「クリスマスイブだし、結婚記念日になっちゃったし……今日は色々と特別になったね」
「ああ」
 白い息がひとつに重なって、星空へと昇っていく。
 寒さを和らげようと身を寄せ合い、そしていつしか引き寄せるように抱き締め合っていた。
「――あっ」
 その瞬間、つうっと星が流れ落ちた。
「ゆう君、今の見た?」
「もちろん」
「って、ほらまた!」
 思いもかけない流れ星に驚いている暇もなく、次々と星屑を描いて流れ落ちる。
「すごい……こぐま座流星群だよ……」
「そうなの?」
「うん……知ってはいたけど、まさか見られると思ってなかったから……」
 息を呑むような流星雨。
 二人の特別な日を天が祝っているかのようなこの光景に、思わず言葉も忘れて見入っていた。


終わり